第21章・2:限界を超えて
――ヒュウウウウウッ!
一陣の強風が闘技場を駆け抜けた。
巻き上がっていた砂煙が吹き払われ、向かい合う二人の戦士の姿が、再び観客たちの前へ露わになる。
互いの視線が、正面から激しく交差した。
レイの瞳に浮かんでいたのは、隠しきれない困惑。
対するエデンの眼差しには、先ほどまで以上に強固な意志が宿っていた。
(馬鹿げている……)
レイは、砕けた刀の柄を握り締めながら考える。
(この俺が、あんな野蛮人にここまで追い詰められるなんて……あり得ない)
自らの腹部をわざと貫かせ、刀身を素手でつかみ、そのまま力任せに破壊する。
剣士としての常識も、戦いにおける名誉も存在しない。
(奴の戦い方は、反吐が出るほど醜悪だ)
しかし、どれほど嫌悪しても、失われた刀身が元へ戻るわけではない。
(だが……これで条件は同じになった)
レイは、鞘に収められたままのエデンの剣へ視線を向ける。
(俺はもう刀を失った)
(こうなった以上、奴のやり方で戦うしかない……)
◇◇◇
一方、エデンは剣を鞘へ収めたまま、正面にいるレイを見つめていた。
腹部に開いた傷口からは、今も絶え間なく血が流れ落ちている。
腕や脚に刻まれた無数の裂傷からも血が滴り、足元の地面を赤黒く染めていた。
(危険すぎる賭けだった)
エデンは荒くなり始めた呼吸を整えながら、自らの選択を振り返る。
(でも、これでようやく条件を同じにできた)
刀を持っていたレイは、速度でも技術でもエデンを遥かに上回っていた。
攻撃の順序を予測できたとしても、反応が間に合わなければ意味がない。
(あいつが刀を持っているかぎり、俺から近づくことはできなかった)
(だから、自分から追うのをやめた)
エデンは、刀身を握り潰した左手へ視線を落とす。
血に濡れた掌には、刃によって刻まれた深い傷が残っていた。
(自殺行為に近い選択だった。でも……これは、俺にしかできない方法でもある)
普通の人間なら、腹部を刀で貫かれた時点で立っていることさえできない。
出血と激痛によって意識を失い、そのまま命を落としていてもおかしくなかった。
(良くも悪くも、俺にはあのピンク頭が指摘した、馬鹿げた再生能力がある)
傷口はまだ塞がっていない。
それでも、体内では再生するための力が確かに働き始めていた。
(だからといって、勝てると決まったわけじゃない)
エデンは正面にいるレイを見据える。
(刀を失っても、あいつの速度と戦闘経験が俺より遥かに上であることは変わらない)
長期戦になれば、出血を続けている自分のほうが圧倒的に不利になる。
(勝つ機会があるとすれば、一度だけ)
エデンは、血に染まった拳を強く握り締めた。
(すべてを懸けた、たった一度の仕掛け)
(その一撃で……勝負を決める)
「レイ」
突然、エデンが静かに相手の名を呼んだ。
「一つ、聞いてもいいか?」
「何だ?」
レイは露骨な嫌悪を浮かべる。
「俺には、お前と話すことなど何もない」
「どうして、お前はこの試合に勝ちたいんだ?」
「……何?」
予想していなかった問いに、レイは眉をひそめた。
「そんなことを聞いて、どうするつもりだ?」
「……」
「俺が勝ちたい理由など、お前に何の関係がある?」
レイは吐き捨てるように続ける。
「悪魔ごときが、くだらない詮索をするな」
「もし、すべてが俺一人だけの問題だったなら――」
エデンは、レイの侮蔑を気にすることなく答え始めた。
「こんな大会、どうでもよかった」
「何……?」
「順位にも興味はない」
エデンの声は静かだった。
「世界中の誰かに、自分の価値を証明したいとも思わない」
レイは理解できないという表情で、エデンを見つめる。
「なら、なぜまだここに立っている?」
「もう、俺一人だけの問題じゃないからだ」
エデンは観客席へ視線を向けた。
そこには、自分の勝利を信じて待っている者たちがいる。
「俺なら勝てると信じてくれた人たちがいる」
「……」
「この大会そのものは、俺にとって何の意味もない」
