第21章・3:悪魔よりもたちが悪い
傷つき、血を流しながら、レイは地面に膝をついていた。
対戦相手を見据えるその目には、怒りと無力感が入り混じっている。
不意を突いたあの一撃を受けた腕は、まともに持ち上げることさえできなかった。
(くそ……どうして、あんな隙を見せた……?)
腕の痛みに耐えながら、レイは自らに問いかけた。
(あいつの攻撃なんて、弱さと焦りから生まれた悪あがきにすぎないと思っていた)
(それなのに、大切な刀を奪われたうえ、利き腕まで使えなくされた。こいつは本当に、報告書に書かれていたような蛮人なのか?)
(今でこれなら……技を磨き、経験を積んだ戦士になったとき、いったいどうなる?)
その視線の先で、エデンは鋭い笑みを浮かべていた。
大粒の汗が、頬を伝って滴り落ちる。
肌はこれまでになく青白く、呼吸は荒れる海の波のように激しく乱れていた。
(あと少しで、終わる……)
エデンは一歩、前へ踏み出した。
(進め……)
一歩を刻むたび、足音が鼓動と重なるように強く響く。
(今は、迷っている場合じゃない……)
また、一歩。
(どれだけ痛くても……)
もう一歩。
(あと一度だけ、踏ん張ればいい……)
さらに、一歩。
(あと少し頑張れば、全部終わる)
そして、また一歩。
(これで……大切な人たちの期待を裏切らずに済むんだ、エデン……)
自分に、そう言い聞かせた。
…………。
不意に、時が凍りついたように感じた。
視界に映るものがぼやけ、あちらこちらへ揺れ動いて見える。
観客たちは、目の前の光景に呆然としていた。
「エデン……」
アフロディーテが、小さく呟く。
――ドサッ!
あまりにも無情に、エデンの体は地面へ崩れ落ちた。
力の抜けた体を、自分ではどうすることもできなかった。
その眼差しは、ひどく虚ろだった。
瞳にはまだ生気が残っている。それでも、体を動かすための力がなかった。
(動けない……)
地面を見つめたまま、エデンは思った。
(もう……限界が来たのか……?)
シュウとアイザックは、その光景への怒りをこらえ、拳を握り締めた。
ナイとオーディンの口元には、得意げな笑みが浮かんでいた。
そしてサラは、恐怖に耐えきれず、ただ目を背けた。
(違う……こんなのが、俺の限界なはずがない……)
エデンの喉から、嗚咽が漏れる。
(まだ終わってない……まだ、勝ってないんだ……)
(負けられない……負けたくない……)
(立てよ、くそったれッ!)
自分にそう命じ、拳を握ろうとする。
レイは、まだ状況を呑み込めずにいた。
それでも、動くほうの手で刀を握った。
利き手ではない。
だが、この決闘に終止符を打つ役目を担えるのは、もうその手しか残っていなかった。
「さっき、俺がなぜここにいるのかを聞いたな」
レイはゆっくりと立ち上がった。
「その問いに、答えよう」
「俺たちサンドヘッドは、代々受け継いできた剣の技に誇りを持つ一族だ。自らの刀と、深い絆で結ばれた戦士の一族なんだ」
「だが、その血筋は何年も前から、途絶える寸前にある。伝説と呼ばれた一族も、今では母と俺の二人しか残っていない」
そう明かしながら、レイはエデンへゆっくりと近づいていく。
「病も、戦争も、飢えも……どれほど強い者であろうと容赦なく襲いかかる。俺たちも例外じゃなかった」
「そして、間もなく母も重い病に倒れたんだ」
「サンドヘッドの伝説を背負う者になど、なりたくなかった。最後の継承者になりたいと思ったこともない。神々に祝福された戦士にだって、なりたくはなかった」
「だが……俺には、この道しか残されていなかったんだ」
レイは折れた刀を、エデンへ向けた。
「大切なあの人を救うために、俺はここで倒れるわけにはいかない」
「お前個人に恨みがあるわけじゃない。憎しみなど、欠片も感じていない」
「それどころか……お前には、感謝や敬意さえ感じていると言ってもいい」
「別の人生なら、戦友になれるかもしれない。だが、今の人生では無理だ。それほど、この世界は残酷なんだ」
――ゴォォッ!
炎が爆ぜ、レイの刀を包み込んだ。
「今、俺に言えるのはこれだけだ。……ありがとう、エデン・ヨミ」
「さらばだ」
――シュッ!
◇◇◇
「やれやれ、人間……お前はいつも厄介事に巻き込まれているな」
歪んだ響きを帯びた、暗い声が響き渡った。
――ピシッ!
