第5章・1: もう、振り返らない
少年は、暗闇の中に足音を響かせた。
背中の翼を広げ、その瞳には激しい闘志が宿る。
(この階段の先に何が待っていようと、もう振り返ることはできない)
エデンは、わずかに背後へ視線を向けた。そこには、ただ暗闇に飲み込まれた果てしない通路が続いていた。
「さらばだ……過去のエデン。もう、恐れることはない」
決意と共に、彼は一歩を踏み出した。
――カッ!
突如として放たれた強烈な閃光が、少年の視界を奪う。
……ゆっくりと、景色が形を成していく。
目の前に広がる光景に、彼は思わず息を呑んだ。
まるで、夢のような場所だった。
大理石のように白い巨大な闘技場。その中心には、黄金のように輝く砂が敷き詰められている。
鳴り響く太鼓とリラの音が、その場を支配していた。
観客たちの熱狂的な歓声が地響きのように伝わってくる。
ケンタウロスやサイクロプスが猛々しく咆哮し、劇場を揺らす。
ニンフたちは、魂を奪うほどに美しい歌声を響かせていた。
人間と、この世の者とは思えない異形の存在たちが、客席で共に騒いでいる。
「……狂ってるな、この世界は」
引きつった笑みを浮かべ、彼は小さく呟いた。
その時、周囲のざわめきが一際大きくなった。観客たちの視線が、黒い剣を背負った少年へと集まる。
「エデン! こっちだ!」
聞き覚えのある温かな声。
「シュウ、それに……」
エデンの視線が、今なお鋭い眼光を放つユキと交差した。
「おいおい、いつまでも子供みたいに睨み合うなよ」
シュウが苦笑しながら、エデンの肩に手を置いた。
「……ああ」
その場の空気は、重く、気まずい沈黙に包まれていた。シュウも即座にその異変に気づく。
(……あの後でこの二人を合わせるのは、早計だったか)
シュウが内心で後悔しかけたその時、予想外の言葉が放たれた。
「……ごめんなさい」
ユキが、消え入るような声で呟く。
「えっ?」
「……謝ったのよ」
「ユキ……」
エデンは疑わしげにシュウを睨みつけた。
「シュウ、お前彼女に何をした? 何か脅したのか?」
「どんな人間だと思われてるんだよ、俺は!」
エデンは数秒間、声を上げて笑った。
だが、次の瞬間、その表情から笑みが消え、冷徹で、どこか脆い色を帯びる。
「謝罪なんて必要ない」
突き放すような、残酷なまでの言葉。
「え……?」
二人が驚きに目を見開く中、エデンは淡々と続けた。
「お前が言ったことは事実だ。俺はこの場所にふさわしくない」
「お前たちのように、神だか何だかになろうなんてつもりもないんだ」
「お前たちが流してきたほどの血も汗も、俺は知らない。一目見ればわかる……俺たちは、最初から同じ土俵にすら立っていないんだ」
自嘲気味な笑みを浮かべ、彼は自分の無力さを認める。
「……だけど、負けるわけにはいかないんだ」
エデンの瞳に、確固たる光が宿る。
「俺がここにいる理由は、お前たちの覚悟と同じくらい価値がある。もし、お前たちのどちらかを排除しなければならないのなら――俺は躊躇わず、そうする」
その言葉を聞き、シュウとユキの口元に、どこか満足げな笑みが浮かんだ。
「なら、俺も手は抜けないな」
シュウが応じる。
「お前の意志に敬意を表して、俺も全力で叩き潰させてもらうよ」
シュウの緑の瞳が、じわじわと黄金色に変色していく。まるで、その瞳が溶けた金に浸されていくかのように。
「アンタがここにいること、まだ認めたわけじゃないわ」
ユキが告げる。
「でも、その眼に嘘がないことだけは認めてあげる」
「だから……何一つ出し惜しみしないでよね、バカ」
「そっちこそな、ブス」
――パァァンッ!!
たった一回の拍手が、その場にいる全員を震え上がらせ、瞬きする間に闘技場を静寂で包み込んだ。
(な、何だ今の音は……?)
エデンは頭を振り、必死に平静を取り戻そうとする。
視線を上げると、そこには雷光を纏っているかのような、筋骨隆々の大男が立っていた。
(一体、何者なんだ……!?)
男は、まるで宝探しでもしているかのように、参加者たちを値踏みするような視線で舐め回す。
……そして。
青く輝く双眸がエデンを捉えた瞬間、男の顔に不敵で、どこか狂気を孕んだ笑みが浮かんだ。
「――見つけたぞ」
――ズゥンッ!!
