第21章・6:強さと弱さ
星明かりが、ミッドガルドの小さな海辺の村を優しく照らしていた。
夜の静けさの中、一軒の小さな酒場が、冷え込むその場所に温かな明かりを灯している。
店内には、日々の憂さを晴らす人々の笑い声が満ちていた。
だが、その笑い声が、不意にぴたりと途絶えた。
皆の顔に浮かんでいた笑みが、驚きへと変わる。
ビールと賑わいの中に現れたのは、金髪の美しい女だった。
その美貌は、神々の中でさえ並ぶ者がいないほどだった。
誰一人として、その女から目を離せなかった。
――アフロディーテ。
「失礼、美しいお嬢さん。よかったら、俺たちと一杯いかがですか?」
屈強な戦士が声をかけた。
アフロディーテは、毒を含んだ眼差しを男へ向ける。
「三人も子供がいる父親が、女を口説こうとしているなんて……自分で気持ち悪いと思わないの?」
「え……お、俺は……」
「失せなさい、クズ」
何百もの兵士を葬り去れる男が、最も痛いところを突かれ、床へと崩れ落ちた。
仲間たちは笑い声を上げながら、男にもう一杯の酒を勧めた。
アフロディーテは、その妙な一団を軽蔑の目で一瞥すると、酒場の奥へ進み、バーテンダーの前で足を止めた。
「これはまた、めったにお目にかかれない美人さんだ。何になさいます?」
男はグラスを磨きながら尋ねた。
「この店で一番いい蜂蜜酒を出して」
「お嬢さん、どれほど値が張るか、ご存じで?」
「その心配はいらないよ、カル」
聞き覚えのある声が、会話に割って入った。
「バルドルじゃないか。驚いたな」
バーテンダーのカルが応じた。
「遅いわよ、バルドル」
アフロディーテが、苛立った声で言った。
「まあまあ、アフロディーテ。そんなに厳しくしないでくれよ」
バルドルは席に着きながら言った。
「あなたがお酒に誘ってくるなんて珍しいと思ったけれど……場所選びの趣味は、本当に最悪ね」
「何を言ってるんだい? ここはミッドガルドで一番の酒場だよ。そうだろう、カル?」
「もちろんさ」
カルはそう答え、二人に蜂蜜酒のグラスを差し出した。
「この豚小屋が? どうだか……」
「あんたの友達は、ずいぶん歯に衣着せないんだな」
「彼女に代わって謝るよ」
「でも……ここの蜂蜜酒は、悪くないわね」
一口飲んだアフロディーテが、そう認めた。
「ほらね。ここが一番だって言っただろう?」
「何を入れたら、こんなにおいしくなるの?」
「秘密だよ」
カルは、かすかな笑みを浮かべて答えた。
「何よ、その間抜けな笑いは?」
「そういえば、アフロディーテ。エデンの具合はどうだい?」
「そうね……よくなった、と言っていいと思うわ」
アフロディーテはそう答えた。
「もう命の危険はないわ。試合が終わってから、わずか数時間で……奇跡みたいに体が回復したの」
「話してみても、いつもと変わらないようだったわ。相変わらずのお馬鹿さんで。でも……どうしても、何かが引っかかったの」
「どういうことだい?」
「エデンの中で、何かが変わっていた。何なのかは分からないけれど……あの子の中で、何かが目覚めたのは間違いないわ」
(エイルの一件も、まだ気にかかるけれど……)
バルドルは不思議そうにアフロディーテを見つめ、尋ねた。
「そんなに心配だったなら、どうして心を読まなかったんだい?」
「読まないと約束したからよ」
「え?」
「エデンだけじゃない。私にとって大切な人たちの心も、読まないわ」
アフロディーテはそう打ち明けた。
「何もかも知ることが、いつも正しいとは限らない。エデンが、それに気づかせてくれたの」
「相手が自分から心を開いてくれるまで、ただ話を聞く。それが、私たちにできる一番いいことだってあるのよ」
「本当に変わったね」
バルドルは、かすかな笑みを浮かべた。
「急に何よ?」
「深い意味はないよ。ただ、前に会ったときから、ずいぶん変わったんだなと思ってね」
バルドルは続けた。
「あの頃の君は、自分のことしか考えていなかった。何もかも自分の思いどおりにして、すべてを自分の思い描く完璧な形に収めたがっていたね」
「今さら、私の恥をさらすのはやめてくれない?」
「ごめん、ごめん」
バルドルは笑いながら謝った。
「でも……あなたの言うとおりかもしれないわ」
アフロディーテは認めた。
「昔の私は、認めたくないほど多くの過ちを犯してきた。そのせいで、一番大切な人たちを遠ざけてしまったのに……今になるまで、気づかなかった」
「過去にしたことは変えられない。私があれほど傷つけてしまった人たちの傷を、癒やすこともできない。それは分かっているわ」
「それでも……失った年月を取り戻すために、できる限りのことをするつもりよ」
