第7章・1: 言葉にできなかった想い
薄暗い控室の照明の下、ユキは息を呑むようにして妹の治療を見守っていた。
彼女を診ているのは、ギリシャの医神――アスクレピオス。
彼の双眸には膨大な『全華』が集中しており、傷ついた戦士の身体を細胞の隅々まで克明に観察していた。
「……先生、どうですか?」
ユキが恐る恐る尋ねる。
「何も心配はいらないよ」アスクレピオスは穏やかに答えた。「戦闘で受けた傷はどれも表面的なものばかりだ。……どうやら、かなり気を遣って攻撃してくれたみたいだね?」
「ユキお姉ちゃん……また手加減したの?」
ナズがジト目で姉を睨む。
「あ、あははは……何のことか全然分っかんないわね」ユキはあからさまに目を逸らして誤魔化した。
「できるだけ安静にしておくことを勧めるよ」医神は忠告する。「戦闘の後で君の『全華』は少しバランスを崩しているけれど、これも特に心配するようなレベルじゃない」
「ありがとうございます、先生」とナズが頭を下げる。
「それじゃあ、私はこれで。積もる話もあるだろうしね。何かあればすぐに呼んでくれ、近くにいるから」
「はい、ありがとうございました!」
……
医神が部屋を去ると、そこには奇妙なほどの静寂が降り降りた。ノスタルジーと、胸が締め付けられるような温もりが入り交じる独特の空気。
「……これで、全部終わりなのかな」
ナズが苦笑いを浮かべて、ぽつりと呟いた。
「え? 何の話よ?」
「私たちの道は、ここからまた分かれちゃうんだなって……。せっかくまた会えたのに、お姉ちゃんは先へ進んで、私はまた……あの『振り出し』に戻らなきゃいけないんだね」
「ナズ……」
「もう一度、お姉ちゃんと本気で戦えれば、それで十分だと思ってた。でも……いざ全部が終わってみると、心の中にぽっかりと巨大な穴が空いたみたいで」
「痛いよ……すごく、痛い……」
ナズの顔は瞬く間に涙でぐしゃぐしゃになり、ユキはひどく狼狽した。
「私……ただ、またお姉ちゃんの傍にいたかっただけなのに……ッ!」ナズはしゃくり上げながら本音をこぼす。「でも、これでもう終わり。もうお姉ちゃんには会えないし、隣で戦うこともできない……。クソッ……」
「どうして……どうしていつも、こうなっちゃうの……?」
その悲痛な叫びを聞いた瞬間、ユキは妹の小さな体を、ありったけの温もりと優しさで力強く抱きしめた。
「まだ何も終わってないわよ、ナズ」ユキは力強く断言する。「私たちは姉妹よ。これからも、永遠にね。もう二度と離れ離れになんてならないわ」
「これからは、いつでも肩を並べて戦うの。アンタ以上に信頼できる人間なんていないんだから。……アンタは私のたった一人の妹で、誰よりも愛してる」
「あの女には、もう指一本触れさせない。今日からアンタは私と一緒に暮らすのよ。そして、アンタが『GODS』を無事に卒業したら……私たちの再戦を首を長くして待っててあげるわ」
「ユキお姉ちゃん……ッ」
(アンタが私のモチベーションで、私の力の源だった)
泣き崩れる妹を強く抱きしめながら、ユキは内心でそう語りかける。
(もう一度アンタの傍にいて、数え切れないくらい一緒に笑い合いたかった)
(私が暗闇の中で、どこへ行けばいいか分からなくなった時、私の道を照らしてくれた『光』は……アンタだったんだから)
二人の姉妹は、互いの恐怖と痛みを分け合うように、そして互いこそが唯一の『居場所』であると確かめ合うように、いつまでも美しく、温かい抱擁を交わし続けた。
……
数分が経過し、姉妹の静かな会話は続いていた。
「それで……この5年間、どうやって過ごしてたの?」ユキが尋ねる。「アフロディーテと二人きりなんて、地獄だったでしょ?」
「うーん、何て言えばいいのかな……」
「え?」
「あの人が超一流のクソ野郎で、人を操る天才なのは否定しないよ。でも……お姉ちゃんが出て行ってから、あの人の心はほんの少しだけ……丸くなった気がする」
