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第6章・8: 紫陽花(あじさい)

激闘を終えた闘技場アリーナは、最も冷酷な心すらも優しく包み込むような、温かく穏やかな雨に覆われていた。


その場にいた全ての観客が、奇妙なトランス状態・・・・・・・に陥っていた。

気がつけば、誰もが止めどなく涙を流している。まるで、この姉妹が共に歩んできた過酷な過去の光景ビジョンを、彼ら自身が追体験しているかのように。


降り注ぐ雨の雫の一粒一粒が、彼女たちの心の最も深い場所にある『感情』を伝播させていく。それは、天上にある神々が、己の内に存在することすら否定し続けてきた純粋な温もりだった。


「……一体、何なのこれは?」

アフロディーテは、自身の掌に落ちた水滴を忌々しげに見つめながら呟いた。


「どうやら、新たな『愛の女神』が産声を上げたようだな」シュンが口角を微かに上げて断言する。「だが、彼女は己の感情を偽らず、ありのままに受け入れることを選んだ女神だ……悪くない」


ヘルメスは、突如として溢れ出した自身の涙を袖で乱暴に拭いながら、高らかに叫んだ。

「第1試合の勝者は……ユキ・ツカァァァッ!!」

満面の笑みと共に、勝利の宣言が響き渡る。


「アアアアアアアアアアアアアッ!!」


ユキは天を仰ぎ、歓喜の咆哮を上げた。

長年彼女の魂を縛り付けていた見えない『鎖』が、音を立てて完全に砕け散っていく。


観客たちがゆっくりと総立ちになり始め、闘技場は涙交じりの万雷の拍手に包まれた。

ユキは驚きに目を丸くして、その光景を見渡した。これほど多くの人々に認められたのは初めてだった。見返りなど一切求められない、純粋な「よくやった」という称賛の嵐。


「これって……」

「『承認みとめられた』ってことだよ」


地面に倒れ伏したまま、ナズが微笑みながら言葉を紡ぐ。

「ナズ!」ユキは血相を変えて妹に駆け寄った。「大丈夫!?」


「まあ……もっとマシな日もあったかな」ナズは自嘲気味に笑う。「やっぱり、お姉ちゃんには敵わないや」

「何言ってるのよ。すっごく強かったわよ」ユキは温かく、慈しむように微笑んだ。「何度も追い詰められたし……アンタは本当に強いわ」


「まだまだだよ……。それに、今はもっと厄介な問題が待ってるしね」

ナズは観客席の最上段へと視線を向けた。そこでは、アフロディーテが憎悪に満ちた冷酷な目で彼女を見下ろして立っていた。


「もう心配しなくていいわ、ナズ」

ユキは、迷うことなくスッと手を差し伸べた。

「今度は絶対に……アンタの手を離さないから」


その力強く、そしてどこまでも純粋なユキの笑顔を見て、ナズはハッと息を呑んだ。そして、ついに理解したのだ。

――お姉ちゃんはもう、完全に『自由』なのだと。


「……うん!」

ナズは、ユキの手をしっかりと握り返した。


二人の姉妹は固く手を取り合い、観客の割れんばかりの歓声と拍手に見送られながら、並んで闘技場を後にするのだった。


……



薄暗い通路の奥へと進むにつれ、ナズとユキは全身を這い回るような異様な悪寒を拭い去れずにいた。

一歩進むごとに、まとわりつくような濃密で危険なオーラ(気配)が強くなり、冷や汗が止まらない。

ついに、姉妹は震える足をピタリと止め、その場に縫い止められた。


ナズは恐怖のあまり後退りしようとしたが、ユキがその手を力強く握り直し、眼前に立ちはだかる女を真っ向から見据えた。

