第21章・1:リスク
「紳士淑女の皆さぁぁぁぁん!」
闘技場全体へ響き渡るほどの大声で、ヘルモーズが叫んだ。
その顔には、抑えきれない興奮が浮かんでいる。
「トーナメント・オブ・ゴッズ――第2戦へ、ようこそぉぉぉぉっ!!」
「うおおおおおおおおおっ!!」
観客たちの咆哮が、一斉に轟いた。
凄まじい歓声が巨大な闘技場を揺るがし、足元の大地さえ震えているかのようだった。
「本日行われるのは、両校の運命を左右する大一番!」
ヘルモーズは熱狂する観客たちをさらに煽るように、力強く片腕を振り上げる。
「この一戦でノルク学院が勝利を収め、対抗戦に終止符を打つのか!」
「それともGODS学院が希望の炎を再び燃え上がらせ、勝負を最終第3戦へ持ち込むのかぁぁぁぁっ!!」
「うおおおおおおおおっ!!」
再び、割れんばかりの歓声が巻き起こる。
しかし、神々が並ぶ特別観覧席に浮かれている者はいなかった。
誰もが真剣な表情で闘技場を見下ろし、これから形作られていく戦いの舞台を静かに見守っている。
「それでは、両陣営の戦士を紹介しよう!」
ヘルモーズが、闘技場の右側へ腕を伸ばした。
「まず、ノルク学院から出場するのは――決して屈することのない、不屈の魂を宿した一人の戦士!」
「神々にその実力を認められ、今、己の民のために戦う一人の人間だ!」
右側の入場口を覆う巨大な扉が、ゆっくりと開き始める。
「サンドヘッド一族に伝わる戦闘様式を受け継ぎ――」
暗闇の中から、一人の戦士の輪郭が現れた。
「わずか十六歳にして、ブロンズランク第40位!」
観客たちの興奮が、一気に高まっていく。
「皆様、お待たせいたしましたぁぁぁぁ!」
黒い肌を持つ少年が、闘技場へ堂々と足を踏み入れた。
「レェェェェイ・サンドヘッドォォォォォッ!!」
「うおおおおおおおおおっ!!」
レイの登場と同時に、観客席から凄まじい咆哮が巻き起こった。
その黒い肌に刻まれているのは、鮮血のように紅い部族の紋様。
鋭い眼差しには、何者にも屈しない強さと、勝利への揺るぎない決意が宿っていた。
身を包んでいるのは、漆黒の軽装鎧。
金属製の装甲は一切用いられておらず、動きを妨げないことだけを追求したかのような装備だった。
そして腰には、深紅の刀身を持つ一本の刀が差されている。
レイは観客たちの歓声に応えることなく、その柄を強く握り締めた。
(勝つ以外に道はない)
その瞳が、闘技場の反対側にある入場口を真っ直ぐに射抜く。
(この戦いは……必ず俺が制する)
「さあ、対するGODS学院から出場するのは――!」
ヘルモーズが、今度は左側の入場口へ腕を向ける。
「神々へ戦いを挑むほど傲岸不遜なる戦士!」
その紹介を聞いた瞬間、アフロディーテの眉がわずかに動いた。
「世界中の目の前で、己の価値を証明しようとする一人の挑戦者だ!」
ヘルモーズは構うことなく、その声をさらに張り上げる。
「伝説の英雄――シュンの弟子!」
そして、まるで罪人へ烙印を押すように叫んだ。
「世界が恐れる悪魔ぁぁぁぁっ!!」
「……っ」
アフロディーテは観覧席にいるオーディンへ、鋭い視線を向けた。
(この卑劣な男……そこまで堕ちたの、オーディン?)
