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第12章・5:己の地獄

柔らかな光が、静かに窓から差し込んでいた。


優しく、穏やかに部屋を照らす朝の光。


だが――


その温もりは、ベッドに横たわる少年には届かなかった。


全身は包帯に覆われ、


その瞳からは、かつて宿っていた輝きが完全に消えていた。


焦点の合わない視線は、


ただ、届かない光を見つめているだけだった。


コン、コン――


重厚な木の扉を、控えめに叩く音が響く。


「……どうぞ」


エデンは視線を逸らすことなく答えた。


「おはよう、エデン」


「少しは良くなったかな?」


オリヴィオが部屋へ入りながら声をかける。


その手には、果物が入った籠があった。


「……うん」


かすれた声。


オリヴィオはその様子を見て、


胸の奥に痛みを覚えた。


「まだ……考えているのかい?」


彼は静かに籠を机の上へ置く。


エデンは言葉を返さなかった。


だが、わずかに頷いた。


「起きてしまったことを、何度も考え続ける必要はない」


「大切なのは……二人とも無事だったということだ」


しばらくの沈黙。


そして、エデンはぽつりと呟いた。


「……どうして」


「どうして、そんなに優しいんですか」


その声には、


抑えきれない苛立ちと悲しみが滲んでいた。


「ここに来てから……俺はあなたに迷惑しかかけていない」


「普通なら……」


「俺と、俺をここへ連れてきた兄さんを……恨んでもおかしくないはずなのに」


拳がわずかに震える。


「それだけじゃない」


「仲間にも迷惑をかけた」


「ヴァイオレットは……俺のせいで何日も入院することになった」


「俺は……」


「どんな顔をして、友達なんて言えばいいんだ……」


「エデン……」


「ヨウヘイの言う通りだ」


「悪魔は……周りに問題しか持ち込まない」


「俺がもっと利己的じゃなければ」


「みんな、こんなことに巻き込まれなかった」


震える声。


「……いっそ」


「ここを出ていった方がいいのかもしれない」


「自分の問題は……自分で解決する」


オリヴィオは気づいていた。


エデンの手が、止まらず震えていることに。


悔しさと、


恐れと、


自己嫌悪が入り混じった震え。


「もし君が逃げれば」


オリヴィオは穏やかな口調で言った。


「君の友人たちは、きっと君を恨むだろう」


「……え?」


エデンの視線が揺れる。


「一つ、勘違いしている」


オリヴィオは椅子に腰掛けた。


「君は私たちを問題に巻き込んだわけじゃない」


「あの日、君を預かると決めたのは」


「シュンに頼まれたからではない」


「……え?」


「私自身が、君を信じたからだ」


静かな言葉。


「……俺を?」


「そうだ」


オリヴィオは小さく笑った。


「愚かな弟に、再び光を取り戻させた」


「あの少年を、私は信じてみたいと思った」


その表情には、


作り物ではない優しさが宿っていた。



「……輝き?」


エデンは小さく呟いた。


「何のことを言っているんですか……?」


オリヴィオは、どこか懐かしむように目を細めた。


「君が最初に出会ったシュンが、どんな人物だったのかは分からない」


「だが……最後に会った時の彼は」


「かつての面影を、ほとんど失っていた」


「楽しそうに笑うことも」


「何かに目を輝かせることも」


もうなかった。


「彼は、自分を慕う者たちから距離を置いた」


「感情すら、弱さだと切り捨てた」


「ただ命令に従うだけの存在」


「冷酷で……残酷な」


「権力者のための“英雄”になっていた」


静かな声だった。


だが、その言葉の一つ一つには重みがあった。


「だが……」


「君と共にアテナイへ来たあの日」


「私は久しぶりに、彼の笑顔を見た」


「作られたものではない」


「子供のように……純粋な笑顔だった」


オリヴィオは小さく微笑んだ。


「あの瞬間、理解した」


「誰かが……あるいは何かが」


「彼を少しだけ変えたのだと」


「もう二度と戻らないと思っていたシュンが」


「目の前にいた」


「……オリヴィオ……」


エデンの声は、かすかに揺れていた。


「彼は……生まれた時から」


「常に大きな重圧を背負ってきた」


「それでも彼は、いつも笑っていた」


「どんなに苦しい時でも」


「決して私の手を離さなかった」


オリヴィオの表情に、わずかな影が差す。


「私は……一族の恥だ」


「それでも彼は、ずっと私の隣にいてくれた」


「本来なら……そうあるべきではなかったのに」


「どういう意味ですか?」


「私たちの家では」


「力こそがすべてだ」


「それが、あらゆる問題を解決する唯一の答えだと信じられている」


「だからこそ」


「シュンが生まれた日」


「一族は一週間もの間、祝い続けた」


「彼は、彼らが求めていた答えそのものだった」


「完璧な存在」


「祝福された子」


「五歳になる頃には」


「すでに一族の大半を超える力を持っていた」


「理想的な後継者だった」


だが。


「その後に生まれたのが……私だ」


オリヴィオは静かに笑った。


どこか、自嘲を含んだ笑み。


「力もない」


「完全なゼンカもない」


「天の祝福もない」


「ただの……普通の子供だった」


「一族は、私をシュンから遠ざけようとした」