バルドルは微笑み、どこか物悲しげな声で言った。
「君は、僕よりずっと強いね」
「どういうこと?」
「君は僕と違って、過去を忘れずに未来へ目を向けられる。でも、僕は……過去を手放すことも、未来を見ることもできないんだ」
その潤んだ瞳を見て、アフロディーテは尋ねた。
「今でも……ロキが死んだのは、自分のせいだと思っているの?」
◇◇◇
返事はなかった。
だが、その物悲しげな表情が、すべてを物語っていた。
「本当に頑固ね、バルドル……」
アフロディーテは言った。
「あれから何年も経っているのに、あなたは今も、あの日に囚われたままなのね」
「どうしても、考えてしまうんだ。もし僕が別の決断をしていたら、どうなっていたんだろうって」
「ロキのことは、あなたが誰よりもよく知っていたでしょう。一度こうと決めたら、誰にも止められなかった。親友のあなたにだって」
…………。
「それでも、何かしようとすることくらいはできたはずだ。あいつが僕に助けを求めて、あれほど懇願していたのに……ただ黙っている以外に、もっと何かできたはずなんだ」
バルドルは拳を握り締め、呟いた。
「知り合った頃から、あなたはいつも正義感に突き動かされていたわ」
アフロディーテは続けた。
「場所も、相手も、時も関係なく、理不尽なことがあれば、あなたは必ず止めに入った」
「……あなたの父親の決定に関わること以外は、ね」
その言葉に、バルドルは凍りついた。
「あなたは分かっているはずよ。あの日のことは、ただの不幸でも、偶然でもなかった。あの男に責任があるということも」
「ロキも、あなたの父親の傲慢さと権力欲の犠牲になった一人にすぎない。それは、あなたもよく分かっているでしょう」
「でも、あの男に立ち向かわなかったからといって、あなたたちを責めるつもりはないわ。あの男は、見かけよりもずっと恐ろしいから」
「正直、あなたが別の決断をしていたら何かが変わったのか、私にも分からない。ロキが今も生きていたかどうかさえね」
「でも、今のあなたはもう、あの日、決断を恐れた神とはまるで違う。それだけは分かるわ」
「間違っていたのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。でも、結局それは、あなた自身が下した決断なの。その結果の重みは、あなたが背負っていくしかないわ」
「それでも、あなたは独りじゃない」
その言葉を聞いたバルドルは、子供のように瞳を輝かせ、アフロディーテを見つめた。
「どれだけ否定しようと、あなたもあの日から変わったわ」
アフロディーテは言った。
「かつては逆らうことさえ考えられなかった、あの男の意志に背くことができた。それほど、変わったのよ」
「過去を手放せとも、忘れろとも言わないわ。その過去を、前に進むための力にしてほしいの」
「あの日は最善の選択ができなかったのかもしれない。でも、これからは、もっといい選択ができるはずよ」
「本当に……ありがとう。ありがとう、アフロディーテ……」
「カル! 蜂蜜酒、あと二杯お願い!」
アフロディーテが声を張り上げた。
「すぐに持ってくるよ!」
バルドルはかすかに微笑み、アフロディーテを横目で見た。
(ありがとう……でも、ごめん、アフロディーテ)
(本当の自分を見せたくても、僕にはできない)
(いつか、後悔するのかもしれない。それでも、僕の想いで君を傷つけたくないんだ)
(その眩しい笑顔から、輝きを奪いたくない)
(君のそばにいて、本当の気持ちを伝えたい。それが何よりの望みなのに……僕にはできない)
(この人生では……)
バルドルの脳裏に、一つの光景がよぎった。
地面を白と赤に染める血だまり。
それは、ヤドリギのような美しさを湛えていた。
(くそ……どうして、泣きたくなるんだ……?)
バルドルは片手で顔を覆った。
「どうしたの、バルドル? 大丈夫?」
「ごめん……蜂蜜酒が回ってきたみたいだ」
顔を覆ったまま、バルドルは笑って答えた。
「昔から、お酒には弱かったものね」
アフロディーテも笑った。
「でも、心配しないで。あとは私に任せて」
「ありがとう……」
(でも……自分の望みに背いてでも、やるべきことをやらなければならないときがある……)
一粒の涙が、蜂蜜酒の中へ落ちた。
杯の中に溶けたその涙と同じように、バルドルの本当の想いもまた、隠されたままだった。
どれほど強大な力を持つ者であっても、自らの感情を恐れることはあるのだ。
エデンが自らの感情に強さを見いだした一方で、バルドルが見いだしたのは、弱さだけだった。
その弱さが、彼を前へ進ませてはくれなかった。