アフロディーテ。
シュウ。
サラ。
そして、自分を見守る仲間たち。
「でも――あいつらには意味がある」
エデンの拳に、さらに力が込められる。
「あいつらは、俺にとって大切な存在だ」
その瞬間、エデンの全身から禍々しい力が噴き上がった。
「だからこそ――!」
大地が大きく揺れる。
闘技場全体を覆う空気が、一瞬にして重く変わった。
「俺は一切、手加減しない!」
エデンの体から、濃密で不規則なエネルギーが溢れ出す。
それは炎のように揺らめきながらも、決して一定の形を保とうとはしない。
膨張し。
捻じれ。
砕け。
再び一つへ集まる。
巨大なエネルギーが脈打つたびに、闘技場の地面へ新たな亀裂が走った。
「な、何だ……これは……?」
観客たちの顔から血の気が引いていく。
息をすることさえ困難にするほどの圧力。
全身を内側から締めつけるような痛み。
そして、理由もなく心を支配していく、圧倒的な恐怖。
誰もが冷たい汗を流しながら、エデンの姿を見つめていた。
(これは……あの日と同じだ)
シュウの脳裏に、初めてエデンと戦った日の記憶が蘇る。
(あのとき感じた力……)
(触れてもいないのに体を押し潰し、痛みと恐怖だけで相手を屈服させる、あまりにも異常なエネルギー……)
シュウの両手が、知らず知らずのうちに震え始める。
(どこまでやるつもりなんだ、エデン……?)
友人の覚悟を理解しているからこそ、その力が恐ろしかった。
(君は、勝利のためにどこまで自分を追い込むつもりなんだ……?)
しかし、アフロディーテが感じていたのは恐怖だけではなかった。
「待って……」
彼女はエデンから溢れる力を注意深く観察する。
(今までとは違う)
力そのものは、相変わらず不安定で歪だった。
それでも、ただ無秩序に暴れているわけではない。
(あの子……自分の力を制御しているの?)
バルドルもまた、その変化を見逃さなかった。
(まさか……)
エデンの中にある無数の感情。
怒り。
恐怖。
憎悪。
希望。
それらは混ざり合いながらも、たった一つの目的へ向かって流れていた。
(これが、ヘラから得た答えなのか……?)
エデンの体から放出されるエネルギーは、一秒ごとに量を増していく。
止めどなく噴き出し、周囲の大気を歪ませていた。
(残された方法は、これしかない)
エデンは、体内に蓄えられている力をさらに深く探る。
(俺の限界を超えて、力の残量を一気に引き出す)
全身が悲鳴を上げる。
傷口から流れ出す血の量も、少しずつ増えていた。
それでも、エデンは力の放出を止めない。
(今の俺が扱えるのは、本来持っている力のわずか二パーセント)
(それなら、より多くの力へ到達するために……普段以上のエネルギーを一気に消費するしかない)
あまりにも乱暴な理屈だった。
制御できる割合を増やせないのなら、消費量そのものを強引に増やす。
当然、体内のエネルギーは通常よりも遥かに速く枯渇する。
(馬鹿げた結論だ)
(こんな使い方をすれば、すぐに力を使い果たす)
エデン自身、それを誰よりも理解していた。
(でも、今の俺には他の選択肢がない)
溢れ出していた力が、少しずつエデンの周囲へ収束していく。
両足を開き、重心を低く落とす。
血に濡れた拳を構え、レイの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「覚悟しろ」
エデンの紅い瞳が、強烈な光を放つ。
「ここからは――俺のすべてをぶつける」
◇◇◇
――ズドンッ! バキバキバキッ!!
エデンが地面を蹴った瞬間、その足元が粉々に砕けた。
漆黒の姿が閃光のように闘技場を駆け抜け、一直線にレイへ襲いかかる。
「……っ!」
瞬きをするほどの時間さえなかった。
気づいたときには、エデンがレイの目の前へ立っていた。
レイの体が、考えるよりも先に動く。
両腕を顔の前で交差させ、迫り来る攻撃を受け止めようとした。
(これさえ耐えれば終わる……!)
