第7章・6: 光と闇
一瞬――風が完全に凪いだ。
天も、地も、そして海すらも、息を潜めてこの廃墟と化した舞台を見つめていた。
そこに対峙するのは、天でさえも嫉妬するほどに『完璧な存在』と、悪魔ですら耐えきれないほどの『絶望と苦痛』から生まれた醜悪な怪物。
「なあ、元の姿に戻って、起きたことについて少し話し合わないか?」
「グオォォォォォォォォッ!!」
「おいおい、力づくでやり合うなんて面倒くさいだけだろ?」シュンは苦笑いを浮かべて肩をすくめた。「知的な大人同士、冷静に話し合――」
シュンが言葉を言い終えるより早く、無数の巨大な瓦礫の波が彼を、そして彼の周囲の全てを理不尽に呑み込んだ。
怪物は咆哮を上げながら、おぞましい無数の触手を地面に深く突き立てる。そして闘技場の岩盤を極限まで圧縮し、凶悪な散弾へと作り変えて一斉に掃射したのだ。
だが、分厚い土煙はシュンの指先の軽い動作一つで一瞬にして吹き飛ばされた。
そこには、無傷の防壁に守られ、一切のダメージを受けていない英雄の姿があった。ただし、その顔には怒りに満ちた冷たい笑みが張り付いている。
「……人が話してる途中で遮るのは、マナー違反だって教わらなかったか?」
その皮肉にも一切耳を貸さず、怪物は次の攻撃を準備するために素早く触手を引いた。
「……どうやら、言葉は通じないみたいだな」シュンは拳を強く握りしめる。
「なら、その『結果』を払う覚悟はできてるんだろうな?」英雄の黄金の瞳が、鋭く輝いた。
――ズドォォォォォンッ!!
咆哮と共に、怪物は先ほどよりも遥かに速く、破壊的な散弾の雨を撃ち放った。
しかしシュンは、自身の『全華』で空中に創り出した不可視の足場を蹴り、ミリ単位の超精密な動作でその全ての凶弾を躱していく。
(こいつは本当に厄介だな……)シュンは岩弾を避けながら内心で舌打ちする。(周囲の環境(地形)を完全に自分の武器として利用している。以前『タルタロス』でやり合った時と同じくらい、いや、それ以上に面倒な相手だ)
(あの巨大な質量を考えれば、このスピードと反応速度は異常すぎる)
(一撃で確実に終わらせたいところだが、今はそれは不可能だ)シュンは冷静に計算する。(そんな真似をすれば、エデンの肉体だけでなく、このアテネの街そのものが地図から消し飛ぶ)
(全く……この馬鹿弟子は、どこまで俺に手間をかけさせれば気が済むんだ)
怪物の放つ散弾が闘技場の残骸に直撃する度、分厚いコンクリートがまるで薄いガラスのように粉々に砕け散っていく。
シュンは剣を構え、その醜悪な怪物へと真っ直ぐに突進した。
「くらえッ!」
シュンの剣を弾き飛ばそうと、怪物の触手が本能的に防衛軌道を描く。――それが、シュンの顔に不敵な笑みを浮かび上がらせた。
(……ビンゴだ)
シュンは自ら剣を手放した。剣は凄まじい勢いで触手の一本に深々と突き刺さる。
それを囮にしたシュンは、たった一つの滑らかな動作で怪物の巨体を跳び箱のように飛び越え、奴の視界の完全な『死角』へと回り込んだ。
怪物の背中から、防衛のための新たな触手が爆発的な速度で生え出す。しかし、シュンの動きはそれよりも遥かに速かった。
数ヶ月前の『あの戦い』を完全に再現するかのように、シュンの軽く、しかし致命的な一撃が怪物の延髄を正確に捉える。
「……終わりだ」シュンが冷徹に宣告した。
怪物の巨体がゆっくりと崩れ落ちる――かに見えたが、数秒後、シュンの表情が劇的に険しいものへと変わった。
