第21章・5:人間性
世界は、濃密な黒い靄に覆われていた。
周囲の様子さえ、ほとんど見えない。
エデンは立ち尽くしたまま、辺りを見回した。
そこには、何もなかった。
そのとき、あの歪んだ悪魔の声が、一帯に響き渡った。
「つくづく強情な奴だな、人間」
エデンが振り返ると、そこには剃刀の刃のように鋭い瞳と、皮肉に満ちた歪んだ笑みがあった。
「またお前か……何の用だ?」
「助けてやった俺に、その態度か? 恩知らずな奴だな」
「助けた?」
エデンは皮肉を込めて繰り返した。
「本気で、あれで助けたつもりなのか?」
「自分が楽しむために、俺を道具として使っただけだろ」
「それが、お前の周りにいる連中のしていることと、何が違う?」
「何の話だ?」
「この壊れた世界で生きるには、お前は純粋すぎるんだよ、人間」
その存在は言った。
「周りの連中が、それぞれの目的を果たすための武器として、お前を利用していることにも気づいていないのか?」
「どの陣営に属していようと、お前とどれほど近しい間柄だろうと関係ない。誰もが俺と同じように、お前を利用しようとしている。違うのは、俺はそれを否定しないということだけだ」
「お前が祖父と一緒に襲われた直後、あのピンク髪の男が現れた。それをまだ偶然だと思っているのか?」
「何の話だ?」
「おいおい、とぼけるな。あれほど名の知れた、強大な力を持つ英雄が、東京のような遠い場所で何をしていたというんだ?」
「あの日、俺の力が爆発したとき、誰がそれを止めたのか。考えたことはあるか?」
「あのとき、虐殺になるのを防いだのはシュン本人だった。それなのに、なぜカイが生き延びたのか、疑問に思ったことはないのか?」
…………。
「俺の言っていることが分かるだろう?」
あの声が、念を押すように響いた。
「お前が何が正しいか、何が間違っているかと悩んでいる間にも、あいつらは目的を果たすために手段を選ばず動いている」
「お前は道具にすぎない。あいつら全員の夢や目的へと通じる、鍵であり、橋だ」
「友人や家族として見られたことなど、一度もない。ただのモノでしかないんだよ」
「そして、その武器が暴走した瞬間、あいつらはためらわずに剣を向ける。守ると誓ったはずの相手にな」
エデンは、短剣の柄を握り締めるアフロディーテの姿を思い出した。
ただ、唾を呑み込むことしかできなかった。
「お前があれほど誇る人間性など、自分の可能性を縛る足枷でしかない」
その存在は続けた。
「お前には、もう誰にも大切な者を奪わせないだけの力がある。それなのに、その力をどう使っていいのか、他人が決めるのをまだ待っている」
「だから、お前は遅かれ早かれ壊れる。その日が来れば、この言葉を思い出すことになるぞ、人間」
濃密な靄が、エデンの視界を覆い始めた。
エデンは悪魔へ手を伸ばそうとし、必死に叫んだ。
「待て!」
◇◇◇
エデンは診察台から跳ね起きた。
顔中が、汗で濡れていた。
「夢……だったのか?」
不意に、その体が抱き締められた。
「無事でよかった、エデン……!」
アフロディーテが、嗚咽を漏らしながら叫んだ。
「せ、先生……?」
「よかった……もう目を覚まさないんじゃないかって、怖かったの……。無事で、本当によかった……」
涙を流しながら、アフロディーテは言葉を詰まらせた。
「先生、水を差すようで悪いんですけど……抱き締める力が強すぎます……」
「ごめんなさい……つい、感極まっちゃって」
アフロディーテは涙を拭い、かすかに微笑んだ。
「ほら、アフロディーテ。教え子をあまり困らせないの。これだけの奇跡を起こしてきた子を、最後にあなたが殺してどうするのよ」
そう言いながら、エイルが部屋へ入ってきた。
「あのときのお医者さん……」
エデンは呟いた。
アイザックが敗れた後に見た、エイルの顔を思い出していた。
「覚えていてくれたのね。あの日のあなたの状態を考えると、驚きだわ」
エイルはそう言った。
「それで、具合はどう? エデン」
「変な感じです」
「変な感じ? どういうふうに?」
「うまく言えないんですけど、何かが変わった気がするんです……何かが、目覚めたような……」
二人の女神は、怪訝そうにエデンを見つめた。
「髪のせいかもしれませんね」
エデンは、ガラスに映る自分の姿を見ながら言った。
「馬鹿なの、あなた?」
アフロディーテが尋ねる。
「すみません、すみません」
エデンは笑いながら謝った。
「エデン。一つ、言っておきたいことがあるの」
エイルが口を挟んだ。
「何ですか?」
「数百年生きてきたけれど、あなたのような症例は一度も見たことがないわ」
「試合も、その後のあなたの体がどれほどひどい状態だったかも、この目で見た。それなのに、あなたはこうしてここにいる。重い傷も、傷痕も残さずに」
「もちろん、生きていてくれて嬉しいわ。けれど、あなたがそこまで頼りにしている再生能力が、もし働かなかったら、どうするつもりだったの?」
「確認できただけでも、折れた骨は二百五十本以上あった。関節も、筋肉も、それ以外の部分も傷ついていたわ。あの再生能力がなければ、あなたは確実に死んでいたのよ」
