第12章・6:恐れと夢
「無理しすぎるなよ、バカ。もし無茶したら殴るから」
ユキが鋭い視線でエデンを睨んだ。
「は、はい……」
「今回はヴァイオレットを監視役に置く」
シュウが腕を組みながら言う。
「もしまた無茶なことをしようとしたら、全部報告されるぞ」
「おいおい、そこまで厳しくしなくてもいいだろ?」
エデンは苦笑しながらヴァイオレットを見た。
「……ですよね?」
「任せてください」
ヴァイオレットは迷いなく答えた。
「うん……」
シュウはわずかに笑みを浮かべる。
「というわけで」
「おかえり、友よ」
温かい笑顔。
仲間たちの表情は、どこか懐かしい安心感を与えてくれた。
ほんの一瞬だけ、
エデンの胸に“帰る場所”の感覚がよみがえる。
「……ただいま、みんな」
・・・
扉が閉まり、
部屋の中にはエデンとヴァイオレットだけが残された。
・・・
静寂。
どちらも、何を話すべきか分からなかった。
その時、
エデンの視線が止まる。
ヴァイオレットの手に巻かれた包帯。
「……大丈夫か?」
「え?」
「その包帯」
「怪我したのか?」
「い、いえ……」
「ただの訓練のせいです」
わずかに動揺した声。
「見せてくれ」
エデンはそっと彼女の手を取った。
「ま、待って……」
丁寧に包帯をほどいていく。
そこに現れたのは、
いくつもの切り傷と、まだ塞がりきっていない傷跡。
「……やっぱり」
「大丈夫です」
ヴァイオレットはぎこちなく笑った。
「すぐ治りますから」
「いや」
エデンは傷をじっと見つめた。
「きちんと処置しないと、悪化する」
「少し待ってて」
そう言うと、エデンは席を立った。
ヴァイオレットは状況を理解できないまま、
その場で固まっていた。
数秒後、
小さな救急箱を手に戻ってくる。
「そこまでしなくても……」
「座って」
エデンは穏やかに言った。
二人は白い木の小さな机に向かい合って座る。
視線は合わない。
だが、
エデンは再び彼女の手を優しく取った。
その瞬間、
ヴァイオレットの頬がわずかに赤く染まる。
「これくらいはさせてくれ」
「俺のせいで、たくさん迷惑をかけたから」
静かな声。
ヴァイオレットは、
目の前の少年を見つめる。
どこか壊れそうで、
それでも前を向こうとする表情。
「みんなから聞いた」
「俺が意識を失っていた間」
「ずっと看病してくれていたって」
「……ありがとう」
「それと……ごめん」
「お礼なんていらない」
ヴァイオレットは視線を逸らした。
「友達ですから」
「だからこそ言ってる」
エデンは丁寧に傷を消毒していく。
「今日まで、俺は君に迷惑ばかりかけてきた」
「君だけじゃない」
「みんなにも」
「だから……」
「せめて、感謝くらいはさせてほしい」
「……エデン」
新しい包帯が、優しく巻かれていく。
「これで少しは良くなる」
「でも、完全に塞がるまでは無理しないで」
「無理を続けると、終わらない傷になる」
「……ありがとう」
ヴァイオレットは新しい包帯を見つめた。
「すごく……頑張ってるんだな」
エデンは静かに言った。
「……はい」
「イサークとの戦いで、思い知らされました」
「自分がどれだけ弱いか」
「何もできなかった」
「すごく……悔しかった」
小さく呟く。
「もっと強くならないと」
「みんなの力になれない」
「……ごめん」
エデンが言った。
「君を巻き込んでしまって」
「謝る必要なんてありません」
ヴァイオレットは首を横に振る。
「むしろ……謝るべきなのは私です」
「君の秘密を……話してしまった」
「……秘密?」
「はい」
少し躊躇った後、
ヴァイオレットは告げた。
「毎晩……」
「君が涙を流しながら目を覚ましていたこと」
「叫び声をあげていたこと」
「みんなに……伝えました」
沈黙。
「ああ……」
エデンは小さく息を吐いた。
「やっぱり……気づいてたんだな」
「……ごめんなさい」
「いや」
エデンは苦笑した。
「本当に怖かったのは」
「それに気づかれていたことの方かもしれない」
苦い笑みが、わずかに浮かぶ。
・・・
「……痛い?」
ヴァイオレットが静かに尋ねた。
「何が?」
「その悪夢……」
「痛い?」
エデンは少しだけ視線を落とした。
「……ああ」
「どんな攻撃よりも、ずっと痛い」
その瞳がわずかに揺れる。
「たぶん……」
「一生、忘れることはできないと思う」
「どうして……?」
「その痛みが……」
エデンは静かに言った。
「俺の力の源だからだ」
「あの瞬間の記憶が」
「辛い時でも……立ち続ける理由になる」
「……すごく痛むけどな」
ヴァイオレットは少し身体を預け、
エデンが見つめていた何もない壁へ視線を向けた。
「……すごいね」
「え?」
「本当に、すごいと思う」
「私だったら」
「一番怖い記憶から力を得るなんて」
「たぶん……部屋の隅で泣いてると思う」
小さく笑う。
「子供みたいに」
エデンはわずかに困ったような表情を浮かべた。
「私が君を尊敬してる理由って」
「たぶんそこなんだと思う」
「自分の感情から逃げないところ」
「たとえ、それがどれだけ苦しくても」
「涙が出ても」
「ちゃんと向き合おうとするところ」
少しだけ間が空く。
「……もしかしたら」
「少し、羨ましいのかもしれない」
「……本当に?」
「うん」
ヴァイオレットは苦笑した。
