第6章・2: 傀儡(マリオネット)
張り詰めた空気が、その場を支配する。
姉妹の視線が交差する。そこには、二人にしか理解できないノスタルジア(郷愁)とルサンチマン(怨嗟)が複雑に絡み合っていた。
「……どうして、アンタがここにいるの、ナズ?」
ユキが混乱した声で尋ねる。「死んだと……思ってたのに」
「それはこっちのセリフだよ、ユキ」ナズは冷ややかに返す。「家を出て行ってから5年間、手紙の一通すらよこさなかったくせに……」
ユキは俯き、悔しさに拳を強く握りしめた。
「……仕方がなかったのよ」と、絞り出すように言う。「もしアンタに手紙なんて送れば、アフロディーテは躊躇なく私を狩りに来る。あいつに刃向かった直後だったんだから……」
「でも……それでも、なんでアンタがこんな所にいるのか分からない!」ユキの声が震える。「ここは危険すぎるわ。死ぬかもしれないのよ!」
「死んでも構わない」
ナズは微塵の揺らぎもない声で断言した。「私はこの時のために、何年も準備してきたんだから」
「どういうこと!? アンタ、こういう争い事は大嫌いだったはずでしょ!」
「私も、お姉ちゃんはそうだと思ってた……。でも、結局アフロディーテ様の言った通りだったね」
ナズは目を細めた。
「彼女は言ったよ。ユキは必ず『女神』の座を狙うはずだって。その底なしの野心のせいで、あんなに忌み嫌っていたこの場所に結局戻ってくるってね」
「違う、ナズ! 私は女神になんてなるためにここへ来たんじゃない。私たち二人を散々苦しめた、あのアフロディーテを狩るために来たのよ!」
「間違っているのは、お姉ちゃんの方だよ」ナズが冷酷に言い放つ。「私が全てを失った時……ずっと傍にいてくれると信じていた人に見捨てられた時、アフロディーテ様だけが私に縋るものを与えてくれたんだ」
「馬鹿なこと言わないで!」ユキが声を荒らげる。「あいつはアンタを洗脳してるだけよ! 昔、私にやったのと同じように! あの女がそういう手口を使うのは初めてじゃないでしょ!」
「私はもう、あの頃の馬鹿な子供じゃないよ、ユキ。……戦場でそれを証明してあげる」
「ナズ……」
「手加減はしない」ナズは無慈悲に告げた。「必要なら、躊躇なくアンタを殺すから」
その言葉を最後に、ナズは一度も振り返ることなく立ち去った。
かつて「姉」であった少女を、無数の疑問と絶望の中に置き去りにして。
……
だが次の瞬間、ユキの表情は石のように硬く、冷酷なものへと変貌した。
「さっさとその陰から出てきなさいよ、毒蛇女」
暗がりの中から、豪奢な金髪を揺らしながら、美しくも危険な女のシルエットが浮かび上がった。
「本当に鋭い感覚ね。驚いたわ、私の愛しい娘」
アフロディーテが、致死量の毒を孕んだ笑みを浮かべて囁く。
「アンタのその口からそんな言葉を聞くと、反吐が出るわ、この下衆が」
「あら、私は会いたかったのに」
「ナズに……ナズに一体何をしたの!?」
ユキが牙を剥く。
「私が? 違うわ、違うわ。自分の娘に指一本触れるような真似、私がするはずないじゃない」
「私の前で『愛の女神』の仮面なんて被るな、このクズ!」ユキは激しく吐き捨てた。「アンタが何を言おうと、もう二度とその嘘には騙されないわよ!」
「嘘なんかじゃないわ、ユキ」アフロディーテは悪びれもせず言う。「私はただ、あなたの可愛い妹に『純粋な真実』を教えてあげただけ」
「……何の話よ?」
「冷酷で強情な姉が、半神としての責任から逃れるために、実の妹を『囮』にして逃げ出したってことをね」
心底どうでもよさそうに、女神は言い放った。
「ふざけるな……ッ!」ユキはギリッと歯を鳴らす。「私があの吐き気のする場所から出て行った本当の理由、アンタが一番よく分かってるでしょ!」
「約束を破ったのはアンタだ! ナズと一緒にあの場所から逃げるはずだったのに、それを邪魔したのはアンタじゃないか!」
「私はあの子を見捨ててなんかない! 毎晩……一晩たりとも、あの子のことを忘れたことなんてなかった!」
「あら、ならどうして戻ってこなかったの?」
アフロディーテの笑みが、鋭利な刃物のように細められた。
「いくら鍛えても……アンタに立ち向かうだけの力がなかったからよ」ユキは血の滲むような声で告白する。「でも、絶対に狩ってやる。遅かれ早かれ、その醜い顔を切り刻んでやるわ、お母様」
「その機会は永遠に来ないわ。あなたも分かっているはずよ」女神は冷笑する。「ナズは昔から、あなたよりずっと優秀だったもの」
「むしろ、出て行ってくれて感謝しているくらいよ。所詮、あなたは半神の『失敗作』だったんだから」
「未だに『全華』の制御すら不安定なんて……私の血を引いているくせに、万死に値するわ。顔を見るだけで、吐き気と羞恥心で胸がいっぱいよ」
だが、その罵倒を聞いたユキは、ふっと皮肉げな笑みをこぼした。
「……残念だけど、アンタの計画は失敗に終わるわ」
「どういう意味?」
「あの最悪な夜から、必死に努力してきたのはナズだけじゃない。アンタから受けた全ての仕打ちに復讐するため、私は血反吐を吐く思いで鍛え上げてきたのよ」
ユキの瞳に、獰猛な光が宿る。
「今日、手始めにアンタのシナリオを全部ぶっ壊してあげるわ。アンタが『失敗作』と呼んだゴミが、どれだけ強くなったか見せてやる」
「そして、ナズをその薄汚い手から取り戻したら……次に地に堕ちるのは、アンタよ」
捕食者のようなユキの眼光に射抜かれ、美の女神の肌が本能的に粟立った。
(……今の感覚は、何?)
アフロディーテが僅かに息を呑む中、ユキはゆっくりと背を向け、歩き出す。
「特等席でよく見てなさい、『愛なき女神』様」
……
――ドムッ、ドムッ、ドムッ!
観客の熱狂的な叫び声に呼応するように、重低音の戦太鼓が闘技場を震わせる。
オリンポスの旗が海風に激しく煽られ、中天に昇った太陽が、容赦なく戦場を照らし出していた。
黄金の砂が、風に乗って薄っすらと舞い上がる。
絶対者の手によって引き裂かれ、別の道を歩まされた姉と妹。
かつて同じ過去を共有した二人の視線が、今、闘技場の中央で再び交差した。
だがそこに、かつてのような愛や慈しみはない。あるのはただ、失われた年月への清算を求める、血の叫びだけ。
遥か上空の玉座から、神々が目を光らせている。
彼らの残酷な遊戯が、いよいよ幕を開けようとしていた。




