第4章・4:英雄の役割
穏やかな海風が、
二人の存在の頬をやさしく撫でた。
一人は、
果てしなく広がる太陽を見つめ。
もう一人は、
この社会の“ありふれた日常”に視線を向けていた。
女たちの笑顔、笑い声、甘い菓子――。
かつては何の意味も持たなかった、
ただの当たり前の日々。
しかし今は、
そのすべてが不思議と小さな魔法を帯びていた。
「……さっきのは何だったんだ?」
屋上から狂ったようなファンたちを警戒しながら、
エデンが問いかけた。
「すまない。街に入る前に、言っておくべきだった」
シウンは落ち着いた、誠実な声で謝罪した。
「じゃあ……あんたは何なんだ?」
エデンは師を振り返る。
「神様みたいな存在? それとも有名人?」
「まあ……そんなところだ」
大して気にも留めず、彼は呟いた。
「彼らにとっては“英雄”らしいが、
俺自身はそう思ったことはない」
「羨ましいな」
エデンは笑いながら言った。
「あれだけ女に追いかけ回されたら、文句なんて出ないだろ」
「信じろ」
シウンは静かに答えた。
「それが一番、望まない未来だ」
「その域に達した瞬間、後戻りはできない」
「普通の人生なんて、もう存在しない」
「……なるほどな」
二人は再び沈黙した。
潮の香りを含んだ微風が、
鍛えられた頬を静かに撫でていく。
……
「……ありがとう」
不意に、シウンがそう言った。
エデンは困惑した表情で彼を見る。
皮肉も冗談もない、
そんな言葉を彼の口から聞いたのは初めてだった。
「なんで礼を言うんだ?」
「さっきのことだ」
シウンは正直に答えた。
「あの作り笑いを、
ずっと被り続けるのに疲れていた」
「称賛に囲まれるたび、
自分自身が嫌になる」
彼はゆっくりと起き上がりながら呟く。
「この笑顔も、この温もりも……全部、嘘だ」
「だったら、なぜ続ける?」
エデンは冷静に問いかけた。
「この剣を手に取った日、
それに伴うすべてを受け入れた」
白い剣を見つめながら、彼は続ける。
「人々の道を照らす光になると決めた」
「彼らの“英雄”になると」
「だが……」
「この世界が、どれほど歪んでいるかを
少しずつ理解していった」
「世界を支配しているのは、
自分の利益しか見ない老害どもだ」
「人は称号を誇りだと思い込む」
「“英雄”と呼ばれれば、
揺るがぬ力が湧くと信じている」
「……だが、それは呪いだ」
シウンの声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「英雄は仲間の死を嘆くことすら許されない」
「立ち止まらず、歩き続けなければならない」
「疑ってはいけない」
「常に正しく、
純白の光として在り続けなければならない」
「誰もが輝けない時でさえ、
一人で輝き続ける存在でなければならないんだ」
……
エデンは気づいていた。
その“英雄の仮面”に、初めてひびが入り始めていることに。
「俺は、何百万人もの仲間を失ってきた」
「大切だった人間も、数えきれないほどだ……」
シウンの声は低く、重かった。
「だが、この世界が俺に返した言葉は、いつも同じだった」
「――立て、英雄。前を向け、英雄、だ」
「俺は、誰よりも汚れている」
「敵の血だけじゃない……知っている者たちの血も、
この手を流れていった」
その瞬間、
シウンの周囲の世界は闇に沈んだ。
彼の手には、倒れた者たちの血がまとわりついている。
髪、歯、爪――
鉄の匂いと混じり合い、吐き気を催すほど濃く漂っていた。
地平線の彼方まで続くほどの屍。
無数の亡骸が、彼を見つめている。
まるで、
彼が崩れ落ちる瞬間を待ち、
そのまま地獄の底へ引きずり込もうとするかのように。
あの不敗の存在の瞳は、
すでに光を失っていた。
……
「なあ、シウン」
エデンが、その沈黙を破った。
「俺が物心ついた頃から、
祖父はずっと言ってた」
「お前は特別だ、って」
「他の人間とは違う」
「お前の中には、神ですら嫉妬するほどの何かがある、って」
