第12章・1:深淵へ
「――休日だ!」
ヴィオレットが嬉しそうに声を上げた。
「休日!!」
ユキも興奮気味に繰り返した。
「ちょ、ちょっと落ち着いてよ……」
シュウは苦笑しながら言った。
「落ち着けるわけないでしょ?!」
ユキは即座に反論した。
「ほぼ一か月間、ずっと訓練と勉強ばっかりだったのよ?
せっかくの休みなんだから、少しくらい楽しんでもいいじゃない」
「ね、ヴィオレット?」
「う、うん!」
彼女は隠しきれないほど嬉しそうに答えた。
「まあ……仕方ないか。エデンも一緒に来る?」
「いや、悪い」
部屋の中から声が返ってきた。
「今日は残って訓練する」
「おい、やりすぎるなよ」
シュウが心配そうに声をかけた。
「大事なのは分かるけど、休むのも必要だ」
「うん、分かってる」
エデンは淡々と答えた。
「でも今日はロワと一緒に訓練する約束なんだ。問題ない」
「そっか……何かあったらすぐ連絡して」
「うん。楽しんできて」
三人は寮を後にし、街の中心へと向かった。
その視線には、わずかな不安が残っていたが――
彼の言葉を信じることにした。
その頃、エデンは部屋の中で――
机の上に突き刺さった短剣と、それに貫かれた一通の小さな手紙を、
虚ろな瞳で見つめていた。
【数分後:アテナイ中心部】
街は人々のざわめきに包まれていた。
喜びと熱気が、空気そのものを揺らしているかのようだった。
街中には装飾が施され、屋台や催し物が至る所に並んでいる。
子供たちは笑顔を浮かべ、家族連れは音楽と娯楽に満ちたその空間を楽しんでいた。
「すごい人だな……」
シュウは周囲を見渡しながら呟いた。
「ほんとね。こんなに人がいる首都を見るのは初めてかも」
ユキも驚いた様子で言った。
「神々の会議って、相当大きな行事なのね」
「そういえば、アフロディーテも似たようなことを言ってたな」
シュウは思い出したように言った。
「この場所で神々の会議が開かれるのは、二十年以上ぶりらしい」
「多くの人にとって、懐かしい出来事なんだろう」
「私にとってのメリットは、その日授業がないことくらいね」
ユキは神々への嫌悪を隠そうともしなかった。
「そんなに嫌いなのか?」
シュウが尋ねる。
「野菜より嫌い」
ユキは即答した。
「分かりやすい基準だな」
シュウは小さく笑った。
その時、ユキは静かなまま歩いていたヴィオレットへ視線を向けた。
「……大丈夫?」
「え? あ、うん……ごめん」
「寮を出てからずっと黙ってるけど、何かあった?」
シュウが優しく問いかける。
「ううん……何でもない」
「エデンのこと?」
ユキが確信を持って言った。
ヴィオレットは答えなかったが、その表情がすべてを物語っていた。
「そんなに心配しなくてもいいわよ、あのバカ」
ユキは肩をすくめた。
「昔から頑固だったし、強くなることに取り憑かれてるの」
「私たちが何を言っても、考えを変えるとは思えないわ」
「ユキの言う通りだ」
シュウも頷いた。
「どれだけ休めと言っても、きっと聞かないだろう」
シュウは拳を握りしめた。
「彼が背負っているものの重さは分からない……
だが、強くなろうとする気持ちは理解できる」
「でも、このまま進み続ければ――
いつか、彼の中で何かが壊れてしまう」
「その時は、私たちがそばにいればいい」
ユキは真剣な眼差しで言った。
「気にしてないわけじゃない。ただ、今の私たちじゃ彼の力になれないって分かってるだけ」
ヴィオレットは二人の言葉を聞き、驚いたように目を見開いた。
「……みんな、ごめん」
「謝る必要なんてないよ」
シュウは穏やかに微笑んだ。
「ヴィオレットがエデンを心配してることくらい、分かってる」
「何がそんなに気に入ったのか知らないけど」
ユキは腕の筋肉を誇示しながら言った。
「必要なら、拳で説得してあげるわよ」
……
その言葉を聞いた瞬間、ヴィオレットの頬が赤く染まった。
しどろもどろに手を動かしながら、勇気を振り絞るように叫んだ。
「ち、違います!!」
「え? 何が違うの?」
ユキが首を傾げた。
「エ、エデンのことが好きとか、そういうんじゃなくて……!」
「え? 違うのか?」
シュウも驚いた様子で問い返した。
「ち、違います……」
ヴィオレットは小さく息を吸った。
「どう説明したらいいか分からないけど……
彼を見ていると……その……」
少し視線を落としながら続ける。
「変な言い方かもしれないけど……
私がなりたい姿を、彼の中に見ている気がするんです」
「お願いだから、あのバカみたいにはならないで」
ユキが本気で恐れた表情を見せた。
「は、はい……」
「おいおい、ユキ。文字通りの意味じゃないだろ」
シュウが苦笑した。
「よかった……」
ユキは胸を撫で下ろした。