――アフロディーテ。


点滅を繰り返す薄暗い電灯の下で、冷酷で威圧的な女神の顔が、姉妹から一瞬たりとも目を離さずにこちらを睨みつけていた。

チカチカと光が明滅する度、彼女の顔がおぞましく歪み、崩れていくように錯覚する。そして、女神の足元からは不吉な『赤き彼岸花ヒガンバナ』が狂い咲き始めていた。


――パチッ……、パチッ……、パチッ……。


「おめでとう、ユキ……」

歪んだ、そしてひどく白々しい笑みを浮かべ、女神はゆっくりと皮肉めいた拍手を送る。


「何の用よ、このクソ女神」

「どうしたの? 誇り高き母親が、最愛の娘の勝利を祝いに来てはいけないのかしら?」

「最愛? 笑わせないでよ」ユキは吐き捨てる。「アンタ、その見え透いた芝居、いつになったら飽きるわけ?」


「お願いだから……もう私たちの邪魔をしないで」ユキは怒りを込めて睨みつけた。「私たちは、アンタの所有物じゃない」

「自分の負けを認めて、私たちを解放しなさいよ」


アフロディーテは顔を覆い、狂気を孕んだような異様な笑い声を漏らし始めた。


「何を言っているの、ユキ? 本気で私が、あなたたちをこのまま逃がすとでも思っているの?」

「あなたたちが何のために生まれてきたか、忘れたとは言わせないわ! あなたたちは、私のためのただの『道具ツール』なのよ!」

「人間としての価値なんて微塵もない! 私に仕え、私の遺産レガシーを継ぐことだけが、あなたたちの唯一の存在意義なのだから!」


……


「間違ってるわ」

ユキは微塵も怯むことなく、女神の眼光を真っ直ぐに跳ね返した。


「私たちは自由な意志を持った『人間』よ。私たちの運命は、アンタや他の誰かが勝手に決めた期待なんかには縛られない」

「アンタが何度私の存在を否定しようと構わない。私は、私の『自由』のために何度だって戦い抜く」

「何度地に伏そうと、相手が誰だろうと関係ない。私は立ち上がり、愛する者を守るために前に進み続けるわ」


ユキの体から凄まじいエネルギーが立ち昇り、その瞳に確固たる意志と力が満ちていく。

「もし、私とナズの自由を手に入れるためにアンタを殺す必要があるなら……私は一秒たりとも躊躇しないわよ」


激怒した誇り高き女神の莫大な力に呼応し、周囲の『彼岸花』が一斉に咲き乱れる。


「自分に私を倒す力があるとでも勘違いしているのね、このゴミが」アフロディーテが凄絶な声で吐き捨てる。「自分の立場を弁えなさい。私から見れば、あなたはいつでも踏み潰せるただの『蟻』に過ぎないのよ!」


対する姉妹の背後からは、無数の『紫陽花アジサイ』が芽吹き、その蔓を互いに絡み合わせて、唯一無二の強固な絆を形作っていた。

二つの相反する『花』が、今にも爆発しそうなほどの莫大なエネルギーを内包し、激しく輝き始める。


「――死になさいッ!」

アフロディーテが殺意と共に叫んだ。


……


――ガシッ!


だが、女神が手を下すより早く、絶対的な権力を持った一つの手が、彼女の腕を強制的に掴み止めた。


「何の真似よ、シュン?」

しかし、英雄は一言も発することなく、ただ氷のように冷たく、圧倒的な威圧感を持った眼光を女神へと突き刺しただけだった。


「ふん……。普段は『英雄』の称号を嫌悪しているくせに、結局こういう時は英雄ヒーロー気取りなのね」アフロディーテが皮肉たっぷりに毒を吐く。「私のことを偽善者だと罵るけれど、あなただって結局、私と大して変わらないじゃない、英雄様」