「だが彼は、必ず私の元へ来た」


「一緒に遊んだ」


「笑った」


「飛び回った」


「血筋の重さなど、まるで存在しないかのように」


その声音には、確かな温もりがあった。


「だが……」


「私が十五歳になった時」


「一族は私を追放した」


「姓すら奪われた」


「最低限の基準すら満たせなかった」


「一族の恥だと」


オリヴィオは静かに目を伏せた。


「私は、それを受け入れた」


「彼と離れることは辛かったが」


「自分が彼の重荷になると分かっていたからだ」


「……それでも」


「彼は、再び私を救った」


「絶望の底から」


「もう一度、光を与えてくれた」


「彼は、何度でも」


「私の人生を導く光だった」


しかし。


「幸福は……長くは続かなかった」


空気が、わずかに重くなる。


「戦争が始まった」


「多くの大切な者を失った」


「私は、子供のように隅で泣いていた」


「だが彼は」


「壊れかけていたとしても」


「立ち止まらなかった」


「戦士たちを導き続けた」


「……そして」


「勝利の後」


「彼は世界の英雄となった」


「二十歳の若者が軍を率い」


「勝利へ導いた物語は」


「世界中へ広がった」


オリヴィオの拳が、わずかに震える。


「だが――」


「ある悲劇が」


「彼を永遠に変えてしまった」


言葉が、重く落ちる。


「彼が唯一愛した女性が……亡くなった」


その瞬間、


エデンの思考が止まった。


完璧だと思っていた男の姿が、


再び揺らぎ始める。


彼が見ていたのは、


世界を壊せるほどの力を持つ英雄ではない。


壊れてもなお、


笑い続けることを選んだ、


一人の人間だった。


そしてエデンは初めて気づく。


シュンの強さとは、


力ではなく――


それでも前へ進もうとする、


その心にあるのだと。


・・・



「……俺が初めてシュンに会った時」


エデンはゆっくりと言葉を紡いだ。


「心も頭も、憎しみでいっぱいだった」


「すべてを壊したかった」


「祖父を奪ったあいつらに報いを受けさせるためなら」


「世界を壊しても構わないと、本気で思っていた」


静かに目を伏せる。


「それでも、あいつは……手を差し伸べた」


「必要なら、一緒に世界を壊してやるって言ったんだ」


オリヴィオは黙って話を聞いていた。


「ほんの一瞬だけ、目を合わせただけなのに」


「不思議なくらい、心が落ち着いた」


「まるで……あの瞬間の俺の気持ちを、全部理解していたみたいだった」


エデンは小さく笑った。


「一緒に過ごすうちに、あの自己中心的なバカのいろんな顔を知った」


「冷静で計算高い戦士」


「優秀な戦略家」


「頼れるリーダー」


「泣き虫な子供」


「兄」


「父親みたいな奴」


その言葉を聞き、


オリヴィオは静かに目を見開いた。


エデンの表情が、


これまでに見たことのないほど穏やかだったからだ。


人間らしい、


温かい光を宿した顔。


「でも……気づいたんだ」


「世界は、あいつを一つの姿でしか見ていない」


「“無敵の英雄”っていう、都合のいい偶像」


「誰も、本当のシュンなんて見ていない」


「ただ、自分たちが望む姿を押し付けてるだけだ」


少しだけ視線を下げる。


「それでも、あいつはそれを受け入れてる」


「どうしてなのか……俺にはまだ分からない」


「どうして、全部捨てて」


「自分の望むように生きようとしないのか」


「いつか……分かる日が来るのかな」


拳を握る。


「……だから、もう嫌なんだ」


「こんなに弱い自分が」


「俺のせいで」


「大切な人たちが、何度も危険な目に遭っている」


オリヴィオは静かに言った。


「それでも彼らが君の側にいるのは」


「君を大切に思っているからだ」


「信じているからだ」


エデンは驚いたように顔を上げた。


オリヴィオは立ち上がり、


優しくエデンの頭に手を置いた。


「考えすぎるな、エデン」


「君には、世界の果てまで共に歩んでくれる友人がいる」


「その重荷を、少しだけ分けてみるといい」


エデンはすぐには答えなかった。


だが、


ゆっくりと視線を落とし、


口元にわずかな笑みが浮かぶ。


「……ありがとうございます」


「オリヴィオ」


その言葉を聞き、


オリヴィオは静かに扉へ向かった。


だが、出ていく前に振り返る。


「早く回復しなさい」


「皆、君の帰りを待っている」


「……はい」


「必ず戻ります」


満面の笑み。


その笑顔を見た瞬間、


オリヴィオの時間が止まったかのように感じられた。


そこにいたのは、


かつて知っていた、


笑顔を絶やさなかった弟の姿。


(シュン……良い子を選んだな)


(闇に飲まれながらも、世界を照らそうとする子だ)


(自分のことより、仲間のことを想う“悪魔”)


(地獄すら、楽園へ変えられる者)


オリヴィオは静かに部屋を後にした。


再び、穏やかな静寂が訪れる。


だが、


一つだけ変わったことがあった。


先ほどまで届かなかった柔らかな光が、


ゆっくりと、


エデンの指先に触れていた。


長く深い深淵の底にいた少年の前に、


ほんのわずかな光が、


再び姿を現したのだった。

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