第4章・3:結界
エデンの瞳は、
これまでにないほど強く輝いていた。
街の喧騒と活気は、
彼の胸に懐かしさを呼び起こす。
商人たちは、
通り過ぎる者すべてに声を張り上げていた。
エデンの顔に、
無邪気な笑みが浮かぶ。
新鮮な魚。
採れたばかりの果物。
上質な布地――
そのすべてが、
どこか魔法のようだった。
(まだ夢を見ているみたいだ……)
(俺たちの世界では失われ、
今では儚い記憶でしかないものが――)
(ここでは、時間が止まったかのように存在している)
(もし、俺たちの世界の人間がこれを見たら……)
(一体、どう振る舞うんだろうな)
……
エデンは、
その美しい光景に魅入られたまま歩き続けていた。
だが、突然――
¡PUM-PLAF!
壁のように硬い何かにぶつかり、
あっさりと地面に転がった。
「いっててて……」
尻をさすりながら、情けない声を漏らす。
「えっと……すみません、
前をちゃんと見ていませんでした……」
そう言って、
服についた埃を払い落とす。
……
顔を上げた瞬間、
彼の視線は凍りついた。
翠色の瞳をした少女が、
冷たい視線で彼を見下ろしていた。
エデンは、生まれて初めて威圧され、
言葉を失う。
「Κοίτα πού πατάς, άδειο κεφάλι」
肩越しにエデンを見やり、
少女は吐き捨てるように言った。
(え……? 何て言ったんだ……?)
完全に混乱する。
(待てよ……)
周囲を見渡すと、
人々は皆、彼に視線を向け、
聞いたこともない言葉でざわめいていた。
(そういえば……)
(俺、今さらだけど……)
(この人たちと、どうやって会話するんだ……?)
エデンは慌てて立ち上がり、
ゆっくりと言葉を選ぶように口を開く。
「ご、ごめんなさい……」
「ぼ、僕は……あなたの言葉が、分かりません……」
まるで幼児に話しかけるかのような口調で、
必死に伝えようとする。
「ただ……街を見ていただけなんです……」
「本当に……すみません……」
少女は、
彼の言葉を理解できず、
怪訝そうに眉をひそめた。
(無駄だな……)
(何を言っても、
一言も伝わってない……)
重いため息をつき、
自嘲気味に笑う。
「はは……ごめん」
「俺、ただのバカなんだ……」
……
少女の表情が、一瞬で険しくなった。
そして――
¡PUM!
強烈な一撃がエデンの腹部に直撃し、
一瞬、肺の空気がすべて奪われた。
「なっ……」
エデンは地面の上で苦悶しながら身体をよじらせる。
怒りに満ちた少女の視線が突き刺さっていた。
(何をしたっていうんだ……?)
(こんな目に遭うほどのことを……)
震える手で腹を押さえながら、そう考える。
少女は再び距離を詰め、
次の一撃を振りかぶった――
その瞬間。
「Σταμάτα、αυτό είναι μόνο μια παρεξήγηση」
柔らかく、だが芯のある声が空気を切った。
エデンはゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは、
ミントグリーンの髪をした青年だった。
赤子のように柔らかそうな顔立ち。
そして、温かく穏やかな瞳。
「大丈夫?」
青年はそう言って、エデンに手を差し伸べる。
「た、たぶん……」
エデンはその手を取りながら答えた。
「ここで日本語を話す人に会えて助かったよ」
冗談めかして笑いながら続ける。
「でさ……」
「なんであのブサイクに殴られたんだ?」
「ごめんね、これは完全な誤解だよ」
青年は苦笑しながら言った。
「彼女は、君に侮辱されたと思ったんだ」
「……冗談だろ?」
「そんな理由で殴るやつがいるのか?」
「いるよ」
「……ああ、そうかもな」
青年は少女の方を向き、静かに告げる。
「Αυτό το αγόρι δεν ήθελε να σε προσβάλει, Γιούκι.