エデンは全力を一撃へ注ぎ込もうとしている。
ならば、この攻撃さえ凌げば、すべての力を使い果たすはずだった。
少なくとも、レイはそう確信していた。
だが――。
「……!」
その表情が、一瞬にして変わった。
ほんの数千分の一秒。
交差させた腕の隙間から、レイはエデンの瞳を見た。
灰色だったはずの両目が、内側から滲み出すように鮮烈な紅へ染まっていく。
そこにあったのは、単なる殺意ではない。
目の前の獲物を確実に仕留めようとする、獣そのものの眼差し。
頭で考えるよりも先に、レイの全身がたった一つの命令を叫んだ。
(逃げろ!!)
「くっ……!」
レイは交差させていた腕を解き、反射的に首を捻った。
エデンの拳が、自らの顔面へ直撃する軌道から強引に顔を逸らす。
次の瞬間――。
――ドゴォォォンッ!!
エデンの拳が、レイの頬すれすれを通過した。
それは、ただの空振りではなかった。
拳によって圧縮された空気が爆発し、闘技場を吹き荒れていた風の流れそのものを力任せに捻じ曲げる。
凄まじい衝撃波が前方へ解き放たれ、エデンの正面にあった地面を何メートルにもわたって抉り取った。
砂。
石。
砕けた地面。
そのすべてが一瞬にして吹き飛ばされる。
そして、破壊の奔流は観客席の直前まで到達し、彼らを守っていた透明な防壁へ激突した。
――バキィィィッ!
空中に、無数の亀裂が浮かび上がる。
「なっ……!」
「防壁が……!」
観客席から悲鳴が上がった。
それまで目に見えなかった防壁が、ひび割れたガラスのような姿を露わにする。
「ヘイムダル!」
「分かっている!」
ヘルモーズとヘイムダルは即座に反応した。
二人は両手を防壁へ向け、自らのエネルギーを一気に注ぎ込む。
崩壊しかけていた第一層が輝きを取り戻す。
しかし、エデンの一撃によって生まれた圧力は消えない。
防壁全体が大きく揺れ、支える二人の体まで後方へ押し戻していく。
「ぐっ……!」
ヘルモーズの足元が揺らいだ。
(何なんだ、この力は!?)
両腕へさらに力を込めても、防壁の亀裂は完全には塞がらない。
(たった一度、拳を振っただけだぞ……!)
第二層の防壁にまで亀裂が到達しようとした、そのとき。
二つの巨大なエネルギーが、背後から防壁へ注ぎ込まれた。
トールとバルドルだった。
二人の力が加わったことで、防壁の揺れがようやく収まり始める。
「忌々しい化け物め……」
トールはエデンを見下ろしながら、獰猛な笑みを浮かべた。
やがて、闘技場を覆っていた巨大な砂煙が、少しずつ風に流されていく。
そして――。
たった一度の拳が残した光景が、観客たちの前へ姿を現した。
「……嘘だろ」
誰かが、呆然と呟いた。
闘技場の地面には、数メートルもの幅を持つ巨大な亀裂が刻まれていた。
エデンの足元から一直線に伸びた破壊の跡は、観客席を守るエネルギー防壁の直前で止まっている。
しかし、防壁も無傷ではなかった。
透明な表面には、今も無数の亀裂が残っていた。
その一方、戦場の中央では――。
「はぁ……はぁ……」
レイが、わずかに体をふらつかせながら立っていた。
拳の直撃は避けた。
それにもかかわらず、頭の中では今も激しい耳鳴りが続き、平衡感覚が戻らない。
「……っ」
震える手で、自分の顔へ触れる。
指先に、温かな液体が付着した。
頬から耳元にかけて、深い裂傷が刻まれている。
エデンの拳が生み出した風圧だけで、皮膚を切り裂かれていたのだ。
レイは血に濡れた指を見つめたあと、ゆっくりと顔を上げる。
その傷をつけた張本人は、数メートル先に立っていた。
紅い瞳を輝かせながら、獲物を追い詰める野獣のようにレイを見据えている。
(俺は今までずっと……)
レイは、自分の手に残された刀の柄へ視線を落とした。
(戦う方法は、誇りあるサンドヘッドの型に従うことだけだと思っていた)
一族から受け継いだ技。
剣士として叩き込まれた作法。
決して破ってはならない規律。
(その型から外れた戦い方は、すべて間違っていると決めつけていた)
どれほど不利な状況へ追い込まれても、剣士としての掟と道徳だけは捨てない。
そう、自分自身に誓っていた。
(何があっても、剣士の道から外れないと……)
しかし――。
(今の俺には、もう何も残っていない)
レイの手に握られているのは、刀身を失った柄だけだった。
(剣がない)
(型もない)
(誇りさえ……残っていない)
それに対して、目の前に立つ男はどうだ。
自らの腹を貫かせた。
刃を素手でつかんだ。
力任せに刀を破壊した。
剣士としての常識など、初めから一つも守っていない。
(あの野郎は、俺が何を仕掛けても、そのたびに戦い方を変え続けた)
追いつけなければ、待ち伏せる。
刀に勝てなければ、その刀を壊す。
自分に足りないものがあれば、持っているもので補う。
(掟なんて、何一つ守っていない)
それでも、エデンは一度も立ち止まらなかった。
(ただ、たった一つの目的だけを追い続けている)
――勝利。
(なら……)
レイは、砕けた刀の柄を強く握り締めた。
(このまま負けるか、殺されるだけだというのに……)
(俺が、こんなクソみたいな規則へ縋り続けることに、何の意味がある?)
