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第6章・5: 泡沫(うたかた)

――崩壊の数分前。


「一体ここで何をしているの、レイ!?」

アフロディーテが怒りを露わにして吐き捨てた。

「……それとも、もうその名前で呼ぶべきじゃないのかしら?」


愛の女神の眼前に立っていたのは、洗練された身なりをした、栗色の髪と緑の瞳を持つ美丈夫びじょうふだった。


「久しぶりだな、愛しいマイ・ディア」レイは薄く笑みを浮かべて言った。

「あれだけのことをしておいて、よくも抜け抜けとその口が叩けるわね。本当に厚顔無恥な男……」

「まだあの・・で恨んでいるのか? 彼女のためを思ってやったことだと、君もよく分かっているはずだろう」


「一片の慈悲もなく彼女を殺したくせに、私にただ忘れろとでも言うの!?」アフロディーテが声を荒らげる。


「俺はただ命令に従っただけだ、アフロディーテ」レイの表情が険しくなる。「彼女は、関わるべきではない連中に首を突っ込みすぎたんだよ」

「それで、今はあいつらの靴を舐めているってわけね? 本当に『ドブネズミ』という呼び名がぴったりだわ……」

「黙れ……」


「私たちは家族だったのよ!」


「家族、だと?」

その言葉がもはや何の意味も持たないかのように、レイは皮肉げに繰り返した。

「この世界において、そんな言葉に価値などない」レイはギリッと歯を食いしばる。「俺が見てきた地獄の片鱗でも味わえば、そんな言葉がいかに無意味か分かるはずだ」

「美しく聞こえるだけの、空虚な戯言に過ぎない……」


「だったら、一体何しにここへ来たのよ!」アフロディーテが感情を爆発させる。「あなたにとって家族が何の価値もないなら、今すぐ消えなさい!」


「俺自身にも、分からないんだ……」

「は?」


「この何年も、俺はあちこちを彷徨い歩いてきた……。自分が本当は何者だったのかすら、もうよく思い出せない」

レイの瞳に、深い影が落ちる。

「奴らが切望する『完璧な兵器』になり果てたが……そもそも、何が俺をそこまで突き動かしたんだったか」

「その答えは未だに分からない。だが、一つだけはっきりしていることがある。……ただ一度くらいは、娘のために『正しいこと』をしてやりたいんだ」


「……何の話をしているの?」


だがその瞬間、アフロディーテは周囲を覆い始めた紫色の不気味な煙に気がついた。


(一体何なの、この煙は……?)

アフロディーテは驚愕して目を丸くする。


……

――その後、何が起きたのか? それは未だ、謎に包まれている……。




――ドゴォォォォンッ!!


木々と茂みを掻き分けながら、ユキとナズは荒い息を吐き、必死の形相で駆け抜けていた。

一歩踏み出すごとに、泥が鉛のように足に絡みつく。降り注ぐ土砂降りの雨が、大地を最悪の泥濘ぬかるみへと変えていた。

背後では、周囲の樹木がまるで水風船のように次々と爆け飛んでいく。二人の瞳は恐怖に凍りついていた。


「逃げるのはやめなさいッ!!」

怒り狂ったアフロディーテの咆哮が轟く。


絶え間なく閃く稲妻が、血と泥にまみれた女神の顔を青白く照らし出した。

秒を追うごとに、彼女が被っていた『完璧な仮面』は風に舞う塵のように崩れ去っていく。

少女たちが自由を求めて走る背後で、作られた『永遠の箱庭』は無惨に崩壊し始めていた。


蝶は毒蜘蛛に貪り食われ、咲き誇っていたサクラは黒く枯れ落ちていく。


その時、ユキが泥に足を取られて倒木につまずき、足首を激しく捻ってしまった。

「痛ッ……ぁぁッ!」

「お姉ちゃん! あと少しでここから抜け出せるよ、お願いだから諦めないで!」

「私のことは構うな……ッ! アンタだけでも走れ!」


だが、ナズは迷うことなく姉に向けてその小さな手を差し出した。

「今さらこの手を離すつもりなんてないよ、お姉ちゃん」


ユキはギリッと歯を食いしばり、ナズの肩に腕を回して再び前へと進み始めた。


「無駄よ! 私から逃げ切れるとでも思っているの!?」

女神が狂ったように手当たり次第に攻撃を放つ。

それでも、二人の少女は残された全ての力を振り絞って走り続けた。……だが。


「危ないッ!」

ナズが叫び、ユキの体を力強く突き飛ばした。


――ドゴァッ、メキィッ!!


