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第21章・7:感じられない

九つの世界の空には、雲一つなかった。


月は秘密を守る番人のように夜空を照らし、星々は何の憂いもなく、果てしない空を自由に舞っていた。


コン、コン。


古びた樫の扉を軽く叩く音が、まどろむヘルメスの耳に届いた。


(こんな時間に、いったい誰だ……?)


あくびを漏らしながら、ヘルメスは扉を開けた。


「はいはい……どうした?」


だが、目の前の光景を見た途端、その表情が変わった。


「こんな時間に来るなんて、少し無神経じゃないか?」


「ごめん……アフロディーテが、ちょっと蜂蜜酒を飲みすぎちゃってね」


バルドルはぎこちなく笑いながら説明した。


ヘルメスは、すっかり酔って、立っているのもやっとの女神へ目を向けた。


「やっほぉ、ヘルメスぅ……今日はいつもよりいい男ねぇ。何かしたのぉ?」


女神は呂律の回らない口調で尋ねた。


「酒臭いぞ、アフロディーテ」


ヘルメスは鼻を覆った。


「お酒ぇ!? どこ!?」


(こいつはもう、どうしようもないな……)


「まあ、何にせよ……連れて帰ってくれてありがとな、バルドル。こんな面倒な女なのに」


「いや、お礼なんていらないよ。誘ったのは僕だからね。これくらいはしないと」


ヘルメスは女神を抱き上げ、宿の中へ戻ろうとした。


だが、バルドルの問いが、その足を止めた。


「ヘルメス。君のチームの調子はどうだい?」


「何だよ、急に。自分のチームを心配したほうがいいんじゃないか?」


「そうかもしれないね……でも、ときには自分の心に従いたくなるんだ」


バルドルは、愛の女神へとちらりと目を向けた。


ヘルメスはその視線に気づいたが、何も言わなかった。


「まったく、面倒な奴だな、バルドル」


ヘルメスはため息をついた。


「チームの調子はいい。今までで一番いいと言ってもいいくらいだ」


「誰をぶつけてこようと、明日はあいつらが勝つ。間違いない」


「だから、覚悟しておけよ。俺たちが叩き潰してやる」


ヘルメスは鋭い眼差しを向けた。


「望むところだよ。それくらいじゃなきゃ、張り合いがないからね」


バルドルは不敵な笑みを浮かべて応じた。


ヘルメスはアフロディーテを抱えたまま背を向けた。


だが、立ち去る前に、一つだけ問いかけた。


「いつ、あいつに本当の気持ちを伝えるつもりだ?」


その問いに、バルドルは凍りついた。


「俺たちが神だからって、永遠に生きられるわけじゃない」


ヘルメスは言った。


「気持ちを伝えなかったことを、あとで後悔する羽目にならなきゃいいがな」


「俺は、自分の気持ちを隠すつもりなんてないからな」


バルドルを真っすぐに見据えてそう言い残すと、ヘルメスは宿の中へ姿を消した。


「……そうか、知っていたんだね。嫌な奴だ……」


バルドルはかすかな笑みを浮かべ、呟いた。


     ◇◇◇



数時間が過ぎても、月と星は変わらず夜空を照らし、どこか不思議な安らぎを漂わせていた。


その安らぎに寄り添うように、アスガルドの最も高い場所から、竪琴のような楽器の音色がかすかに響いていた。


どれほど深く傷ついた魂でも、愛を込めてそっと撫でてくれるような音色だった。


夜空を彩るそのかすかな音に、アフロディーテは目を開け、ゆっくりと身を起こした。


「こ、ここは……?」


周囲を見回し、自分がいつものベッドで、布団にくるまれていることに気づく。


そのとき、声がした。


「やっと起きたか、アフロディーテ」


「ヘルメス……ここまで運んでくれたのは、あなたなのね。ありがとう……」


「俺に礼を言う必要はないよ。俺は何もしてないからな」


ヘルメスは言った。


「全部、お前の白馬の王子様――バルドルがやってくれたんだ」


「バルドルが? かわいそうに……きっと、ずいぶん迷惑をかけたわね」


「まったくだ。よくあれだけ長いこと、酔ったお前の相手ができたもんだよ。どんなに憎い相手にだって、あんな思いはさせたくないね」


「あなたがそれを言うの? 酔ったら、あなたのほうが百倍ひどいじゃない」


「はいはい、そういうことにしておくよ」


