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第6章・3: 桜(さくら)

「ああああああああッ!!」


二人の戦士が獣のような咆哮を上げ、激しくぶつかり合う。


――ドゴォォォォンッ!!


闘技場コロッセオ全体が、剣と剣の衝突によって凄まじく鳴動した。

互いの刃には、彼女たち二人にしか理解し得ない重すぎる感情(十字架)が乗せられている。


爆発的な衝撃波により、分厚い砂埃が瞬く間に闘技場を覆い尽くした。

そして――姉妹の眼前に舞うその砂埃の一粒一粒が、まるで走馬灯のように『記憶』の欠片となってフラッシュバックしていく。


まだ縛られることなく自由だった頃の記憶。

その幼く脆い顔に、無邪気な笑みを浮かべていた頃の――。


……


――今から5年以上前。


永遠の春が咲き誇る、花と木々に覆われた広大な草原。

満開のサクラが空を鮮やかな薄紅に染め上げる一方で、足元の土の底からは、美しくも残酷な椿ツバキが顔を出していた。


「……これは、どういうつもり?」

黄金色の髪とみどりの瞳を持つ美しい少女が尋ねた。


彼女の眼前にはアフロディーテが立ち、その後ろには、雪のように白い髪と青い瞳を持つ小さな少女が隠れるように身を潜めていた。


「あなたの妹の、ナズよ」

アフロディーテは、小さなナズを前へと押し出す。

「は、はじめまして……お姉ちゃん」

ナズが、おずおずと口にする。


幼きユキは不機嫌そうに女神を睨みつけ、言い放った。

「私の使命ミッションの邪魔はさせないって、はっきり言ったはずだけど。私が取引を果たす上で、この子は足手まといになるだけよ」


「そんなこと、あなたが気にする問題じゃないわ、ユキ」アフロディーテが冷酷に告げる。「あなたは、いつか私の座を継ぐためのただの『道具ツール』に過ぎないの」

「あなたの存在する理由は、我々に仕え、いつか女神になることだけ。それ以外に、あなたの命に価値なんてないのよ」


「むしろ、同じレベルの訓練相手ができたことを感謝しなさい。私の傍でこれ以上訓練を続けても、あなたの成長は見込めないもの」

女神は言葉を続ける。

「でも安心してちょうだい。あの『取引』はそのままよ。……全てはあなた次第だけどね」

「もしあなたの実力が足りないと判断したその時は――ナズがあなたの『代わり』になるわ」


ユキは怒りで拳を震わせ、噛み付いた。

「この、嘘つき女が……ッ!」

「まあまあ、落ち着きなさいな」

「あの子があなたを超えた時だけだと言ったじゃない。自分の力に絶対の自信があるなら、何の問題もないはずよね?」


「……本当に、吐き気がするわ」

ユキが低く唸る。


――チャキン。


「これは何の真似?」

地面に放り投げられた一振りの剣を見て、ユキが問う。


「自分がまだ相応しいと証明したいのでしょう?」アフロディーテが歪んだ笑みを浮かべる。「ここに、その機会チャンスを与えてあげるわ」


ユキは剣を拾い上げ、その鋭い刃を、どこか奇妙な哀愁を帯びた瞳で見つめた。

「もう一度『あの人』に会うために、何をすべきか分かっているわね、ユキ……?」


――ギンッ!!


「……あら?」

氷のように冷たい刃が、アフロディーテの首筋を掠め、一筋の赤い線(切り傷)を刻み込んだ。


「アンタの汚い思惑通りに動くと思ったら大間違いよ」ユキは憎悪を込めて睨みつける。「罪のない人間を……ましてや、自分の妹をこの手にかけるつもりなんてないわ」

「……忌々しいガキね」


ユキは手を伸ばし、小さなナズの手をしっかりと握った。

「行くわよ、ナズ


ユキは妹の手を引き、女神の冷ややかな視線を背に受けながら、その場からゆっくりと立ち去っていった。


(いずれ、究極の選択を迫られる時が来るわよ、ユキ……)

女神は不気味な笑みを浮かべ、内心でそう呟いた。


……


――ジジッ……、ジジジッ……。


弱々しく明滅する電灯が、その狭く、冷たく、そして湿っぽい部屋を頼りなく照らしていた。

そこにあるのは小さなトイレと、穴だらけだがどこか奇妙な温もりを感じさせるマットレスだけだ。


「こんなむさ苦しい所で悪いわね」

ユキは靴を脱ぎながら言った。

「森で拾ったガラクタで、どうにか建てられたのがこれだけなのよ」

「お、お姉ちゃんが……建てたの?」

「ええ。数年前まではずっと野宿だったから、これでも大進歩なのよ」ユキは笑い飛ばすように告白した。


「でも……どうしてアフロディーテ様と一緒に住まないの?」


その無邪気な問いを聞いた瞬間、ユキの表情が石のように硬直した。

「あの女にとっては、私が死んでくれた方が都合がいいのよ」


それを聞き、ナズはシュンと俯いて呟いた。

「ご、ごめんなさい……」

「アンタが謝る必要なんてない。全部アンタのせいじゃないんだから」ユキは静かに首を振る。「私がここにいるのは、ここが好きだからでも、母親気取りのあの女から愛情を注いでもらうのを期待してるからでもないわ」