無慈悲な一撃がナズの小さな体を真芯で捉え、断崖絶壁の近くにある巨大な岩へと彼女を激しく叩きつけた。


「ナズッ!!」


「だから、逃げるのは無駄だと言ったでしょう!」アフロディーテが忌々しげに叫ぶ。

その顔は歪み、髪は振り乱れ――その時初めて、愛の女神は自らの内に潜む『真の怪物』の姿を晒していた。


「……クソ魔女が」ユキは拳から血が滲むほど強く握りしめ、低く唸った。


「私から逃げられるわけがないのよ、ユキ。あなた自身が一番よく分かっていたはずなのに、そのせいで自分の可愛い妹を危険に晒したのね」

「本当に……がっかりだわ」

「黙れ……」


「見てみなさい、あんなに血を流して……。あの一撃を食らったのだから、そう長くは持たないでしょうね」

岩の下で意識を失っているナズの顔は、痛々しい血と傷に覆われていた。

「黙れ……ッ」


「私のもとへ戻るなら、あの子を助けてあげられるかもしれないわよ?」

女神は、甘く優しい声を作ってそっと手を差し伸べた。


「黙れ、黙れ、黙れェェェェッ!!」

ユキは喉が裂けるほどの声で叫んだ。

「もう二度と、アンタのクソみたいな嘘には騙されないわよ! どうして殺したの!? どうして私のお父さんを殺したのよッ!!」


その言葉を聞いた瞬間、アフロディーテの表情が劇的に凍りつき、冷徹なものへと変わった。

「……なぜ、それを知っているの?」


「父さんが私に残してくれた、唯一の形見よ」

ユキは懐から小さな『ロケットペンダント』を取り出した。そこには、まだ赤ん坊だったユキを愛おしそうに抱きかかえる、あの男の写真が収められていた。


「私が『GODS』に入学したら、父さんの本当の居場所を教えるっていうのが『取引』だった……。でも、最初から約束を守る気なんてなかったんでしょ!?」

アフロディーテは、ただ沈黙でそれに答えた。


「もう二度と……アンタの操り人形マリオネットにはならないわ」

ユキの瞳に、決して折れない強靭な意志が宿る。


突如として、制御不能な莫大なエネルギーの奔流がユキの体から爆発的に吹き上がり、美の女神すらも驚愕に目を見開かせた。

(一体、この力のどこに隠し持っていたというの……!?)


「このまま死んだって構わないわ。でも……ほんの一瞬だけでもいいから、『自由』ってやつを味わってみたいのよ」


「狂った真似はおやめ、ユキ! あなた自身、その力を全く制御できていないじゃない! これ以上無茶に力を引き出せば……自滅するわよ!」


「……上等じゃない」

ユキは、小刻みに震える口角を無理やり引き上げ、ひどく歪んだ笑みを浮かべてそう答えた。


突如、か細い声がユキの足をぴたりと止めさせた。

「ユキ……お姉ちゃん……」

「ナズ……ッ! 大丈夫!?」


「お姉ちゃん……私の手を、握って」

「今はそんなこと言ってる場合じゃないわ! もう少しでここから抜け出せるんだから!」ユキは涙まみれの顔で、必死に笑いかけようとした。「二人で一緒にここから出るって……約束したでしょ?」


ナズは、力なく震える小さな手を姉へと差し出した。

「う、うん……」

ユキはその手をしっかりと、温かく握りしめる。

そして、耳を疑うような言葉を聞いた。


「愛してるよ、お姉ちゃん」

「……え?」


――ドンッ。


一切の警告もなく、ナズは姉の体を奈落のポータルへと力強く突き飛ばした。

追いついたアフロディーテは、その光景を前に完全に硬直する。


(一体、何が起きたというの……?)