ヴィオレットは、どこか優しい笑みを浮かべながら続けた。
「私も……彼みたいに強くなりたいんです」
「言うべきじゃないかもしれませんが……
夜、彼が苦しそうに叫んでいるのを聞いたことがあります」
「……泣いていました」
その告白に、シュウとユキは言葉を失った。
「毎朝、クマを化粧で隠して……
いつも明るい笑顔で挨拶してくれるんです」
「言わない方がいいと思っていました。迷惑をかけたくなかったから……」
ヴィオレットは手を握りしめた。
「どうしてあそこまで前に進み続けられるのか、分かりません……」
「でも、私が助けようとしても……きっと役に立たない」
「自分の気持ちすら守れない私が……
他人の心配をしてるなんて……本当に最低です」
声が震え、涙がこぼれ落ちた。
「私は……どうすれば……」
その瞬間――
ユキが優しく彼女を抱きしめた。
「ゆ、ユキ……?」
「大丈夫。全部出しなさい」
「わ、私……」
シュウが小さく苦笑した。
「エデンがずっと嘘をついていたことくらい、俺たちも気づいていた」
「隠そうとしてるけど、正直あまり上手くない」
シュウは視線を落とした。
「初めて会った時から分かっていた」
「彼のゼンカには……とても強い痛みが刻まれている」
「それは、均衡を壊してしまうほどのものだ」
「本当は何があったのか知りたい」
「でも……まだ、その時じゃない」
「彼が話す準備ができた時、きっと教えてくれる」
ユキはしっかりと頷いた。
「もしその時には遅すぎたら……?」
ヴィオレットが不安そうに尋ねた。
「その時は――」
シュウとユキは同時に答えた。
「一緒に戦って、連れ戻す」
その声には、揺るぎない確信があった。
「……ありがとう、みんな」
ヴィオレットは涙で潤んだ目を拭いながら、小さく微笑んだ。
ユキの温もりに包まれながら、心が少しだけ軽くなった。
……
「――あら、やっぱり知ってる顔ね」
突然、落ち着いた女性の声が響いた。
その声を聞いた瞬間、シュウとユキの身体がわずかに強張った。
何かが、噛み合っていない。
「ど、どうしてここに……?」
シュウが驚きを隠せずに尋ねた。
「え? 何かおかしいこと言った?」
ロワは首を傾げた。
「どうしてそんな顔してるの?」
「今日はエデンと訓練する予定じゃなかったの?」
ユキが問いかけた。
「ん? ちょっと待って」
ロワは状況を整理しようとした。
「もしかして……またあの子の冗談?」
「今日は休めって言ったのよ」
ロワは軽く肩をすくめた。
「ずっと無理してたし、最近は特に頑張りすぎてたから」
「少しくらい休むべきだと思って」
「私が休んでも問題ないわよね?」
「いえ、違うんです」
ヴィオレットが不安そうに答えた。
「エデンは……今日、ロワと訓練すると言っていたんです」
「……それはあり得ない」
ロワは静かに言った。
その場にいた三人は顔を見合わせた。
そこに浮かんでいたのは、ただ一つの考え。
――何かがおかしい。
……
【同時刻 ― ゼウス寮】
空はゆっくりと灰色へと染まり、嵐の気配が漂い始めていた。
木々や花々は、次第に強さを増していく突風に揺さぶられている。
建物の最下層から、エデンは視線をゆっくりと上へ向けた。
その頂にいるのは――
未だ誇りを汚されたままの、最強の戦士。
「……やはりな」
エデンは小さく呟いた。
「ロワからの手紙にしては、出来すぎていると思った」
わずかに笑みを浮かべる。
「……何が目的だ、ヨウヘイ」
その声には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
「今はお前の遊びに付き合う気分じゃない」
エデンの瞳には、はっきりとした敵意が宿っていた。
「くだらないことを続けるなら――」
「今日は容赦しない」
「黙れ……!」
ヨウヘイの怒号が響いた。
「この悪魔の出来損ないが!」
怒りに満ちた声だった。
「何度も言ったはずだ」
「お前はここにいるべき存在じゃない」
「消えるべきだったんだ」
「それでもお前は居座り続けた」
「それだけじゃない――」
「この世界の秩序にまで牙を剥いた」
「……俺に対してもな」
ヨウヘイの瞳には、憎悪が燃えていた。
「だが、もう我慢の限界だ」
「今日ここで思い知らせてやる」
「天に祝福された者と――」
「地を這う悪魔の屑との違いをな」
「その傲慢の代償、必ず払わせる」
次の瞬間――
轟音が空を裂いた。
―――BRUUUMMMMM!!
凄まじい雷が地面へと叩きつけられ、
閃光が二人の姿を照らし出した。
その視線は、
底知れぬ深淵のような闇に満ちていた。
荒れ狂う嵐の下、
二人の戦士は対峙する。
それぞれの誇りを賭けて。
光と闇が――
再び交差する。