「あははっ……あの女に『心』なんてあるわけないじゃない」
ユキは引きつった笑いをこぼす。
「それにね、あの人の言う通りに動いて、感情を表に出さなければ、意外と上手く扱える(コントロールできる)ものなんだよ」ナズはあっけらかんと告白した。
「悪いけど、私には一番欠けてるスキルね」ユキは笑って肩をすくめた。
「じゃあ、お姉ちゃんはどうなの? ずっとどこにいたの?」
「何言ってんのよ? アンタがあの海辺の転移門で私を飛ばしたんじゃないの?」
「違うよ、全然。私はただ、あのポータルが見えただけ。お姉ちゃんが逃げるには、それに飛び込むしかないって思ったの」
「どうして一緒に来なかったのよ?」
「あのポータルのエネルギーは、二人を転移させるには弱すぎたの」ナズの表情が真剣になる。「まるで……あれを創り出した誰かが、最初からお姉ちゃん『一人』を逃がすためだけに用意したみたいだった」
「それに……あの時のアフロディーテ様の動きも、今思えば変だった。ポータルを探知できなかったのもそうだし、攻撃の仕方も、動き方も、全部がいつもと違ってた」
「……言われてみれば、確かにそうね」
「でも、何が起きたにせよ、私は感謝してるわ」ユキは微かに微笑んだ。「おかげで、私の師匠である『ベルフェゴール』に会えたんだから」
その名前を聞いた瞬間、ナズの全身の産毛が逆立ち、声が上ずった。
「べ、ベルフェゴール!?」
「そうだけど……何よその顔?」
「お姉ちゃん、知らないの!?」
「何を?」
「冥界の王の一人にして、『怠惰の悪魔』の名前だよ!」ナズは慌てて説明する。「その力は、天界の大天使にも匹敵するって言われてる……超絶ヤバい奴なんだよ!」
「へえ、そうなの?」
ユキの反応は拍子抜けするほど薄かった。
「悪魔だろうが何だろうがどうでもいいわ。あの人は、私から何も見返りを求めずに、両手を広げて受け入れてくれた」ユキは過去を思い出し、温かい笑みを浮かべる。「それに正直なところ、『悪魔』って肩書きがもっとお似合いのクソ女神を、私は身近に知ってるしね」
「……確かに、一理あるかも」
「もしあの時の出来事が違っていたら、今の私たちはここにいなかった。これまでの人生で起きたすべてのこと(理不尽)が、今の私たちを創り上げたのよ」
ユキの瞳に、力強い光が宿る。
「私はもう二度と黙って言いなりにはならない。自分の信じるもののために、そして私を信じてくれる人たちのために、最後まで戦い抜くわ」
「……それって、あの『黒髪の男の子』のこと?」
ナズが、悪戯っぽくからかうようなトーンで囁いた。
「は? 何の話よ?」
「試験中ずっと、お姉ちゃんがあの人のことから目を離さなかったの、気づいてたんだからね」ナズはニヤニヤする。「まあ、確かに優良物件(イイ男)だとは認めるけど」
「あの馬鹿が? 絶対あり得ないわ」
「ふーん、本当に? じゃあ、私が落としちゃおっかなー」
ナズが猛毒を孕んだ小悪魔のような笑みを浮かべる。
「……キモッ」
《――まもなく第2試合が開始されます。観客の皆様は席にお戻りください》
無機質なアナウンスがロッカールームに響き渡った。
「さて、そろそろ観客席に戻る時間みたいね」
「そんなにあの男の人が気になるの?」
「まあね……。でも、私が一番興味があるのは別にあるわ」
「何?」
「この舞台の『幕の裏』に隠されているものよ」
ユキの瞳が、鋭利な刃のように細められた。
……
一方、闘技場の砂の上には、すでにリュウザキが立っていた。
その全身からは、周囲の空気を押し潰すほどの『圧倒的な静寂』が放たれている。
彼と対峙する対戦相手は、リュウザキの底知れぬ深淵のような瞳を前にして激しい恐怖に顔を歪め、すでに足元をフラつかせていた。
この世界を支配するのは、決して純粋な『武力』だけではない。
相手の魂すらも屈服させる、強靭たる『意志』もまた――絶対的な力なのである。