「そうだ、ベッドの横に着替えを置いておいたぞ。今の服、酒とゲロまみれだからな。まったく、汚いったらない」


「そこまで言う必要があった?」


「当然だろ」


ヘルメスはそう答え、腰を下ろした。


「あなたが着替えさせてくれてもよかったのに」


アフロディーテは言った。


「もう長い付き合いでしょう? 二人の間には子供だっているのよ」


「馬鹿か。ゲロまみれの服なんて、触りたくもない」


「そんなことを言って……ずいぶん心配してくれたみたいだけれど?」


アフロディーテは、用意されていた冷やしたタオルや薬、温かい食事などに目をやり、呟いた。


「気のせいだ」


ヘルメスはそう答え、背を向けた。


アフロディーテは彼の様子を見ながら、着替え始めた。


当のギリシャの神は、机の上に散らばる何十枚もの書類に、すっかり没頭していた。


「一つ聞いてもいい?」


アフロディーテが声をかけた。


「何だ?」


「あなた、妬いてるの?」


     ◇◇◇



「え? 何だよ、急に」


ヘルメスは振り返らずに尋ねた。


「どうしても気になってしまって。私がバルドルに会うたびに……それに、名前を出すだけでも、あなたのゼンカが乱れる気がするの」


「お前のそういう鋭さは、本当に嫌になるな」


「褒め言葉だと思っていいの?」


「好きに受け取れよ」


ヘルメスはかすかな笑みを浮かべた。


「でも、そうだな。妬いてるよ」


そして、素直に認めた。


「もう、バルドルが俺の越えるべきライバルだからってだけじゃない。心のどこかに、まだお前への気持ちが残ってるんだと思う」


「ただ、勘違いするなよ。俺たちが友達以上の関係じゃないことは、ちゃんと分かってる。お前が誰と付き合うかに、俺が口を出す権利があるとも思ってない」


「それでも、自分の気持ちをうまく隠せないんだよ」


「神にしては、正直すぎるわね、ヘルメス」


アフロディーテはかすかに微笑んだ。


「じゃあ、お前はいつまで自分に嘘をついてるつもりだ、アフロディーテ?」


ヘルメスは彼女を横目で見た。


「何のこと?」


「いつまでも、自分の気持ちを隠しておくつもりか?」


「もう、ヘルメス。まさか、私が誰かを好きになったなんて、本気で思っているの? そこまで馬鹿じゃないでしょう?」


アフロディーテは笑いながら言った。


「私に釣り合う相手なんていない。あなたも、よく分かっているでしょう?」


ヘルメスは、変わらずじっと彼女を見つめていた。


その視線に、アフロディーテは言葉に詰まった。


「言っておくが、お前はずいぶん前から、自分の気持ちを隠すのが下手になってるぞ」


ヘルメスは言った。


「あいつに惹かれてるのは、丸分かりだ」


アフロディーテは、ただ視線を逸らすことしかできなかった。


彼女らしからぬ、子供じみたその仕草を見て、ヘルメスはかすかに微笑んだ。


…………。


「あの人と私は、一緒にはなれないわ」


苦しげな表情で、女神が沈黙を破った。


「どうしてだ?」


「私は、愛することができないから」


アフロディーテは打ち明けた。


「皮肉だと思わない?」


「アフロディーテ、愛の女神。人間の感情を映す存在でありながら、自分では何も感じられない。本当の愛が何なのかさえ、理解できない女なのよ」


「与えられたあの称号を耳にするたび、自分自身に嫌悪を覚えるわ」


「何の権利があって、どの愛が純粋で、どの愛が不純なのかを、私が決められるの?」


「自分の気持ちさえ理解できない私が、どうやって誰かの想いに応えられるというの?」


「これまでの人生で、多くの相手と関係を持ってきた。子供ももうけたわ。でも、どの関係も、政治的なつながりや力を求めたものでしかなかったの」


その表情には、もどかしさと、押し殺した悲しみが入り交じっていた。


あまりにも偽りのないその感情に、ヘルメスさえ驚かされた。


彼はようやくアフロディーテのほうへ向き直り、その目を見つめた。


「俺に言わせれば、誰かを本当に愛するのに、お前の言う『愛の概念』を理解する必要なんてないと思うけどな」


「その相手に何かを感じる。それだけで十分だ」


「ずいぶん子供っぽい考え方じゃない?」


アフロディーテは笑いながら尋ねた。


(後悔するかもしれないな……)