悍しい肉の触手が、まるで子供がオモチャを握り潰すかのように、シュンの全身を完全に絡め取ったのだ。
そして怪物は、シュンの驚愕の視線を受けながら、力強い足取りで再び立ち上がった。
(……耐久力が上がっているだと? そんな馬鹿な、あり得ない)
シュンが思考を巡らせる目の前で、信じがたい『異変』が起きた。
その異形の怪物の『両目』と『口』が、なんと背中側へと移動してきたのだ。自らを背後から拘束した英雄に対し、その鋭く並んだおぞましい牙を見せつけるためだけに。
「ギャアアアアアアアアアアアッ!!」
怪物の口から放たれたその叫び声は、アテネ中の人々の鼓膜を破らんばかりの、あまりにもグロテスクで冒涜的な音波だった。
(耐久力が上がっただけじゃない。数ヶ月前に俺と戦った時と比べて、こいつの『全華』の質そのものが変異している)
全身を締め付けられながらも、シュンはその異常事態に、思わず感心の笑みをこぼしてしまった。
(スピードも、パワーも底上げされている。まるで……戦いを経験する度に『学習』しているみたいじゃないか)
(俺がもう一度『背後』を狙うことすら、この悪魔は最初から予測していたってわけだ)シュンは確信する。(ただの野獣じゃない。環境を利用し、相手の思考を読む……紛れもない本物の『怪物』だ)
怪物はシュンを食い千切ろうと、その口を限界まで――肉が裂けるほどに大きく開いた。その吐息は、触れた花が瞬時に枯れ果てるほどの極めて強力な腐臭を放っていた。
「おい、クソ悪魔」シュンは鼻をすんすんと鳴らし、クスクスと笑いながら呟いた。「お前、最後に歯を磨いたのはいつだ? 息がドブ臭いぞ」
その挑発を聞いた瞬間、シュンを拘束する触手の圧力がギリッと跳ね上がる。それが、英雄の好奇心を強く刺激した。
「へえ……。俺の言葉の皮肉まで、一語一句正確に理解できるってわけか」
「お前、ただ本能で動いてるだけの空っぽな悪魔じゃないな。……そうだろ?」
「シ……死ネ……」
ひどく歪んだ、ノイズまみれの悍ましい声が怪物の口から漏れ出た。
「本当に、面白い奴だよお前は……」
シュンの体内で、絶対的な『調和』と圧倒的な『混沌』が同時に混ざり合った、規格外の全華が流れ始める。
「残念だけど、これ以上お前と遊んでやってる暇はないんだ。だから、大人しく俺の『弟子』を解放して、お前の元いた薄暗い巣穴(隠れ家)に帰ってくれないか?」
「グオォォォォォォォォッ!!」
「……どうしても痛い目を見ないと分からないらしいな」
――ズバァァァァァァァァンッ!!!
大爆発と共に、シュンを拘束していた無数の触手が内側から木っ端微塵に吹き飛び、腐肉の雨が神聖なる闘技場に降り注いだ。
シュンはゆっくりと空中に浮かび上がる。その肌の毛穴という毛穴から、息を呑むほど美しく、そして背筋が凍るほど恐ろしい『黄金の力』が立ち昇っていた。
「さて……たっぷりとお灸を据えてやる(レクチャーの)時間だ」
……
――ドゴォォォォォンッ!!
瞬きする間すら与えず、シュンが放った強烈な右ストレートが怪物の巨体を大きくぐらつかせた。怪物は本能的に体勢を立て直そうと身をよじる。
だが、無駄だった。
シュンは、怪物の動体視力すらも置き去りにするほどの、超高速で無慈悲なコンビネーション(連撃)を叩き込み始めた。
回避不能のストレート、えぐるようなアッパーカット、そして息もつかせぬ重い蹴りの雨。
――ドガッ! バキッ! ドゴォォォッ! メキィッ!!
