第9章・1:信念
朝の光が、静かに窓から差し込んでいた。
柔らかな陽光が部屋の中を照らす。
だが――
その空間は、あまりにも散らかっていた。
床には、無造作に放り出された書類。
開きっぱなしの本。
食べ終えた皿が、あちこちに置かれている。
まるで嵐が通り過ぎた後のような光景だった。
そして、その中心。
椅子にもたれかかり、天井をぼんやりと見つめる男がいた。
ゼウス。
長い沈黙のあと。
ゆっくりと息を吐く。
(……ようやく、試験が終わったか)
まるで重荷を下ろしたかのように、肩の力が抜ける。
(あの日の騒動にもかかわらず、その後の進行は問題なかった)
机の上には、大量の報告書が積まれている。
(劇場の再建も順調に進んでいる)
(世論も、GODSを強く批判することはなかった)
一枚の資料を手に取る。
そこには、事件後の公式発表の内容が記されていた。
(今回の件は、“王を狙う組織による襲撃”と発表された)
(そして、暴走した悪魔は英雄シュンによって完全に制圧された、と)
わずかに眉を寄せる。
(多くの犠牲者が出たにもかかわらず――)
(結果として、シュンと王の評価はむしろ高まった)
静かな皮肉。
(エデンと悪魔の関連性も、完全に消された)
(……都合のいい物語だ)
資料を机に置く。
(だが)
(民衆は、安心を求めている)
(謝罪の言葉を聞くだけで、納得してしまうものだ)
ふと、思い出す。
シュンの表情。
(もっとも……)
(あの男自身は、納得していない顔をしていたがな)
小さく息を吐く。
(それが“英雄”の背負うものか)
椅子から体を起こす。
机の上に広がる、複数の書類。
そこには、GODSの合格者たちの情報がまとめられていた。
顔写真。
能力評価。
戦闘記録。
適性分析。
すべてが詳細に記されている。
(一連の騒動を考慮しても――)
紙をめくる。
(今回の試験は成功と言っていい)
(選ばれた十五名は、予想以上の水準に達している)
指で机を軽く叩く。
(神々の協定も、どうにか機能しているようだ)
(困難は多かったが――)
(GODSの水準は、かつてないほど高まっている)
窓の外へ目を向ける。
(……今年こそ、辿り着けるかもしれんな)
静かな期待。
だが。
一枚の書類を手に取った瞬間。
思考が止まる。
そこに記されていた名前。
エデン・ヨミ。
しばし、沈黙。
(だが、あの少年は……)
視線が鋭くなる。
(これ以上考えても意味はない)
(もはや、私の裁量では決められぬことだ)
(すべては――陛下の判断次第)
ふと、思い出す。
シュウとの会話。
(……実に興味深い存在だ)
その時だった。
突如として。
強い風が吹き込んだ。
バンッ――
窓が大きく開く。
積み上げられていた書類が、一斉に舞い上がる。
紙が空中で踊る。
まるで――
散らばった記憶の断片のように。
過去と現在が、交差していく。
そして。
意識は、あの日の午後へと遡る。
……
――数日前、同じ部屋にて。
書類の整理に追われていたゼウスのもとへ。
コン、コン――
控えめなノックの音が、重厚な古いオーク材の扉に響いた。
「入れ」
低く短い返事。
扉がゆっくりと開く。
そこから現れたのは――
見覚えのある、ミントグリーンの髪。
だが。
その姿は、かつての完璧な青年とは程遠かった。
顔には包帯。
腕にも包帯。
身体のあちこちに、戦いの傷跡が残っている。
その姿は、むしろ痛々しいほどだった。
「……セージス」
ゼウスが眉をひそめる。
「どうした?」
シュウ・セージスは、静かに頭を下げた。
「突然の訪問、失礼いたします」
深く一礼する。
「ですが、どうしてもお話ししたいことがありまして」
「構わん」
書類を机に置く。
「用件は何だ」
一瞬の沈黙。
そして。
「GODS研究所の役職を、辞退させていただきたく思います」
その声は、迷いなく真っ直ぐだった。
「……何だと?」
ゼウスが目を細める。
「何を言っている?」
「これまでの評価には、心より感謝しております」
拳を強く握る。
「しかし、その栄誉を受ける資格はありません」
「理由を聞こう」
静かな圧。
シュウは歯を食いしばった。
「……私は敗北しました」
言葉を絞り出す。
「エデンが自我を失っていたことは理解しています」
「それでも」
目を伏せる。
「彼は彼でした」
「あの日、私を打ち破った相手です」
拳が震える。
「過程や状況など関係ありません」
「私は、敗者です」
低く。
だが、確かな悔しさを含んだ声。
「敗者が栄誉を受けるなど、あってはならない」
「……」
ゼウスは、静かに息を吐いた。
「本気で言っているのか」
「ええ」
即答。
「可能であれば」
かすかに視線を揺らす。
「決闘の場で命を落としていた方が、まだ誇りを保てた」
重い言葉。
「その席に相応しいのは、勝者であるエデン・ヨミです」
……
しばしの沈黙。
ゼウスは椅子に深く腰掛けたまま、目を閉じる。
そして。
「……その願いは却下だ」
はっきりと告げた。
「なっ……!?」
シュウが顔を上げる。
「なぜですか」
「お前が感じている屈辱は理解できる」
ゼウスはゆっくりと立ち上がる。
「だが」
その視線には、揺るぎない確信があった。
「あの日、お前が相対した存在は」
「我々神でさえ理解できぬ領域のものだ」
「……」
「最後まで立ち向かった」
「退かなかった」
「戦士として、恥じる点など一つもない」
静かに言う。
「誇るべき戦いだった」
シュウの瞳が揺れる。
「……」
「敗北とは」
ゼウスは続ける。
「進む理由を得るためにある」
「悔しさを糧に、前へ進む」
「それが戦士だ」
机に置かれた書類へ視線を向ける。
「お前の才能は極めて貴重だ」
「GODSの未来にとって必要不可欠な存在だ」
そして。
ゆっくりと歩み寄る。
「ここで去れば」
肩に手を置く。
「戦士としての矜持を捨てることになる」
「そして」
少しだけ笑う。
「お前を信じた者たちを裏切ることになる」
シュウの瞳が見開かれる。
「……エデンも、な」
その名前に。
シュウの表情がわずかに緩む。
ゼウスは背を向ける。
「エデンの処遇は、現在審議中だ」
長い廊下へと歩き出す。
「信じろ」
静かに言い残す。
「運命は、すでに動いている」
シュウはしばらく立ち尽くしていた。
そして。
小さく笑う。
(……信じろ、か)
皮肉にも思える言葉。
(神が“信じる”とはな)
だが。
ゆっくりと息を吐く。
(仕方ない)
視線を上げる。
(あいつを信じてみるか)
静かな決意。
(また会おう、エデン・ヨミ)
……
人と神。
それぞれが、確かな覚悟を胸に抱く。
だが。
その運命は。
すでに、別の存在の手に委ねられていた。
神々すら従う者。
白き宮殿の主。
すべてを俯瞰する支配者。
「……そろそろ」
完璧な微笑が浮かぶ。
「盤を動かす頃合いか」
静かな声。
「ゲームを始めよう」
その一言が。
新たな運命を動かし始めた。