その瞬間――。
レイの体から、小さな火の粉が舞い上がった。
「……?」
赤熱した光の筋が、両肩から静かに立ち昇っていく。
一筋。
二筋。
それは次第に数を増やし、灼熱の尾を引きながらレイの全身を包み始めた。
その変化に気づいたエデンは、紅い瞳をわずかに細める。
そして、口元へ小さな笑みを浮かべた。
(ようやく目を覚ましたな、レイ)
「俺は……」
レイは砕けた刀の柄を手放し、血に濡れた両拳を強く握り締めた。
(負けない)
燃え始めた力が、脈打つように激しく揺れる。
(絶対に負けるものか……!)
剣士としての型も。
一族の掟も。
これまで自分を縛り続けてきたすべてを、心の中から振り払う。
(もう規則などいらない)
(制限もいらない)
レイの周囲で、灼熱の炎が渦を巻き始めた。
(どんな手を使ってでも、俺は勝つ!)
そのとき。
一人の女性の顔が、レイの脳裏に浮かび上がった。
自分へ向けられた、温かく穏やかな笑顔。
その姿を思い出した瞬間、彼を包む炎が一気に勢いを増す。
(彼女のために――)
レイは再び、刀身を失った剣の柄を握った。
(俺は勝つ!)
――ゴオオオオオオオッ!!
――ゴオオオオオオッ!!
灼熱の炎が爆発し、レイの全身を包み込んだ。
凄まじい熱気が闘技場を駆け抜け、彼の足元に散らばっていた刀の破片を一瞬にして赤熱させる。
「……!」
顔に刻まれた深紅の部族紋様が、炎へ呼応するように眩い橙色へ変化していく。
そして、レイが握る刀の柄から炎が噴き出した。
渦を巻く火が細長く収束し、失われた刀身の代わりとなる灼熱の刃を形作っていく。
炎でありながら、その輪郭は本物の刀以上に鋭い。
レイは新たに生まれた火炎の刀を構え、真正面からエデンを睨みつけた。
「どうやら、本気になったみたいだな」
エデンはレイの変化を前にしても怯まず、むしろ楽しそうに微笑んだ。
そして、腰に差した剣へ右手を伸ばす。
――シャキンッ!
虚無よりも暗い刀身が、鞘から静かに抜き放たれた。
「なら、俺も――」
全身から溢れる禍々しい力を、さらに高めていく。
「持っているものを全部ぶつけるとしよう」
――ズドンッ!
二人が、同時に地面を蹴った。
剣士としての型も。
受け継いだ流派も。
これまで自分たちを縛っていた戦い方も関係ない。
二人の頭にあるのは、たった一つ。
――勝利。
それだけを求め、獣のような勢いで正面から激突した。
――ギィィィンッ!!
漆黒の剣と炎の刀が、闘技場の中央で衝突する。
爆発にも似た衝撃が周囲へ解き放たれ、大地と防壁を激しく揺さぶった。
二人は刃を押しつけ合ったまま、至近距離で睨み合う。
エデンの口元には、獲物を前にした獣のような鋭い笑み。
対するレイの顔には、何としてでも勝利をつかむという、真剣な決意が刻まれていた。
「はあっ!」
二人はほぼ同時に剣を振り抜き、互いの刃を弾き飛ばす。
その反動を利用して後方へ跳び、一度距離を取った。
しかし――。
着地した次の瞬間には、再び地面を蹴っていた。
――ギンッ!
