第13章・4:ダンテの地獄
炎の音が、街を覆い尽くしていた。
燃え盛る音。
崩れ落ちる音。
叫び声。
嘆きと涙が、
アカイアの首都、そのすべてを濡らしていた。
かつて意味を持っていたもの。
形を保っていたもの。
それらは今――
ただの灰と、記憶へと変わっていた。
……
それは、
神ですら想像し得なかった地獄。
焼け焦げた死体。
押し潰された人々。
痛みから解放を求めて、
終わりを懇願する声。
その中心に――
一人の神が立っていた。
アレス。
戦を司る神。
血に塗れた歴史を幾度も潜り抜けてきた存在。
だが――
その彼ですら、
目の前の光景に言葉を失っていた。
視線を動かすたびに、
地獄は形を変える。
半身を焼かれながら這う者。
上半身だけで前へ進もうとする者。
理解を拒む現実。
(……見つけたら)
(必ず――)
(最も苦しむ形で殺す)
その瞳が、ゆっくりと赤く染まっていく。
だが――
その瞬間。
「……誰か、聞こえるか?」
声が頭の中に響いた。
「……オリヴィオ?」
「お前、何をしている。俺の中に入るな」
「はは……誰かが無事で安心したよ」
少し疲れた声。
「状況は分かるか?」
アレスが低く問う。
「気づいた時には、もうこの有様だ」
オリヴィオの声が僅かに沈む。
「……戦争だ」
「……は?」
「全面戦争だ」
「相手は――」
一瞬の間。
「ブラック・ライツ」
その名を聞いた瞬間、
アレスの瞳が見開かれる。
怒り。
憎悪。
そして――
過去。
まるで、
忘れたはずの悪夢が蘇るように。
その時。
ふわり、と。
誰かの手が、
背後から肩に触れた。
「……っ」
心臓が止まりかける。
振り向く。
そこにあったのは――
懐かしい笑顔。
優しく、
そして残酷な。
(……違う)
(お前は、ここにいるはずがない)
「アレス……」
遠くから呼ばれる声。
だが、
それよりも近くで――
囁きが響く。
「……どうして」
「どうして、あの時……」
女性の声。
「……殺さなかったの?」
(……違う)
(これは幻だ)
「どうして、何もしなかったの?」
「私が連れていかれる時……」
(やめろ)
「あなたの手は――」
「彼らと同じくらい、汚れている」
「……やめろ」
「……アレス」
「やめろ……」
「アレス!!」
「――やめろォォォォォォッ!!」
叫びが、現実へ引き戻す。
「アレス!聞こえているか!」
オリヴィオの声。
「……ああ……」
息が荒い。
「大丈夫か?」
「……問題ない」
無理やり平静を取り戻す。
「時間がない」
オリヴィオが続ける。
「増援は来ない」
「この結界がある限りな」
アレスは空を見上げる。
異様な壁。
「……理由は分かるか?」
「まだだ」
「だが今は――」
「生存者の救出が最優先だ」
短い沈黙。
「……できれば雑魚は殺すなと言いたいが」
「……あいつら、最初から死ぬ気だ」
オリヴィオの視線が地面に落ちる。
そこには、
黒装束の死体がいくつも転がっていた。
「……四方に分かれよう」
別の声が割り込む。
艶やかで、
しかし毒を含んだ声。
「アフロディーテか」
アレスが振り返る。
そこにいたのは、
血に染まった女神。
白いドレスは、すでに紅く染まりきっていた。
「東西南北に散れば、効率は上がる」
彼女は冷静に言う。
「……確かに」
オリヴィオが頷く。
「だが問題は数だ」
「今いるのは三人――」
「……四人だろ」
低く、力強い声。
振り向いた先にいたのは、
ヘラクレス。
全身を煤と傷に覆われながらも、
その存在感は揺るがない。
「動けるのか、ゴリラ」
アフロディーテが皮肉る。
「黙れ」