終わりの見えない暗い穴へと落ちていくユキの目に最後に映ったのは――微かに、けれど確かに微笑んでいる妹の顔だった。


「ナァァァァァァァァァズッ!!」


「貴様、一体何をしたァッ!!」アフロディーテが激昂し、ナズの首を乱暴に締め上げる。

「……お姉ちゃんは、自由になるの」ナズは満足げな笑みを浮かべて答えた。


その言葉にハッとしたアフロディーテは、絶望的な焦燥感と共に崖へと駆け寄った。

そして、その眼前に広がる光景に限界まで目を見開き、愕然と呟く。

「……馬鹿な」


空間に開いていた転移門ポータルが、まるで与えられた使命を全うしたかのように、瞬きする間にふっと閉じて消滅したのだ。


「レイィィィィィィィィッ!!」

女神の絶叫と共に、周囲の荒野を跡形もなく吹き飛ばすほどの圧倒的なエネルギーが爆発した。


……


――バリィィィンッ!


空間がガラスのように割れ、そこから放り出された小さな少女が、木々が生い茂る斜面をブレーキもかけずに転がり落ちていく。

何度も何度も回転し、その純白だった髪は泥と埃にまみれ、かつての純粋な面影は見る影もなくなっていた。


――ドガンッ!

ついに、一本のヤシの木に激突してユキの体は停止した。


「……クソッ」

(一体、何が起きたの……?)

ユキはふらつく体をゆっくりと起こそうとする。

「痛ッ……」大きく腫れ上がった足首に触れ、顔をしかめる。


(ナズ……どうして?)

あの温かく、どこか寂しげだった最後の微笑みが脳裏にフラッシュバックする。

「愛してるよ」という妹の最期の言葉を思い出し、ユキはついに堪えきれず号泣した。「クソッ、クソッ、クソッ!!」と何度も何度も地面を憎悪と共に殴りつける。


……だが。

妹がこれからあの女にどんな目に遭わされるかを想像した瞬間、ユキは乱暴に涙を拭い、無理やり立ち上がろうとした。

「戻る方法を見つけなきゃ……。ナズを、あの女の所に置いたままになんてできないッ!」


しかし、顔を上げた彼女の瞳は、目の前に広がるあまりにも美しい景色に大きく見開かれた。

まばゆいほどに輝く黄金の砂浜。岩肌に優しく打ち付ける波の音。そして、この静寂に満ちた場所に命を吹き込むような、カモメたちの鳴き声。


「こ、ここは……どこ?」


……


「色は匂へど 散りぬるを ♪

我が世誰ぞ 常ならむ ♪

有為の奥山 今日越えて ♪

浅き夢見じ 酔ひもせず ♪」


背後から聞こえてきた歌声に、ユキは恐怖で振り返った。そこには、奇妙な笑みを浮かべた男が立っていた。


「俺の師匠はよく言っていたよ。物事ってのは、永遠に続くとその価値を失っちまうものだってな」

見知らぬその男は、悠然と語りかける。

「お嬢ちゃんもそう思わないか? 美しさってのは……この『泡沫うたかた』の中にこそあるって」


ユキは完全に硬直していた。どうすればいいのか分からない。

(動けない……体が言うことを聞かない。何が起きてるの……!?)


「馬鹿な真似はよせ、お嬢ちゃん」男はゆっくりと波打ち際の方へ歩き出しながら呟く。「そんな状態で変に動けば、お前の足首は体重に耐えきれずに完全にイカれるぞ」


男は砂浜を漁り始め、不可解な行動でユキを困惑させた。

「よし、こいつでいい」空っぽの貝殻を拾い上げ、男は満足げに言う。

男が振り返ると、混乱しきった少女の視線とぶつかった。


「ん? なんだその顔は?」

「あ、アンタ……誰よ?」


「ああ、こいつは失礼した」男は大げさに、そして軽く一礼する。

「俺の名前はベルフェゴール。……まあ、一部の奴らは俺のことを『怠惰の悪魔』なんて呼んだりもするがね」


海風が、その男のひどく無精な髪を揺らした。

疲労が染み付いた灰色の瞳。手入れされていない灰色の髪と髭は油と埃にまみれ、彼がいかに怠惰な生活を送っているかを物語っている。


だがこの瞬間、彼は直感していた。

このちっぽけな少女が自分の在り方を少しだけ変え、彼女の瞳に宿るその燃え盛るような炎が、自身の怠惰を容赦なく蹴り飛ばすことになるだろう、ということを。

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