レイが鋭い刺突を放つ。
エデンは剣の腹で受け流す。
――ガキンッ!
エデンの切り上げに対し、レイは炎の刀を上から振り下ろした。
二本の刃が正面から衝突し、火花と炎が宙へ舞う。
横薙ぎには縦斬り。
斜めからの斬撃には、逆方向からの一撃。
一方が仕掛ければ、もう一方が即座に応じる。
攻撃と防御。
防御から反撃へ。
その役割は一瞬ごとに入れ替わり、どちらが優勢なのかさえ判別できない。
剣が交わる音だけが、絶え間なく闘技場へ響き続けた。
「す、すごい……」
観客席の誰かが、呆然と呟いた。
二人の攻防は、常人の目では追うことすら難しい速度へ達している。
それでも観客たちは瞬きさえ忘れ、繰り出される一挙一動へ釘づけになっていた。
だが、二人が使っているものは剣だけではない。
「そこだ!」
エデンはレイの刀を受け止めると、空いている左手で顔面へ拳を放った。
「……っ!」
レイは首を傾けて拳を避ける。
その回避動作に腰の回転を加え、エデンの脇腹へ鋭い蹴りを叩き込んだ。
――ドンッ!
「ぐっ……!」
エデンは蹴りの衝撃へ逆らわず、後方へ跳ぶ。
空中で体を回転させ、そのまま宙返りへ移行した。
そして――。
「持っていけ!」
回転の勢いを利用し、手にしていた剣をレイへ投げ放つ。
漆黒の剣が、高速で回転しながら一直線に飛来する。
「甘い!」
レイは炎の刀を振り抜き、飛んできた剣を正面から弾き返した。
――ギィンッ!
漆黒の剣が軌道を変え、地面へ突き刺さる。
その時点で、エデンの両手に武器はなかった。
しかし、彼は一切躊躇しない。
着地と同時に地面を蹴り、素手のままレイへ突進した。
「武器も持たずに何を――!」
レイは迫り来るエデンへ、炎の刀を横薙ぎに振るう。
灼熱の刃が、胴体を両断する軌道で襲いかかった。
だが、エデンは速度を落とさなかった。
「……っ!」
地面すれすれまで重心を落とし、その勢いのまま滑り込む。
炎の刀が、髪の毛を焦がしながら頭上を通過した。
エデンはレイの足元を抜け、その先の地面へ突き刺さっていた自分の剣へ手を伸ばす。
滑走しながら柄をつかみ、力任せに剣を引き抜いた。
――ズガガガガガガッ!!
剣先を地面へ食い込ませ、それを支えにしながら、さらに滑り続ける。
漆黒の刀身が石畳を深く切り裂き、エデンが進む軌道に沿って長い亀裂を刻んでいく。
石片と火花が、激しく宙へ舞い上がった。
「……今だ!」
――ガキンッ!
エデンは剣を地面へ深く突き立てた。
その剣を支点として全身を持ち上げ、勢いを殺すことなく空中で方向を変える。
「なっ……!?」
そして、弓から放たれた矢のように、再びレイへ向かって飛び出した。
――ギィィィンッ!!