「今はその気分じゃねぇ」
「……二人とも、やめろ」
オリヴィオが制する。
「作戦はシンプルだ」
「生存者を見つけたら、評議会まで運べ」
「そこが今、唯一安全だ」
その時だった。
ぞくり――
アレスの背筋に、
冷たいものが走る。
瞳が大きく開かれる。
何かを見た。
「……北は、俺が行く」
低く呟く。
「近づく奴は――」
「全員、殺す」
その視線の先には、
まだ誰も気づいていない“何か”があった。
・・・
アレスは、脳へのゼンカ干渉を強制的に遮断した。
そして――
槍を、強く握る。
「……これ以上、悪くなるはずがねぇと思ってたがな」
その視線の先。
広がっていたのは、
常識を超えた地獄だった。
赤黒い糸。
粘つくような“血の糸”に吊るされ――
無数の死体が、
空中に“展示”されていた。
バラバラにされた肉体。
歪んだ四肢。
焼け焦げた皮膚。
それらが、
まるで芸術作品のように配置されている。
顔。
一つとして同じものはない。
恐怖。
絶望。
狂気。
すべてが段階的に並べられ、
最小から最大へと“感情”が設計されていた。
大人の腕が、
動物の胴体に繋がれている。
あり得ない構造。
あり得ない“美学”。
見ているだけで、
耳鳴りのように“声”が響く。
悲鳴が、
脳の奥を掻きむしる。
その瞬間。
耳元で――
囁きが落ちた。
「……綺麗だろ?」
アレスの全身が反応する。
――本能。
“恐怖”。
筋肉が、勝手に動いた。
「――ッ!!」
槍を振るう。
躊躇はない。
生存本能の一撃。
――――――
ブゥゥゥゥゥン!!
凄まじい斬撃。
衝撃波が周囲の瓦礫を吹き飛ばす。
だが――
アレスの顔は、
真っ白だった。
冷や汗が流れる。
重い。
呼吸すら苦しい。
……
「おいおい」
軽い声。
狂ったような笑い。
「気をつけろよ?」
「当たったら困るだろ?」
(……あり得ない)
(確かに頭を狙った)
(なのに――)
ゆっくりと、
視線を上げる。
そこに立っていたのは――
“人の形をした何か”。
だが、
それは人間ではなかった。
整ったスーツ。
皺一つない優雅な装い。
だがその内側は――
悪夢そのもの。
異様に白い肌。
黒く染まった手。
鋭く伸びた爪。
そして――
口。
無数の糸で縫い合わされている。
同じ糸が、
空へと繋がっている。
瞳は赤。
まるで、
地獄の炎そのもの。
「……ああ、分かった」
そいつは楽しそうに言う。
「なんで俺が生きてるか、考えてるんだろ?」
アレスは黙る。
だがその視線が答えだった。
次の瞬間。
常識が、壊れた。
“そいつ”は、
自分の首を掴み――
躊躇なく、
引きちぎった。
――ブチッ。
頭が外れる。
だが。
血は出ない。
痛みもない。
ただ――
笑っている。
狂ったまま。
「な……」
言葉が出ない。
「お前……何だ……」
「俺か?」
そいつは、
何事もなかったかのように頭を戻す。
「ただのしがない――」
「人形遣いさ」
糸が、軋む。
「名前は“パペット”」
「操り人形の王だ」
「……人形遣い?」
「そう」
パペットは両手を広げる。
その瞬間。
――――――
無数の死体が、
一斉に動き出した。
糸に操られ、
宙に浮かび、
生きているかのように。
「どうだ?」
歪んだ笑み。
「戦神よ」
「お前も――」
「俺の人形になりたいか?」
……
アレスは、
もはや過去の悪夢に囚われている暇などなかった。
目の前にあるのは、
それ以上の地獄。
理屈も、
理性も、
意味も通じない存在。
“糸を断ち切ったはずの人形”。
その存在そのものが、
この世界の法則を嘲笑っていた。