「あんたがプライベートで何をしようが知ったこっちゃない」シュンが低く、地の底を這うような声で呟く。「だが、俺の目の届く範囲で、あんたにくだらねえ真似はさせない」

「ましてや……あんた自身が『後悔』するような真似はな」


「アンタに私の何が分かるって言うのよ!?」女神が声を荒らげる。

「……全てさ」


アフロディーテはシュンの手を乱暴に振り払い、敵意を剥き出しにした。

「次に私の問題ビジネスに干渉してきたら、あなたごと洗脳コントロールしてあげるわよ、英雄様」

「へえ……やれるもんなら、やってみろよ」シュンが冷笑で応じる。


アフロディーテは二人の娘を一度だけ冷たく睨みつけると、舌打ちをし、それ以上何も言わずにゆっくりと踵を返して暗闇の奥へと消えていった。


「不愉快な思いをさせて悪かったな」シュンは軽く頭を下げた。「だが、愛の半神デミゴッドが自身の『感情(愛)』から逃げなかった姿を見られて、俺は嬉しいよ」


「……私は、ただの『人間』です。それ以上でも以下でもありません」

ユキが毅然と反論する。


「そうか。それを聞けて心底安心したよ」

シュンは、先ほどまでの冷酷さが嘘のような、太陽のように温かい笑みを向けた。

「その姿勢を忘れるな」彼は歩き出しながら言い残す。「そして、決して忘れるな。――『感情』は、決して弱点なんかじゃない」

「は、はい……」


その言葉を最後に、英雄は静かにその場を去っていった。

圧倒的な嵐が過ぎ去った後、二人の姉妹はただ呆然と立ち尽くし、今起きた信じがたい出来事を反芻するしかなかった。


……



暗がりの中を遠ざかっていく女神の背中を、シュンは足早に追いかけ、そして静かに問いかけた。


「……いつまで、その『悪役ヴィラン』を演じ続けるつもりだ?」

「あなたにだけは言われたくないわね、シュン」

アフロディーテは、振り返ることなく冷淡に答えた。


「誰だって、生きていれば過ちを犯す。だが、いつかはそれと真正面から向き合わなきゃならない時が来るんだ」シュンは諭すように言う。「永遠に逃げ続けることなんて、誰にもできない……」


「私の罪は、決して許されるものじゃないわ」

不意に、女神の口から自嘲するような、弱々しい本音がこぼれ落ちた。

「『あの日』……ユキが私の元を去ったこと。あれが最善の結果だったのだと、私自身が一番よく分かっているのよ」


「だというのに、あの子の記憶に焼き付いている『悪魔』の姿を、未だに演じようとしている。……どうしてだ?」


「あの子が私に向ける『憎悪』こそが、あの子を強くする原動力トリガーになったからよ」


「……それは違うな」

「え?」


「あんたへの憎悪があいつを強くしたってのは間違っちゃいない。だが、あいつの本当の力の源は、妹への『愛』だ」シュンは断言する。「もし憎しみだけで作られたハリボテの力なら、今のあいつのような本物の強さには絶対に届かなかったはずだ」


「あいつは今日、ついに未来への一歩を踏み出した。だが、それは過去を切り捨てたわけじゃない。自分の抱える恐怖も、トラウマも、そしてかつての幸せだった記憶も……その全てを抱きしめた上で、前へ進むことを選んだんだ」


「だが、あんたは違う。あんたは未だに、自分を呪縛した『過去』に囚われたままだ……」

シュンの声には、明確な痛みが混じっていた。

「忘れろとは言わない。だが、あんたもいつかは……立ち止まるのをやめて、前へ進まなくちゃならない」


その言葉を聞き、アフロディーテは足を止め、肩越しに冷ややかな視線を英雄に向けた。


「……なら、あなたは? あなたは、『彼女』のことを忘れられたというの?」


「いいや……」シュンの瞳に、どうしようもない切なさと、揺るぎない決意が交差する。「だが俺は、『彼女』の記憶の中にこそ、明日を見るための力を見出している」

「それが彼女の望みだと分かっているからな。結局のところ、俺たちがこの世界にいられる時間は……永遠じゃないんだ」


「少しずつ、確実に……『未来(次世代)』が玉座を奪い取ろうと迫ってきている。俺たちが気づいた頃には、もう背後にピタリと張り付いているのさ」


……


そして――その『未来』は、すでにアテネの街へと静かに忍び寄っていた。

それは誰の目にも触れる場所にあったが、その異変に気づくことができる者は、ほんの一握りに過ぎない。


「……これはいかにも、面白そうだ」


喧騒に包まれたアテネの街角で、見知らぬ謎の男が、その底知れぬ顔に不敵な笑みを浮かべて呟いた。

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