漆黒と炎の刃が、凄まじい速度で再び衝突する。
その一撃を合図に、新たな攻防が始まった。
斬撃。
刺突。
拳。
蹴り。
二人は使えるものすべてを織り交ぜながら、一歩も譲らず攻撃を重ねていく。
闘技場を満たしていた罵声も、歓声も、いつしか完全に消えていた。
観客たちは誰一人として言葉を発することができない。
ただ目の前で繰り広げられる激闘に圧倒され、口を開けたまま二人の動きを追い続けていた。
(エデンは、自分本来の戦い方を取り戻している)
アフロディーテは高速で交錯する二人を見つめながら分析する。
規則に縛られず、あらゆるものを利用する。
野性的で、自由で、予測できない戦闘スタイル。
それこそが、エデン本来の戦い方だった。
(でも、ここへ来て学んだものを捨てたわけじゃない)
以前のエデンなら、ただ感覚と勢いに任せて攻撃していた。
今は違う。
(自分の誇りに固執せず、相手を分析する戦い方を、野性的で自由な自分のスタイルへ組み込んだ)
レイへ繰り出している攻撃も、純粋に戦いを楽しんでいるだけではない。
拳への反応。
斬撃を見切る視力。
不意を突かれたときの判断。
追い詰められた際に選択する行動。
(身体能力だけじゃない)
(視覚も、判断力も、精神的な限界さえ……一つずつ試している)
エデンは戦いながら、レイという人間を解き明かそうとしていた。
(あの子は、レイの中にある綻びを探している)
しかし、アフロディーテの胸から不安が消えることはなかった。
(それでも……一つ、気になることがある)
同じ頃、シュウもまた、かつて抱いた感覚を思い出していた。
(あの日と同じだ……)
初めてエデンと拳を交えた日。
戦いが続けば続くほど、その動きが劇的に変化していった。
(時間が経つたびに、エデンは速くなっている)
レイの攻撃へ反応し、その速度へ適応する。
(強くなっている)
受けた攻撃を理解し、それを自らの力へ変えていく。
(そして、より正確になっている)
一秒前までできなかったことを、次の瞬間には当然のように成功させる。
(増大しているのは、力だけじゃない)
エデンのエネルギーは、確かに凄まじい勢いで膨れ上がっている。
しかし、それ以上に恐ろしいものがあった。
(あいつが生まれ持った戦闘の才能そのものが、あらゆる能力を理屈の通じない領域まで引き上げている)
シュウは無意識のうちに、拳を強く握り締めた。
(でも……一つだけ、引っかかる)
そして、バルドルは二人とは異なるものを見ていた。
(エデンは、わずか数日のあいだに自分の長所と短所を理解しただけじゃない)
激しく歪みながらも、一つの目的へ向かって流れているゼンカ。
その奥にある、エデン自身の心を見つめる。
(自分という人間そのものを、理解し始めている)
自らが恐れ、拒絶してきたもの。
人々から悪魔と呼ばれる原因となった、心の奥底に潜む力。
(あの子は、自分へ恐怖や嫌悪を抱かせるものから逃げなかった)
否定することも、切り捨てることもしなかった。
(それを抱き締め、他の誰もが避けようとするものの中から、自分だけの強さを見つけ出した)
エデンは今も恐れている。
いつか、本当に人々が言う悪魔へ変わってしまうことを。
(でも、愛する者たちの期待を裏切ることを……あの子はそれ以上に恐れている)
だからこそ、決めたのだ。
人々が自分を悪魔と呼ぶのなら、その力を否定するのではなく、自らの意志で使うと。
(大切な人たちを守るための悪魔になることを選んだ)
深い闇の中で、決して消えないものを見つけた。
(あれほどの暗闇の中から、小さな光を見つけ出した……)
バルドルの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
(それが、エデンという人間なんだ)
しかし――。
その表情には、すぐに新たな懸念が浮かんだ。
(それでも……何かがおかしい)
アフロディーテ。
シュウ。
バルドル。
三人の視線が、同時にエデンの姿へ向けられる。
そして、まったく同じ疑問が、それぞれの胸に浮かび上がった。
(あれほどのエネルギーを――)
(いったい、いつまで維持できる……?)
◇◇◇
観客たちの目には、エデンから放出されるエネルギーが、一秒ごとに増大しているように見えていた。
拳を振るうたびに。
足を踏み出すたびに。
ほんのわずかに体を動かすたびに。
彼を包む禍々しい力は勢いを増し、際限なく膨れ上がっていく。
しかし――。
エデンの体内で起きていることは、まったくの逆だった。
(減っていく……)
体内に蓄えられていたエネルギーが、凄まじい速度で失われていく。
それは、力そのものが成長しているわけではない。
穴の開いた風船が、内部の空気を激しく噴き出しながら瞬く間に萎んでいくようなものだった。
外側へ放出される力が増せば増すほど、エデンの内側は空になっていく。
(予想していたよりも……ずっと速い)
それでも、エデンは戦いを止めなかった。
――ドンッ!
――ドンッ!
――ドンッ!
エデンの拳と、炎をまとったレイの拳が正面から激突する。
一撃ごとに大気が弾け、闘技場全体が地響きを立てた。
二人の戦いから、もはや剣士としての名誉など消え去っていた。
美しい型もない。
守るべき作法もない。
そこにあるのは、それぞれの拳へ込められた剥き出しの勝利への渇望だけ。
放たれる一撃一撃が、まるで人生で最後の攻撃であるかのように重かった。
「いい加減に――!」
レイは後方へ跳びながら、両手に炎を集める。
「諦めろぉぉぉっ!」
いくつもの火球が生まれ、エデンへ向かって一斉に放たれた。
――ゴオオオッ!