Απλώς έλεγε ότι εκείνος είναι ηλίθιος」
「Τότε γιατί είπε “βλάκα”;」
「日本では“バカ”って言葉をよく使うんだ。
意味は“愚か”だけど、
彼は自分のことを言ってただけだよ。
君のことじゃない」
少女は腕を組み、鼻で笑った。
「Μάλιστα…
Τότε δεν έκανε λάθος·
έχει όντως φάτσα ηλίθιου」
青年はその言葉を聞いて吹き出した。
エデンは、完全に置いていかれている。
「……今の、俺の悪口じゃないよな?」
「ち、違う違う。
そういう意味じゃないから」
笑いを必死に堪えながら答える青年。
(絶対、悪口だろ……)
エデンは引きつった笑みを浮かべた。
……
その瞬間。
場の空気を切り裂くような、
荘厳で圧倒的な声が響いた。
「Σε αυτό δεν κάνεις λάθος, δεσποινίδα。
Αυτό το αγόρι είναι πραγματικά ανόητο。
Ο βασιλιάς των ανόητωνだ」
「遅かったな、シウン」
エデンは振り返らずに言った。
……
空気が、一瞬で凍りついた。
二人の若者は言葉を失い、
周囲の住民たちは完全に硬直する。
「どうした?」
「ネズミにでも舌をかじられたか?」
エデンは周囲を見渡しながら、首をかしげる。
気づけば、
人々が次々と集まり始め、
大きな人だかりができていた。
「……これは、まずいな」
シウンは引きつった笑みを浮かべて呟く。
「シウン……?」
「何が起きてるんだよ、マジで」
「エデン……」
「しっかり掴まれ」
「……え?」
「うわああああああっ!!」
エデンは勢いよく空中へと吹き飛ばされた。
その瞬間、
大勢の人々が叫び声を上げながらシウンを取り囲む。
(※作者注:言語は基底言語表記だが、実際にはギリシャ語で会話している)
「キャー! かっこいい!!」
シウンの顔がプリントされたグッズを持った少女が歓声を上げた。
「シウン! うちの娘と結婚してくれ!」
老人が必死に叫ぶ。
「俺と勝負しろ、英雄!!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ……落ち着こう」
シウンは引きつった笑みを浮かべながら言った。
「シウン、背中にサインして!」
「英雄よ! どうか我らを守り続けてくれ!」
「……ありがとう」
ようやく起き上がったエデンは、
目の前で起きている光景を呆然と見つめた。
「……何が起きてるんだ?」
「彼が誰か、知らないのか?」
ミントグリーンの髪の少年が驚いたように尋ねる。
「俺が知ってるのは、
ナルシストで、偉そうで、どうしようもないバカな師匠ってことだけだ」
「……師匠?」
少年は目を丸くした。
「そうだけど? 何かおかしいか?」
「噂では聞いていたが……まさか本当だとは」
「どういう意味だ?」
「シウン様は、この世界で最も愛され、尊敬されている人物だ」
彼は静かに語り始めた。
「その存在だけで、行き場を失った者たちの道を照らす“光”なんだ」
「今年、シウン様が候補者を立てたという噂が流れた」
「だが正直、悪い冗談だと思っていた」
「有力者たちですら、自分の後継者を訓練してくれと頼んでも、
彼は一度も首を縦に振らなかったからな」
「だから、
“正体不明の人物が弟子になった”なんて話は、
到底信じられなかった」
「……言われてみれば、確かにバカげてるな」
エデンは再びシウンへ視線を向けた。
そこには、
人々に向けられた眩しい笑顔――
だが、どこか不自然な笑みがあった。
「初めて会った時から、強いとは思ってた」
「考えただけで頭が痛くなるほどに」
「ひねくれた冗談を言うし、忘れっぽいし、
何を考えてるのか分からない時も多い」
「でも……こんな顔は初めて見た」
「どういうこと?」
「彼の表情だ」
エデンは静かに言った。
「作り物だ」
「大勢の前で、仮面を被ってる」
「でも……中では、苦しんでる気がする」
シウンは変わらず、
人々の歓声に応えるように輝く笑顔を保っていた。
「……ごめん」
エデンは言った。
「少し、やらなきゃいけないことがある」
「さっきは助けてくれてありがとう」
「また会えたらいいな」
「シュウ……シュウ・サジェス」
少年は微笑みながら名乗った。
「エデン。エデン・ヨミだ」
二人は固く握手を交わす。
……
時間が経つにつれ、
人々はさらに増え、
通りは数十メートルにも及ぶ人混みとなった。
その時。
群衆の中から伸びた一つの手が、
強くシウンの手を掴んだ。
シウンの表情が一瞬、驚きに変わる。
そこには、エデンの笑顔があった。
「行くぞ、クソピンク頭」
¡Swoosh!
瞬きする間に、
シウンの姿は消え去り、
濃い砂埃だけがその場に舞い上がる。
「ゴホッ、ゴホッ!」
「街中探せ! 逃がすな!!」
住民の一人が叫んだ。
人々は四方八方へ散り、
英雄を追って街中を駆け出す。
その様子を、
二人の若者が静かに見つめていた。
「……悪くないな、エデン」
シュウは小さく呟いた。
その瞳は、
黄金色に淡く輝いていた。
……
一方、路地裏から。
金髪の美しい女性と、
屈強で野獣のような眼差しの男が、
その一部始終を眺めていた。
「どうやら、あのバカが戻ってきたみたいね」
女は毒を含んだ声で言う。
「俺たちに一言もなく、か」
男は拳を鳴らした。
「一発、ぶちかましてやる必要がありそうだな」
……
そして――
建物の屋上。
シウンは仰向けになり、空を見つめていた。
その瞳には、
底なしの深淵へと引きずり込まれるような重みが宿っている。
その傍らで、
一人の少年が静かに座っていた。
理解できなかったものを、
少しずつ理解し始めた少年。
神性の奥底に――
まだ脆く、傷つきやすい“人間”がいることを、
その少年は知ってしまったのだった。