「つまり、その奇妙な力をどう使うか、もっと慎重に考えるべきよ。その力が働かなくなった日には、もう大切な人たちを守れないのだから」
エイルは、そう警告した。
エデンは何も言わず、視線を落とした。
「それじゃ、あとは二人でゆっくり話して。何かあったら呼んでね」
そう言い残し、エイルは部屋を出ていった。
◇◇◇
「ごめんなさい……」
アフロディーテが、声を震わせながら言った。
「え? どうして謝るんですか、先生?」
「あなたに武器を向けておきながら、こうして心配しているなんて……とんだ偽善よね」
愛の女神は、そう認めた。
「先生……」
「一瞬、あなたを失ったと思ったの」
アフロディーテは打ち明けた。
「あなたの体から、ゼンカが最後の一滴まで消えていくのが見えた。それと一緒に、瞳の輝きも……」
「そのとき、考えたの。こんなことに何の意味があるんだろうって。どれほど危険か分かっていながら、あなたたちをここへ連れてきたのは、本当に正しい判断だったのかって……」
「でも、あなたがもう一度立ち上がったとき、突然、全身を恐怖が襲った。逃げたかった。あそこから走って逃げ出したかった……でも、できなかったの」
「あなたを、あそこに置いていけなかった。あの力を使って、どれほど苦しんでいるか見えていた。体も心も壊れていくのが分かっていた。それなのに……私は何もできなかった」
「あんなにぼろぼろになっているのを見ていたのに、何もしなかった……また……」
アフロディーテの声が、かすれた。
そのとき、エデンはかすかに微笑んだ。
「謝ることなんてありませんよ、先生」
「でも、私は何もしなかった……」
「先生にできることは、なかったんです。勝つためにあの闇を受け入れると決めたのは、俺自身ですから」
「それに、ここへ来たいと言い出したのも俺です。先生は、俺たちが来ずに済むように、いろんな手を尽くしてくれた。でも結局、俺の身勝手さと復讐心が、それを押し切ってしまったんです」
「起きたことを先生のせいにしたら、俺はただの馬鹿です。アテネに来てから、誰よりも俺を気にかけてくれた人を責めることになるんですから」
「先生は、あのときすべきことをしただけです。あのときの俺は、周りの人たちにとって危険な獣でしかなかったんです」
「エデン……」
「先生は、ずっと俺にとって母親みたいな存在なんです」
エデンは、小さな笑みを浮かべて続けた。
「だから、たまには叱ってくれないと、本当の母親らしくないじゃないですか」
その言葉を聞いたアフロディーテは、思わず頬を赤らめた。
「正直、まだこの力がどこまで及ぶのか分かっていません。完全に制御を失ったら、自分が何をしてしまうのか……それも怖いんです」
「大切な人たちに、今までとは違う目で見られるのが怖いんです」
「あの観客たちと同じ、恐怖と嫌悪に満ちた目を向けられるのが怖いんです」
「俺が俺でなくなるのが、怖いんです……」
「あなたは、本当に優しい子ね」
アフロディーテは、温かな笑みを浮かべた。
「自分が自分でなくなるのが怖いと言うけれど、これまでどれだけ苦しい目に遭って、どれだけ誘惑されても、あなたはあなたのままだった」
「あの闘技場で見たものが怖かった。それは否定しないわ、エデン。でも、あなた一人にこれを背負わせるつもりはない」
「あなたや他の人が、あなたの中に闇しか見ていなくても、私には誰よりも人間らしい男の子が見える。馬鹿がつくほど優しい、男の子がね」
「これから、あなたとその力に何が待っているのかは分からない。でも、一つだけ約束できる。たとえ世界中があなたの敵になっても、私はあなたの隣で戦うわ」
「先生……」
「でも、今は休みなさい。その変わった体にも、まだ休息が必要なの」
「わざわざ『変わった』って言う必要、ありました?」
アフロディーテはただ微笑みながら、立ち上がった。
「先生、レイは大丈夫なんですか?」
「今の自分が、他の人を心配していられる状態だと思う?」
「ただ、あいつと少し話がしたくて……」
アフロディーテは小さく息を吐いてから、答えた。
「命の危険はもうないわ。でも、まだ回復の途中なの。少し時間をあげたほうがいい」
「そうですか……ありがとうございます」
「休みなさい、お馬鹿さん。シュウには、これまで以上にあなたの支えが必要になるわ」
「任せてください!」
エデンは満面の笑みで答えた。
アフロディーテは部屋の扉を開け、再びエイルと顔を合わせた。
「エイル? まだ呼んでいないと思うけれど……」
アフロディーテは戸惑いながら言った。
「呼ぶ? 何のために?」
「さっき、何かあったら呼んでって言ったじゃない」
「私が? 何の話をしているの? 最初の診察以来、この部屋には入っていないわ」
「え? ちょっと待って……何の冗談なの?」
「大丈夫、アフロディーテ?」
(今のは……どういうこと?)
アフロディーテは自らに問いかけた。
(ここにいたのがエイルじゃなかったなら……いったい、誰だったの……?)