「小さい頃から」
「本当にやりたいことを言った記憶がない」
「ずっと……」
「周りが望むことをやってきた気がする」
「“優しい子だね、ヴァイオレット”って」
「よく言われたけど」
「本当は……嫌われたくなかっただけ」
「だから、断れなかった」
視線が揺れる。
「もしかしたら」
「一番得意なのは……嘘をつくことかもしれない」
どこか歪な笑み。
「……ヴァイオレット」
「さっきもそう」
「シュウとユキに、ここに残ってほしいって言われて」
「断れなかった」
「本当は……」
「お祭りを楽しんでほしいと思ったから」
小さく笑う。
だが、その笑みは少しだけ寂しそうだった。
「でも」
「私はどうなんだろう」
「どうして……」
「“嫌だ”って言えないんだろう」
エデンは少し戸惑ったように言った。
「……ごめん」
「迷惑をかけて」
「ち、違うの」
ヴァイオレットは慌てて首を振る。
「そういう意味じゃない」
「君は……迷惑なんかじゃない」
「むしろ」
「君といる時は」
「少しだけ……正直でいられる」
小さく微笑む。
「こうして話すのも」
「嫌いじゃない」
少し視線を逸らす。
「……でも」
「やっぱり」
「今日くらいは」
「お祭りを楽しみたかったな」
「明日には……評議会が来るから」
その言葉の奥に、
避けられない何かへの不安が滲んでいた。
・・・
二人はしばらく言葉を失い、
ただ白く何もない壁を見つめていた。
沈黙の中、エデンはゆっくりと立ち上がる。
そして、小さな筆を手に取った。
「……どうしてGODSに来たんだ?」
そう尋ねながら、壁に意味のない線を描き始める。
「どうしてって……」
ヴァイオレットは少し困ったように笑った。
「正直、自分でもよく分からない」
「神の世界に興味があったわけでもないし」
「戦士になりたいとも思っていなかった」
「たぶん……」
「父の期待を断れなかっただけ」
少しだけ目を伏せる。
「皆を見ているとね」
「強い意志とか、夢とか」
「そういうもののために戦っているでしょう?」
「だから……」
「自分だけ、場違いな気がするの」
小さく息を吐く。
「試験の時も……運が良かっただけ」
「相手が転んで、自分の攻撃に当たったの」
「それだけで……合格してしまった」
恥ずかしそうに笑う。
「……運?」
エデンの手が止まった。
「その言葉……嫌いだ」
わずかに苛立ちを含んだ声。
「人生で、何度も言われてきた」
「“エデン、満点なんてすごいね。運が良かったね”って」
筆先が壁に触れる。
「その言葉を聞くたび」
「誰にも見えていない努力が」
「まるで無価値みたいに感じた」
エデンは振り返った。
まっすぐヴァイオレットを見る。
「だから」
「自分の努力の価値を、君自身が否定するな」
「ここにいるのは」
「君が諦めなかったからだ」
「その手が証明している」
包帯の巻かれた手を、そっと示す。
「本当に運だけの人間なら」
「そこまで努力しない」
少しだけ笑う。
「それでも運だと言い張るなら」
「否定はしない」
「でも覚えておいてほしい」
「その運は、偶然生まれたものじゃない」
「君が作り上げたものだ」
そう言って、筆を差し出した。
ヴァイオレットは戸惑いながらそれを受け取る。
そして、
形のない線で満たされた壁へ、ゆっくり近づいた。
「……何を描けばいいの?」
「自由に」
「いつか、本当に進みたい道が見つかるかもしれない」
ヴァイオレットは筆を動かした。
躊躇いながらも、
少しずつ線を重ねていく。
それを見守りながら、エデンが尋ねる。
「……夢はあるのか?」
「夢?」
ヴァイオレットは少し考えた後、
小さく笑った。
「大したものじゃない」
「少し……変かもしれないし」
「どんな夢にも価値はある」
「どれだけ歪でも」
エデンは穏やかに言った。
ヴァイオレットはわずかに微笑む。
「……声で」
「人の心を癒したい」
「……やっぱり」
「偽物のヴァイオレットらしい夢だよね」
「確かに、らしいな」
エデンは少し意地悪く笑った。
「……君は?」
「大切な人たちと」
「静かに暮らすこと」
ヴァイオレットは小さく笑った。
「やっぱり」
「君らしい答え」
二人は手を止め、
壁を見つめる。
意味のない線の重なり。
形のない未来。
「……これ、何に見える?」
ヴァイオレットが首を傾げる。
「さあな」
エデンは肩をすくめた。
「でも」
「夢を叶えた時」
「きっと形が見える」
「……それも素敵ね」
初めて、
二人は互いの目を見た。
そして、
同時に少しだけ頬を赤らめる。
エデンは緊張した様子で手を差し出した。
わずかに震えている。
「まだ夢には遠いけど」
「まずは……小さな一歩から始めないか?」
「……小さな一歩?」
「ヴァイオレットさん」
「今日のお祭りに、付き合ってもらえませんか?」
「今回は……問題を起こさないと約束する」
ヴァイオレットは思わず笑った。
「問題を起こさないっていうのが、一番信用できないけど……」
だが、
迷うことなく、その手を取る。
「……喜んで」
・・・
初めて、
二人は自分の気持ちに正直になった。
まだ恐れている。
まだ迷っている。
それでも、
少しずつ向き合うことを選んだ。
意味のない線だったものが、
いつか形になるその日まで。
二人は、
自分の夢のために歩き続ける。