シウンは、思わず弟子を見た。
その言葉に、純粋な驚きが滲む。
「……でもな」
エデンの声は静かだった。
「その“特別さ”を証明しなきゃいけなかった時、
俺は何もできなかった」
「理解できない恐怖が、
身体の隅々まで染み渡って……」
「ただ座り込んで、
あのクソ野郎どもが祖父を襲うのを見ていただけだ」
「エデン……」
「何度も、誰かに助けられた」
「祖父や、テンザク、そしてあんたに」
「何が違うんだろうって、何度も考えた」
「あんたたちは特別で、
俺には理解できない存在なんだって思ったこともある」
「……一生、追いつけないって」
だが、エデンは
ふっと、温かな笑みを浮かべた。
「でもさ」
「笑って、怒って、苦しんでる姿を見て……
気づいたんだ」
「俺たちは、そんなに違わない」
「誰だって、戦う理由を持ってる」
「限界を越えさせる“何か”を」
エデンは真っ直ぐに見つめ、問いかけた。
「教えてくれ、シウン」
「……あんたを動かしているものは、何だ?」
その瞬間、
彼の脳裏に浮かんだのは――
温かく、どこか儚い、
ひとりの女性の微笑みだった。
一瞬、
時が止まったかのように。
……
エデンはその表情を見て、静かに言った。
「人間でいることは、悪いことじゃない」
「感じることも、泣くことも」
「感情は、俺たちを弱くするものじゃない」
「……強くしてくれるものだ」
「俺の前では、完璧な存在を演じなくていい」
「助けが必要な時は、
遠慮せずに来い」
シウンは、
心からの笑みを浮かべて言った。
「……思い上がってるな、ガキ」
シウンは一瞬だけ視線を逸らした。
まるで、何かが噛み合っていないことに気づいたかのように。
そして――
ドン!
わずかなゼンカを纏った手で、
シウンは軽くエデンの頭を叩いた。
「いってぇぇぇぇ!!」
「な、なんだよそれ!?!」
「あとで感謝することになる」
シウンは笑いながら言った。
「おいおい、何する気だ!?」
シウンはエデンの襟を掴み、
そのままゆっくりと崖の方へ引き寄せる。
「ちょ、ちょっと! 放せって!!」
――その時。
『GODSの試練に参加される受験者の皆様は、
登録確認のため劇場前にお集まりください』
都市全体に、拡声器の声が響き渡った。
「GODSの試練……?」
エデンは、どこか聞き覚えのある名前を反芻する。
「なるほど、あっちか……」
遠くを見据え、シウンは呟いた。
「よし、着地に問題はなさそうだ」
「……着地?」
エデンの顔が青ざめる。
「これ以上、面倒は起こすなよ、エデン」
その瞬間、
シウンの腕に力がこもり、血管が浮かび上がった。
「助けてぇぇぇ!!」
「――いってらっしゃい」
ブンッ!!
シウンは、
雲へ向かってエデンを豪快に投げ飛ばした。
「この野郎ぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
数秒後、
エデンの姿はアテネの濃い雲の中へと消え、跡形もなくなった。
……
一瞬、
シウンは顔を覆い、表情を変えた。
それは――
どこか輝き、揺るぎない自信に満ちた表情。
……
「悪いな、俺の弟子をたぶらかすつもりはなかった」
鋭さを帯びた声で、シウンは言った。
「安心して。若い子は好きだけど、節度は守るわ」
毒を含んだ声が応じる。
「君にとっては、八十歳の老人ですら“若者”だろ?」
シウンは皮肉を込めて返した。
――瞬間。
冷たく鋭い短剣が、
シウンの喉元に突きつけられた。
鋭く、澄んだ青い瞳が、
彼を脅すように見つめている。
……
シウンは、かすかに笑い、低く呟いた。
「……久しぶりだな、アフロディーテ」
「こちらこそ、イケメン」
「それで? 俺に何の用だ?」
「説明よ」
アフロディーテは即答した。
二人は、
数秒間、無言で睨み合った。
その瞬間、シウンは理解した。
――今、この場は“裁きの場”だ。
そして、裁く者たちは、
他ならぬ“過去の知己”たち。
それは――
過去に向き合い、
責任を果たす時だった。