「くっ……!」
エデンは地面を蹴り、闘技場を大きく旋回する。
次々と飛来する火球を身を翻して避け、逃げ道を塞ぐ攻撃は漆黒の剣で切り裂いた。
――ザンッ!
真っ二つになった火球が左右へ分かれ、エデンの背後で爆発する。
「逃がすか!」
レイは両拳を地面へ叩きつけた。
――ズドンッ!
自らのゼンカが大地へ流れ込み、闘技場を構成する土と混ざり合う。
亀裂の奥から橙色の光が漏れ出した。
そして――。
――ゴボゴボゴボッ!
溶けた大地が噴き上がり、灼熱のマグマとなって闘技場を流れ始める。
幾筋もの炎の川が地面を横断し、エデンの進路を次々と奪っていく。
「まだだ!」
レイはさらに地面へ拳を叩き込んだ。
一撃。
二撃。
三撃。
そのたびに大地が砕け、巨大な岩塊が地面から剥がれ落ちる。
レイは炎をまとった拳でそれらを殴り飛ばし、エデンの進路へ次々と投げつけた。
「ちっ……!」
エデンは岩を切り裂きながら、流れ込むマグマを避け続ける。
前へ進もうとするたびに、新たな障害物が行く手を塞いだ。
(時間がない)
体内のエネルギーは、今も凄まじい速度で減り続けている。
腹部の傷から流れる血も止まっていない。
(できるだけ早く、決定打を与えなければならない)
エデンは剣を振るい、正面から迫った巨大な岩塊を両断した。
(それなのに、あの野郎……次から次へと邪魔ばかり増やしやがる)
砕けた岩の向こうから、さらに複数の火球が迫る。
エデンは大きく横へ跳び、爆炎を避けた。
その瞬間――。
レイの右腕が炎の刀を振るうたび、必ず通過する一つの軌道が目に入った。
防御のあとに生まれる、ほんの一瞬の空白。
(それでも……)
エデンの瞳が、鋭く細められる。
(ようやく、道が見えた)
「いつまで逃げ回るつもりだ!」
レイは怒声を上げながら、さらに闘技場を破壊していく。
「姿を隠すのはやめろ!」
「なら――」
エデンは足を止め、漆黒の剣を強く握り締めた。
「お望みどおりにしてやるよ」
そして、レイへ向かって全力で剣を投げ放った。
――ヒュンッ!
漆黒の剣が、放たれた矢のように空中を突き進む。
行く手を塞ぐ岩塊を次々と貫き、砕けた破片と炎を撒き散らしながら、レイへ一直線に迫った。
「……っ!」
レイは咄嗟に炎の刀を構える。
――ギィィィンッ!!
灼熱の刃と漆黒の剣が、凄まじい勢いで衝突した。
「ぐっ……!」
あまりの速度と重さに、レイは炎の刀を両手で支えなければならなかった。
押し潰されそうになる体を踏み止まらせ、全力で飛来した剣を弾き飛ばす。
エデンの剣は大きく軌道を変え、遠く離れた地面へ突き刺さった。
「はぁ……!」
レイは攻撃を防ぎ切った。
その反動によって、炎の刀を握る利き腕が前方へ大きく伸びる。
それは、剣を受け止めた結果として生まれた、ごく自然な動きだった。
しかし――。
その一瞬こそ、エデンが待ち続けていたものだった。
「……え?」
レイが異変を感じたときには、すべてが遅かった。
視線を下へ向ける。
そこには既に、懐へ深く潜り込んだエデンがいた。
レイの腹部とほとんど同じ高さまで姿勢を低くし、伸び切った利き腕の下へ入り込んでいる。
「なっ……!?」
世界の動きが、急激に遅くなる。
引き延ばされた時間の中で、エデンは自らの右手を見つめた。
(俺のエネルギーを、剣のように遠く離れたものへ行き渡らせる必要はない)
以前のように、手のひら全体という広い範囲を覆う必要もない。
(それでは時間がかかりすぎる)
(力が完成する前に、また意識を失う……)
必要なのは、もっと近い場所。
もっと小さな表面。
それでいて、相手の体を貫くほど鋭い一点。
(結果がどうなっても構わない)
(どれだけ痛くても関係ない)
エデンは、右手の中指だけを真っ直ぐ伸ばした。
(これが、俺に残された唯一の方法だ)
次の瞬間。
エデンの全身を包んでいたエネルギーが、一斉に右手へ流れ始めた。
肩から腕へ。
腕から手へ。
そして、手から――たった一本の指先へ。
他の部分を満たしていた力は完全に失われ、エデンの肉体から一滴残らず消えていく。
足を支える力さえ抜け、視界が激しく揺らいだ。
(今は、慎重になっている場合じゃない)
勝利を確実にできる機会は、もう二度と訪れないかもしれない。
(この一瞬しかない)
膨大なエネルギーが、中指の先端へ凝縮されていく。
血のように紅い光が細長く形を変え、その指を鋭い針のように包み込んだ。
「うおおおおおおおっ!!」
エデンは絶叫しながら、その紅い針をレイの利き腕の付け根へ突き出した。
――シュンッ!