「それの何が悪いんだ?」


ヘルメスも笑った。


「そんなに複雑に考えたり、哲学を持ち出したりする必要はないんだよ。愛は、ただ愛なんだから」


(それ以上、言うな……)


ヘルメスは、自分自身にそう懇願した。


「さっき、お前が築いてきた関係は、どれも政略の結果にすぎなかったと言ったよな。それは、そうなのかもしれない。結局、俺たち神だって、動物と大して変わらないからな」


「快楽を求めて、あるいは自分たちの影響力を広げるために、子をもうける」


「それでも、お前と過ごしたあの年月は、俺の人生で最高の時間だった」


ヘルメスはかすかに微笑み、そう打ち明けた。


「ヘルメス……」


「だから、人間が羨ましいんだ。傷つくかもしれない。想いに応えてもらえないかもしれない。それが分かっていても、あいつらは自分の気持ちを伝え続ける」


「俺が言いたいのは、その毒だらけの心をさらけ出すことを怖がるなってことだ、アフロディーテ」


「今はまだ、誰かと付き合う時期じゃないのかもしれない。自分自身を理解するには、時間がかかるかもしれない。それでも、もう逃げなくていいんだ」


「お前の中にいる、もう一人のアフロディーテを、いつまでも否定してちゃいけない」


その言葉を聞いたアフロディーテは、かすかに微笑んだ。


眩しくも、どこか物悲しい笑みだった。


「ありがとう、ヘルメス」


「気にするなよ、毒蛇ちゃん」


ヘルメスは笑って答えた。


「あなたの言うとおりかもしれないわ。もう、自分から逃げるのはやめないとね」


アフロディーテは言った。


「でも、今はチームのことに集中しましょう」


「今夜、あの子たちの努力が報われるかどうかが決まる。もう次のチャンスはないわ」


「心配するな。あいつらなら大丈夫だ。あの目を見て分かったよ。今までで一番、戦う準備ができてる」


「どんな結果になっても、私はあの子たちを誇りに思うわ」


…………。


そのとき、ヘルメスは再び机の上の書類へ目を向けた。


「アフロディーテ。エデンのことで、お前が話してくれたあの一件、覚えてるか?」


「え……ええ。それがどうかしたの?」


「ここでは、俺たちが思っていた以上に、おかしなことが起きてる」


「え? どういうこと?」


ヘルメスは一枚の資料を差し出した。


受け取ったアフロディーテは、そこに記された情報を丹念に読み始めた。


「アルフヘイムのあの事件には、やはりオーディンが深く関わっている。そこは、俺たちの考えていたとおりだ」


ヘルメスは説明した。


「だが、その目的は、俺たちが想定していたものとはまったく違うらしい」


「ロキは、あの陰謀の巻き添えになったにすぎない。まだ生きている可能性さえある」


「そんなことが、どうして……? 私たちは、彼の遺体を見たのよ……」


「詳しいことは分からない。ただ、あの『死』を仕組んだのは、ロキ自身だった可能性が高い」


「死んだふりをして、何を狙っていたの?」


「さあな……。だが、本当なら、事態は相当入り組んでる」


「ロキがまだ生きていて、エイルに化けたのもあいつだったとしたら……なぜエデンに、あんな警告をしたんだ?」


「それだけじゃない。どうしてエデンの力について、あれほど詳しい情報を持っている?」


「アルフヘイム、ロキ、オーディン、エルフたちの失踪……それに、何年も前に起きたあの一連の出来事。何もかも、どこかでつながっているように見える」


「だが、エデンとバルドルがこの構図にどう関わってくるのか……そこが分からない」


「俺たちは、何を見落としてるんだ?」


アフロディーテは、ロキの姿が載ったその資料を見つめ続けていた。


(親友がまだ生きていると知ったら……あなたはどうするの、バルドル?)


自分自身のことも、その感情も、未来も、過去も――二人は、まだ多くの迷いを抱えていた。


それでも、一つだけはっきりしていることがあった。


前へ進み続けなければならない。


ついに、決戦の日が訪れたのだ。


二人が迷い続けていても、世界は立ち止まってはくれない。


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