「私には、果たすべき目的がある」

「……女神になること?」

「いいえ。本当のお父さんに、もう一度会うことよ」


「えっ……?」

「私の中にある唯一の記憶は、あの女が私をお父さんの腕から無理やり引き離した時のことだけ」ユキの目に強い意志が宿る。「『女神』になるっていうのは、お父さんの元へ辿り着くためのただの手段ルートに過ぎないの」


「それなら、どうして逃げないの?」ナズが不思議そうに尋ねる。「少し遠回りになっても、いつか絶対に会えるはずだよ」

「そう簡単な話じゃないのよ……」

「どうして?」


ユキはゆっくりとシャツをずらし、背中を覆い尽くすほどの『巨大な傷跡』を露わにした。そのあまりにも痛々しい烙印を目の当たりにし、ナズは恐怖に息を呑む。


「何……それ……」

「あの女から逃げるなんて不可能よ」ユキは強い怨嗟を込めて吐き捨てた。「アンタはまだ気づいていないかもしれないけど、あの女の『全華ゼンカ』はこの領土全体を覆い尽くしている。私たちが何をしているか、完全に把握されているのよ」

「会話の内容までは分からなくても、常に監視の目は光ってる。私たちが逃げようと少しでも動けば、すぐにバレるわ」


「私はもう痛みに慣れてるから、何度失敗したって構わない」ユキはシャツを戻し、言葉を続ける。「……でも、アンタに同じ思いをさせるつもりはないわ」

「私だって強いもん!」ナズは姉を見上げて叫んだ。


「疑ってないわよ」ユキは優しく微笑んだ。「でもね……私がそこまで強くないのよ。アンタが苦しむ姿を見るのには耐えられない」

「ユキお姉ちゃん……」


「あいつは私の弱点をよく分かってる。だから、アンタをここに連れてきたのよ」ユキは自嘲気味に説明する。「この忌まわしい場所に私を縛り付ける『鎖』があれば、私が逃げるのをためらうって知ってたからね」

「……ごめんなさい」

「だから、謝る必要はないって言ったでしょ。あの女神は、根っからのドブネズミなのよ。私たちが自由になるその日まで、大人しく従ったフリをしてやるしかないわ」


ユキは温かいベッドに横たわり、かつて自分が味わった地獄の痛みを、これ以上誰にも味あわせまいと固く心に誓っていた。


「……ずっと、一人だったの?」

ナズがぽつりと尋ねる。

「ええ……。だから、話し相手がいるっていうのも、案外悪くないかもね」

ユキは、年相応の無邪気さで小さく呟いた。



ナズはユキの隣に寝転がり、静かに口を開いた。

「まだ、ここから抜け出せる可能性はあると思う」

「その話はやめなさい。不可能だって言ったでしょ」

「不可能じゃないよ」

「ナズ……」


「お願い、私を信じて」ナズは力強く言った。「お姉ちゃんがここから逃げ出せる『確率チャンス』は、十分にあるはずだよ」

「時間はかかるかもしれないけど、これが私たちの唯一の機会チャンスなの」


「……どういうこと?」ユキはナズを見つめて尋ねる。


「ギリシャの神々は毎年、同じ日に『GODS』の選抜試験へ向かうでしょ?」ナズが説明する。「もし、神々の意識が逸れるその僅かな隙を突くことができれば……ここから逃げられる」

「いくらアフロディーテ様が瞬時に戻る術を持っていたとしても、気づいた時にはもう手遅れだよ」


「でも……だとしても、あいつはこの場所を支配してる。私たちを見張ることができるわ」

「うん。でも、本人がここにいない以上、その支配は安定しない。彼女の『全華ゼンカ』は、お姉ちゃんが思ってるほど万能じゃないんだよ」


「アンタ、本当に私より二つ下なの?」ユキは引きつった笑いをこぼした。「まるで、人生を20回くらいやり直してきた(ループしてきた)みたいに聞こえるわよ」

「私のお父さんが、『全華』の偉大な研究者だったの。そのおかげで、色んなことを知ってるんだ」

「アンタのお父さん、最高ね!」

ユキは熱を込めて叫んだ。


二人は、心からの純粋な笑みを交わし合った。

それは、彼女たちの心の最も深い場所に永遠に刻まれることになる、儚くも温かい『一瞬』だった。


……


ユキはナズに向けてそっと手を差し出し、宣言した。

「でも、私一人でここから逃げるつもりはないわ」

「ユキお姉ちゃん……」

「アフロディーテの奴に、これ以上誰かを傷つけさせたりしない。絶対に」ユキは強く頷く。「ここから出ていく時は……二人一緒よ」

「うん、一緒!」


トラウマと激痛に苛まれ続けてきた少女は、その時初めて、暗く果てしない絶望のトンネルの先に『光』を見出した。

どんなに凍えるほど冷たく、深い闇の中でも、確実に彼女を導いてくれる希望の光。


その光は、一人の少女――『ナズ』という名の妹そのものだった。。

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