――バキィィィィッ!!
指先から解き放たれたエネルギーが、レイの体内を一気に駆け抜けた。
「があああああっ!!」
衝撃によって複数の肋骨が砕ける。
利き腕を支えていた筋肉が引き裂かれ、関節までもが激しく損傷した。
しかし、破壊されたのはレイの体だけではない。
全エネルギーを一つの指へ集中させた反動が、エデン自身へも襲いかかる。
中指が不自然に歪み、その内部から激痛が弾けた。
――ドゴォォォンッ!!
たった一本の指から放たれた力が、周囲の空気を根こそぎ吹き飛ばした。
四方の風が激しく渦巻き、観客席を守る防壁までも大きく揺れる。
誰もが目を見開き、声を失っていた。
「がはっ……!」
レイの口から、大量の血が吐き出される。
力を失った体はそのまま地面へ崩れ落ち、何度も転がったあと、うつ伏せに倒れた。
(今のは……何だ……?)
レイは混乱する意識の中で、必死に顔を上げる。
その正面には、今にも倒れそうなエデンが立っていた。
全エネルギーを使い果たし、両脚は小刻みに震えている。
エデンは強く歯を食いしばりながら、完全に紫色へ腫れ上がった中指を、もう一方の手で押さえていた。
中指は動かない。
手そのものは折れていないものの、あまりにも大きな反動を受け、指を動かそうとするだけで手首から腕まで激痛が走った。
「くそっ……」
エデンは額から冷たい汗を流しながら、傷ついた指を見る。
「洒落にならないくらい痛い……」
声まで震えていた。
それでも、エデンは倒れない。
「でも……」
荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと顔を上げた。
「俺は、まだ立ってる……」
「……っ」
レイもまた、片膝を地面へつきながら体を起こそうとする。
しかし、すぐに異変へ気づいた。
(腕が……)
炎の刀を握っていた利き腕が、力なく垂れ下がっている。
動かそうとしても、指一本すら反応しない。
(動かせない……!)
レイは恐怖に目を見開き、自分の腕を見つめた。
(まさか……最初から、これが狙いだったのか?)
視線を上げる。
傷だらけになり、今にも倒れそうでありながら、エデンは笑っていた。
「そんな……」
観客席のバルドルは、恐怖に顔を引きつらせていた。
(正気じゃない……)
自らの肉体が壊れることまで計算に入れ、一度しか使えない攻撃を迷うことなく実行した。
(いったい誰が、ここまで自分の体を危険へさらせる?)
答えなど、考えるまでもない。
(誰もやらない)
(こんな狂った方法を思いつくのは、エデンくらいだ……)
そして、その激痛を受けながらも戦い続けられる者も、彼以外には存在しない。
(馬鹿げた再生能力を持つ、あの子だけが耐えられる無謀な賭け……)
バルドルは恐怖を覚えながらも、思わず小さな笑みを浮かべた。
(本当に、どうしようもないほど狂っているよ……)
「レイ!」
エデンの声が、闘技場へ響き渡った。
レイが顔を上げる。
エデンは傷ついた右手を持ち上げた。
そして、完全に紫色へ変色した中指を、挑発するようにレイへ突き立てる。
「この戦いは――」
その口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
「まだ始まったばかりだ」
【続く】




