第13章・1:前触れ
アテナイの街は、かつてないほどの幸福に満ちていた。
父も、母も、子供たちも――
誰もが、心からの笑顔を浮かべている。
二十年もの間、待ち続けてきた日。
その瞬間が、ついに訪れたのだ。
橙と紅の光に包まれた街並みの中、
神々の評議会はゆっくりとアカイアの地へと近づいていた。
祭りの屋台。
甘い香りを漂わせる料理。
子供たちの笑い声が響く小さな遊戯。
この王国が、長い間忘れていた光景。
普段は冷たく距離を保つ神々でさえ、
その光景を前に、わずかに頬を緩めていた。
(……美しいわね)
アフロディーテは、広がる幸福を静かに見つめる。
遠くから、影の中で――
ゼウスもまた、自らの王国を見下ろしていた。
かつてと同じように、
いや、それ以上に輝いて見える街。
(長い時を経て……ついにこの瞬間が訪れた)
その視線は、王としての誇りを宿していた。
(幾度もの努力と試みの末……
この国は、再び相応しい評価を得た)
そして、
わずかに人間らしい微笑を浮かべる。
(……これが、人の言う幸福か)
(悪くない)
――――――――――
【同時刻:ハデス寮】
シュウは、深い緑を基調とした
上品で堂々とした装いに身を包んでいた。
「おい、エデン! 早くしろ!」
階段の上から声を張り上げる。
「本当に遅いわね」
ユキが小さくため息をついた。
その瞬間、
シュウは思わず言葉を失う。
目の前に立つ二人の少女は、
まるで別人のように華やかだった。
ヴァイオレットは、
肩を美しく露出した
紫のシルクドレス。
身体のラインに沿う優雅な仕立てが、
彼女の繊細な魅力を引き立てていた。
一方、ユキは
肩から膝下までを覆うベルベットのドレス。
落ち着いた気品の中に、
動きやすさを考慮した裾のスリットが施されている。
「……綺麗だ」
シュウは思わず呟いた。
「ありがとう」
ユキが淡々と答える。
「……あ、ありがとう」
ヴァイオレットは少し照れながら微笑んだ。
「今行く!」
部屋の奥からエデンの声が響く。
エデンは鏡の前で、
何度も服の乱れを整えていた。
黒のハイネックの装いの上から、
紫のロングコートを羽織っている。
(今日がイベントだって、完全に忘れてたな……)
少しだけ苦笑する。
(テンザクがいなければ、こんな服すら用意できなかっただろう)
ふと、
再び鏡へと視線を向ける。
その中に映る自分の姿。
しかし、
そこにあるはずの輪郭が、
徐々に曖昧になっていく。
まるで、影が静かに侵食しているかのように。
半分ほど、
自分の顔が認識できない。
自分が何者なのか、
その形すら分からなくなっていく。
人間なのか。
悪魔なのか。
神なのか。
どの言葉も、
今の自分を表しているようには思えなかった。
(……俺は何だ)
(どこへ向かっている)
(……誰なんだ)
答えは見えない。
エデンは鏡に手を伸ばす。
その手は、
底の見えない深淵へと
ゆっくり沈んでいくように感じられた。
(祖父さん……)
(俺は、どうすればいい)
その思考を断ち切ったのは、
ドアの前に立つシュウの声だった。
「……大丈夫か?」
心配そうに様子を伺う。
「だ、大丈夫だ……」
エデンはぎこちなく答える。
「顔色が良くない」
シュウの視線は鋭い。
「無理するな。
体調が悪いなら休んでもいい」
その言葉を聞いた瞬間、
エデンの表情が引き締まる。
「行く」
強く言い切った。
「エデン……」
「ヴァイオレットに約束したんだ」
拳を握りしめる。
「もう二度と、約束を破りたくない」
「……少し時間をくれれば、大丈夫だ」
シュウは何も言わなかった。
ただ、背を向ける。
「……もう、あいつを心配させるな」
静かに言い残す。
「約束する」
エデンは、精一杯の笑顔を見せた。
その笑顔を見た瞬間、
シュウの胸に、言葉にできない感情がよぎる。
しかし、
何も言わずに部屋を後にした。
……
エデンは再び鏡を見つめた。
だが、
そこに自分の姿は映らなかった。
今まで意味を持っていたもの。
形を保っていたもの。
そのすべてが、
ゆっくりと崩れていく。
自分という存在の輪郭が、
少しずつ消えていくようだった。
――――――――――
「で、あのバカは?」
ユキが周囲を見渡しながら尋ねる。
「先に行っててくれって。
お腹の調子が良くないらしいよ」
シュウは、わざと軽い調子で答えた。
「……そう」
ユキは短く頷く。
「手伝いに残った方がいいんじゃないかな?」
ヴァイオレットが心配そうに言った。
その瞬間、
シュウは彼女の肩に手を置き、
そのまま扉の方へと押し出す。
「ダメだ」
「今日は絶対に楽しめって、エデンが言ってた」
「でも……」
「ほらほら、行くぞ」
「で、でも……」
「行こう」
ユキも一歩前へ出る。
半ば強引に、
二人はヴァイオレットを外へ連れ出した。
だが、
彼女は振り返ることができなかった。
あの部屋に、
壊れかけた少年が残っていると分かっていたから。
(……エデン)
――――――――――
【アテナイ中心部】
広場には、
数え切れないほどの人々が集まっていた。
誰もが空を見上げている。
期待と興奮が、街全体を包んでいた。
そして、
時計の針が
22時10分を指した瞬間――
世界が、止まった。
――― 破砕音。
空間が軋む。
時間そのものに亀裂が走る。
目の前の空が、砕け散った。
観衆の歓声が響き渡る。
その裂け目の奥から、
ゆっくりと姿を現したのは――
荘厳なる馬車。
最初に現れたのは、
八本の脚を持つ漆黒の馬に引かれた馬車。
その車体は、
世界そのものと同じほど古い巨木から作られたかのようだった。
重厚で、
決して壊れることのない威厳。
人々の歓声はさらに大きくなる。
続いて、
次々と馬車が姿を現す。
ジャッカルの姿を象ったもの。
頂に太陽の紋章を掲げたもの。
鮮やかな緑の羽根で装飾されたもの。
それぞれが、
異なる神格と象徴を宿していた。
合計、十一。
神の学園を統べる、
最強の指導者たちを乗せた馬車。
そして――
その中心に立つ存在。
最も尊敬され、
最も恐れられる神。
ゼウス。
再び神々が一堂に会する時が、
刻一刻と近づいていた。
神々の評議会。
それは、
神の世界だけの出来事ではない。
この歴史的瞬間を、
世界中が見守っていた。