目に見えない圧倒的な力が、闘技場にいる全員の体を容赦なく地面へと叩きつけた。
その力の規模はあまりにも凄まじく、意識を手放す参加者が続出する。
(なんだ、この異常な体の重さは……?)
見えざる力にゆっくりと地面へ引きずり込まれそうになりながらも、エデンは歯を食いしばる。
(……だが、奈落での重圧に比べれば、こんなもの……!)
……しかし。
エデンの眼前に現れた幻影に、彼は息を呑み、言葉を失った。
虫の息となった祖父が、膝をつき、こちらをジッと見つめている。
その瞳が雄弁に物語っていた。――『お前のせいだ』と。
「じい、ちゃん……」
一方、地面に這いつくばるシュウとユキは、内臓が破裂しそうなほどの激痛に顔を歪めていた。
見開かれた彼らの瞳は、まるで終わらない悪夢を何度も繰り返し見せられているかのようだった。
観客席でさえも、その余波で気分を悪くし、次々と倒れ込む者が後を絶たない。
だが、男の予想に反して、エデンは静かに呟いた。
「……ごめん、じいちゃん。もう少しだけ、待っててくれ」
ゆっくりと、しかし確実に。
エデンは顔を上げ、男の意志に抗うように、その両眼で男を鋭く睨みつけた。
迷うことなく黒き剣を握り直し、戦闘態勢へと移行する。
「……ほう、悪くない」
「そこまでにしとけよ、ジジイ」
シュンが男を真っ直ぐに見据え、鋭い声を飛ばした。
数秒間、二人の視線が激しく火花を散らすが、場を支配していた異様な空気は唐突に霧散した。
「ただの戯れだよ、シュン」
「ふざけてる場合か、ゼウス」シュンは冷たく言い放つ。「これ以上やれば、死人が出るぞ」
「はいはい、分かったよ」
神の威圧は、現れた時と同じように呆気なく消え去った。
ギリシャの最高神は再び闘技場へと視線を戻すが、その顔には明らかな失望の色が浮かんでいた。
星のように輝いていた参加者たちの意志や夢は、ほんの数秒で宇宙の塵のように消え去ってしまったのだ。
「ヘルメス、倒れた者たちの処理を頼む」ゼウスは命じた。「目が覚めたら、二度とこの聖地に足を踏み入れるなと伝えておけ」
「了解っす」
ヘルメスは軽く返事をし、その場からゆっくりと離れていった。
……
シュンは再び席に腰を下ろし、内心で独りごちた。
(残酷なやり方だが、あのジジイの言う通りだ)
(己の内の悪魔と向き合う意志のない者など、この世界では到底生き残れない)
(あの重圧は、彼らが背負うトラウマや、心の奥底にある最大の恐怖を呼び覚ましたに過ぎない)
(自分の悪魔から目を逸らすような奴は、決して前へは進めないんだ)
身体的、そして精神的な激痛に苛まれながらも、辛うじて意識を保っていた参加者たちが次々と立ち上がる。
(俺の勘違いだったようだな……。あいつは、俺が想像していたよりもずっと過酷な地獄を生き抜いてきたんだ)
エデンの瞳に宿る強靭な意志を目の当たりにし、シュウは内心でそう結論づけた。
「ゴホンッ!」
態とらしい咳払いが響く。
「先ほどの件は詫びよう」ゼウスは悪びれる様子もなく宣言した。「この試験に、少々興奮しすぎてしまったようだ」
「見ての通り、この『些細なハプニング』のせいで、多くの参加者が意識を失ってしまった」
「したがって、彼らは自動的にこの試験から脱落となる」
まだ微かな闘志を宿している者たちが、まるで灰の中から蘇る不死鳥のように、一人、また一人と立ち上がっていく。
「とはいえ、未だその足で立ち、両目に炎を宿しているお前たちには、歓迎の意を表そう」
ゼウスの顔に、底知れぬ歪んだ笑みが浮かび上がった。
「ようこそ、『GODS学院』の選抜試験へ!」
――ピリッ。
場の空気が、限界まで張り詰める。
志願者の六割がすでに脱落した。生き残った者たちが、この千載一遇の好機を逃すはずがない。
闘技場のあちこちで、神の座を狙う者たちがまるで獲物を探す獣のように、互いに鋭い視線を交錯させている。
だが――。
エデンの視線は、周囲のライバルたちではなく、自身の恐怖を弄んだあの最高神へと真っ直ぐに向けられていた。
(……必ず、代償を払わせてやる)
その無言の宣戦布告とともに、エデンの体内で渦巻く力が、ゆっくりと、だが確実に脈打ち始める。
それはまるで、いつ爆発してもおかしくない時限爆弾のように、静かに、そして凶暴に膨れ上がっていくのだった。