その連撃は、決して止まることのない嵐だった。
シュンの拳は一つ一つが重火器の直撃にも等しく、悪魔のちっぽけなプライドごと、その異形の肉体を粉々に砕いていく。
右から左。左から右。正面からの鉄拳に、死角からの裏拳。
打ち上げるような(アッパー)一撃から、叩き落とすような(スマッシュ)一撃まで……。その攻撃のバリエーション(引き出し)は無限に等しかった。
圧倒的なまでの余裕。
シュンは片手で怪物を容赦なく殴りつけながら、もう片方の手で自身の剣を掲げ、その磨き抜かれた刀身に映る『自分の美しい顔』を眺めているほどだった。
闘技場は、瞬く間に血と腐肉の飛び散る地獄絵図と化した。だが、血を流しているのは片方だけだ。
かつて人々に絶望を与えたあの恐るべき悪魔は今、正真正銘『世界最強の存在』を前にして、ただ一方的に解体(蹂躙)されていた。
シュンの重い一撃が、怪物の莫大な『全華』の根幹を激しく揺さぶる。
そしてトドメとばかりに、シュンは空中で鮮やかなダブルの『カカト落とし』を脳天へと叩き込み、怪物の醜悪な頭部を闘技場の地中深くへと完全に生き埋めにした。
……
「……ふう」
シュンは、勝利を微塵も疑わない強者の絶対的な余裕と共に、自分の汚れなき服についた砂埃を軽く払い落とした。
だが、怪物の生命力は異常だった。あれだけの圧倒的な暴力に晒されながらも降伏を拒み、無様な姿で背を向け、ただ『生存』するためだけに闘技場からの逃亡を図り始めたのだ。
「……本気で逃げ切れるとでも思ってるのか?」
その悪魔の背中から滲み出るあまりの『必死さ(絶望)』は、シュンの心にほんの少しだけ奇妙な感情を呼び起こした。
だが、彼には果たすべき『使命』がある。あの一瞬で理不尽に奪われた多くの命のためにも、ここでこの混沌に終止符を打たなければならない。
シュンは優雅に、そして荘厳な空気を纏って、上空へとゆっくりと舞い上がった。
英雄が天に昇ると同時、彼を覆っていた分厚い暗雲が嘘のように晴れ渡り、神々しい光が闘技場の廃墟を照らし出した。
まるで、大自然そのものがこの強大なる存在の『裁き(ジャッジ)』に耳を傾け、彼の意思に完全に従属しているかのように。
「……お前は紛れもなく『悪魔』だ。だが……その魂のずっと奥底に、ほんの僅かな『光』があるのを俺は感じている」
シュンは両腕を大きく広げ、絶対的な威厳を持って宣言した。
「道のりは険しいだろうが、俺は……お前たち『二人(エデンと悪魔)』を理解しようと努めるつもりだ。だからそれまで……大人しくしていてくれないか?」
「まあ、お前らにそれを求めるのは、少し酷な話かもしれないがな」シュンは自嘲気味に笑う。
怪物の巨体が、闘技場の出口を抜けようとしたその瞬間――天からの絶対的な『判決』が下された。
「『裁きの剣』」
流れ星の群れのように、純粋な『光』で形作られた数十本もの巨大な剣が、罪深き者を貫くために天から降り注いだ。
数秒の内に、光の剣は怪物の巨体の至る所に深々と突き刺さり、その動きを完全に縫い止めた。
突き刺さった剣の輝きは、この短い戦闘で怪物が理不尽に奪った『命の数』の重さと、彼らの無念を正確に反映しているかのようだった。
怪物が抵抗の雄叫びを上げるより早く、シュンがパチンと指を鳴らす。
その瞬間、怪物を拘束していた光の剣が一斉に極光を放ち、悪魔の体を『神聖なる光』で完全に包み込んだ。
怪物の耳を劈くような断末魔が、光の中でゆっくりとフェードアウトしていく。
それに伴い、巨大だった異形の肉体は急速に縮み始め、やがて平均的な『人間の少年』のサイズへと戻っていった。
天の裁きにより、その存在を覆っていた醜悪な腐肉と装甲が、浄化されるようにボロボロと崩れ落ちる。
徐々に、その内側に囚われていた無垢な少年のシルエット(輪郭)が露わになった。……依然として、その身に濃密な『闇のエネルギー』を纏ってはいるものの。
「本当に……とんでもない大惨事になっちまったな」
完全に瓦礫の山と化した、かつての神聖な古代闘技場を見下ろし、シュンはポツリと呟いた。
「……後で、上から死ぬほど説教されそうだな」深い溜め息が漏れる。
(だが……これはまだ『始まり』に過ぎない。盤上のプレイヤーたちが、ようやく駒を動かす前に席に着いた段階だ)
(俺たちは今、ゆっくりと、しかし確実に『あの避けられない結末』に向かって進んでいる。……それに)
(まるで……俺の理解を超えた『何か』に、ずっと観察られているような気がする……)
シュンはふと顔を上げ、天でもなく、地でもない――『虚空』の一点へと視線を向けた。
彼の黄金の瞳は、そこに何もない空間を真っ直ぐに見据えている。
まるで、この現実世界の次元の壁の向こう側に……物語の始まりから自分の足跡の全てを無言で観察し続けている『何者か』が存在していると、確信しているかのように。
「……まあ、気のせいか」
シュンは視線を外し、光の牢獄の中で気を失っているエデンへと優しい眼差しを向けた。
(だが、一つだけ確かなことがある。あの不器用なガキ(エデン)なら、その『折れない意志』で、決して交わることのない相反する二つの力(光と闇)を、いつか必ず一つに束ねることができる)
(お前がこれからどう成長していくか……本当に楽しみだぜ、エデン)
(俺は信じてる。お前こそが、この世界がずっと探し求めてきた『答え』……その身に『光』と『闇』の両方を宿し、世界を導く存在(特異点)なんだってことをな)