その言葉とともに、時間も空間も凍りついたかのようだった。
(その声……)
エデンの全身を、悪寒が駆け抜ける。
残されたわずかな力で顔を上げると、そこには正体の知れない黒い靄があった。
その中に浮かぶ瞳は、深淵のように底知れなかった。
「久しぶりだな、人間」
その存在は、歪んだ笑みを浮かべた。
「お前……あの日に現れた奴か?」
瀕死の祖父を腕に抱いていた、あの日の記憶が蘇る。
「どうやら、俺のことは忘れていなかったようだな、人間」
「なぜここにいる? ここはどこだ?」
「落ち着け。ここは現実そのものだ。ただ、俺が時間の流れを遅くしただけさ」
悪魔はそう説明した。
エデンはレイへと目を向ける。
炎をまとった刀が、ゆっくりと自分の顔へ近づいていた。
「何をしに来た?」
「分かっているだろう」
悪魔もまた、レイへと視線を向けた。
「俺の見立てが間違っていなければ、お前はあと数秒で死ぬ」
「それがどうした?」
「俺なら助けてやれる。生き延びさせるだけじゃない。お前がそれほど渇望している勝利まで、手に入れさせてやれるぞ」
歪んだ笑みが、再び浮かぶ。
「お前の正体は分からない。だが、その言葉を一つだって信じるつもりはないぞ、くそ野郎」
「信用するかどうかの問題じゃない。生きるか死ぬかの話だ。お前も分かっているだろう?」
エデンは歯を食いしばり、目を逸らした。
「俺は悪魔だが、他の連中ほど気まぐれじゃない」
悪魔は笑みを浮かべたまま続ける。
「手頃な対価で、力を貸してやろう」
「残された寿命の四分の一。それだけ差し出せばいい」
「何だと!? そんな馬鹿げた条件を俺が呑むと思ってるなら、どうかしてるぞ!」
「ほらほら、時間がないぞ、人間」
悪魔の声には、皮肉が滲んでいた。
「本当に、このまま死ぬつもりか?」
そして、問いを重ねる。
「あいつを救い出さずに死ぬつもりか?」
その問いを聞いた瞬間、エデンの体がびくりと震えた。
「お前を助けられるのは、俺だけだ」
悪魔は言い切った。
「この残酷な世界で生き延びたいなら、受け入れるしかない。お前の本当の姿が、怪物であることをな」
…………。
「断る」
「……は?」
「断る」
「おい。自分が何を言っているのか、分かっているのか?」
「ああ。今までで一番、はっきりとな」
エデンは、揺るぎない声で答えた。
「お前が言ったんだろ。ただ、怪物になればいいんだよな?」
エデンの目が、獣のように鋭さを帯びていく。
瞳孔は細長く伸び、虹彩は深紅へと染まっていった。
その眼差しを見た悪魔は、こらえきれず、狂ったように笑い出した。
「ハハハハハッ! それで、自分を人間だと思っているのか?」
「お前は、悪魔よりもたちが悪い」
悪魔は笑いながら続けた。
「その目、気に入ったぞ、人間。お前がどこまで行けるのか、気になって仕方がない」
靄の中から、鋭い指先を持つ手が伸びた。
その手が、エデンの背に触れる。
「お前が本当はどんな怪物なのか、世界に見せつけてやれ。エデン・ヨミ」
そう告げながら、悪魔は濃密な紫のエネルギーを、エデンの体へ流し込んでいく。
(壊れずに、どこまで進めるか……見せてもらおう)
悪魔は、笑みを浮かべた。
◇◇◇
――ドゴォォォンッ!
禍々しいエネルギーが爆発し、闘技場全体を揺るがした。
観客たちは凍りつき、身動き一つ取れずにいた。
レイは、そのエネルギーが放つ凄まじい圧力に押され、後退を余儀なくされる。
(どこから、こんな力が……!? もう動くことさえできなかったはずだろ!)
エデンの力に吹き飛ばされまいと、レイは必死に踏みとどまった。
紫のエネルギーの靄から、半ば人の姿を残した異形が現れる。
体の半分は腐り崩れ、臓腑と皮の切れ端だけで形作られているかのようだった。
もう半分からは、紫の彼岸花が生え出していた。
その片目は、変わらず深紅に染まり、鋭い眼光を放っている。
周囲には、紫と黒が入り混じった濃密なエネルギーが、不規則にうねりながら立ち上っていた。
怪物が一歩を踏み出すたび、地面に亀裂が走る。
その場にいる誰もが、恐怖に身を震わせていた。
神々は一瞬のためらいもなく、それぞれの武器を構えた。
アフロディーテでさえも。
(最悪の事態だわ……)
アフロディーテの目に、涙が滲んだ。
(エデン……こんな思いをさせないで……お願いだから……)
「全員、構えろ! 危険な動きを見せたら、ためらわずに殺せ!」
オーディンが命じた。
だが、そのとき。
闘技場全体に、力強い声が響き渡った。
「手を出すなッ!」
その叫びを聞いた神々は、一斉に動きを止めた。
声の主へと、視線が集まる。
「この勝負は、まだ終わってない! だから手を出すな!」
叫んでいたのは、エデンだった。
「まだ……意識があるの……?」
アフロディーテが呟いた。
「父上……ご命令は?」
ヘイムダルが指示を仰ぐ。
…………。
「父上!」
「動くな……」
オーディンは歯を食いしばり、ようやく答えた。
「ですが……」
「たとえわずかでも意識が残っている以上、我々は介入できん」
その声には、怒りが滲んでいた。
(すまない、シュン。だが……俺の闇を、この世界に解き放つときが来たんだ)
エデンは思った。
(これから、どんな目で見られようと構わない。だが、ここでしくじるつもりはない)
(あれほど否定してきた怪物になるしかないなら、なってやる)
(悪魔よりも、たちの悪い怪物になってやる)
【続く】