これは単なる選手紹介ではない。
エデンがどのような存在なのか、試合が始まる前から観客たちへ植えつけるための言葉だった。
しかし、アフロディーテの非難を受けても、オーディンは何も答えない。
ただ、すべてを承知しているかのように、小さな笑みを返した。
「紳士淑女の皆様――!」
ヘルモーズの声とともに、左側の巨大な扉が開いていく。
「皆様の前へ姿を現すのは――エデン・ヨミィィィィッ!!」
暗い通路の奥から、一人の戦士がゆっくりと歩み出た。
その身を包む鎧は、深淵そのものを切り取ったかのように黒い。
エデンの眼差しに、胸の奥で渦巻いている憎悪や恐怖は映っていなかった。
だが、それらの感情が消えたわけではない。
エデンはそのすべてを受け入れ、自らの決意をより強く研ぎ澄ますための力へと変えていた。
鎧の内側を構成しているのは、体へ密着する漆黒の布地。
首元まで覆うハイネックの装束の上に、軽量化された黒い金属板が配置されている。
前腕。
両肩。
胸部。
そして胴体。
防御すべき箇所だけを正確に覆いながらも、彼の動きを妨げないよう設計された軽装鎧だった。
その腰には、一本の剣が差されている。
柄と柄頭は白く染められ、表面には菱形の彫刻が刻まれていた。
しかし――。
そこに収められた刀身は、光さえ存在しない虚無よりも、さらに深い闇を宿していた。
エデンは闘技場の中央へ向かって、一歩ずつ静かに歩みを進めていく。
◇◇◇
「ブウウウウウウウウウッ!!」
エデンが闘技場へ姿を現した瞬間、観客席の至るところから激しいブーイングが巻き起こった。
先ほどレイを迎えた歓声とは、あまりにも対照的な反応だった。
罵声を浴びせる者。
親指を下へ向ける者。
嫌悪と恐怖を露わにしながら、「悪魔」と叫ぶ者。
アフロディーテはそんな観客たちを眺め、強く奥歯を噛み締めた。
(これこそが、オーディンの狙っていた反応……)
その視線が、神々の観覧席に座るオーディンへ向けられる。
(最初から『悪魔』という言葉を使って、観客全員をエデンの敵に回すつもりだったのね)
本来ならば、その呼び名を公の場で使用することは禁止されていたはずだ。
それにもかかわらず、選手紹介という形を利用し、観客たちの恐怖と偏見を煽った。
(勝利を手に入れるためなら、使えるものは何でも使うつもりなのね……)
(その呼び名を使うことさえ、もう恐れていない)
しかし――。
エデンは足を止めなかった。
周囲から浴びせられる罵声にも、敵意に満ちた無数の視線にも反応しない。
ただ、闘技場の中央に立つレイだけを見つめ、一歩ずつ前へ進んでいく。
その意識から、すべての雑音は消え去っていた。
観客の声も。
ヘルモーズの実況も。
自分へ向けられる憎悪さえも。
今のエデンの心に存在しているのは、たった一つ。
――勝利。
それだけだった。
やがて、二人の戦士が闘技場の中央で向かい合う。
「初めまして、悪魔」
レイは露骨な侮蔑を込めて挨拶した。
「お前については、嫌になるほど多くの話を聞かされている」
片手を刀の柄へ置きながら、挑発するように口元を歪める。
「俺程度で、お前の相手が務まるといいんだがな」
「……」
エデンは一瞬だけレイを見た。
しかし、その視線はすぐに彼から離れ、観客席にいるオーディンへ向けられる。
何も言わない。
怒りを見せることも、問いかけることもしない。
ただ、無言のままオーディンを見つめ続ける。
(……なぜだ?)
オーディンは表情を変えなかったものの、その視線にわずかな疑問を抱いた。
(なぜ何も言わず、こちらを見ている?)
「おい」
レイの苛立った声が、二人のあいだに割って入る。
「いつまで観客席を見ているつもりだ?」
「……」
「自分が誰と戦うのか、忘れたわけじゃないだろうな?」
レイは自らの胸を指さす。
「この試合でお前と戦うのは、俺だ」
エデンはオーディンへ視線を向けたまま、静かに口を開いた。
「まだ喋るつもりか?」
「……何?」
「お前の声は、もう聞き飽きた」
そこで初めて、エデンはレイへ視線を戻す。
その眼差しには、怒りさえ浮かんでいなかった。
「だから、黙れ」
「貴様……誰に向かって――!」
――ヒュンッ!
黒い閃光が、二人のあいだを駆け抜けた。
誰一人として、エデンが剣を抜いた瞬間を見ることができなかった。
気づいたときには、虚無よりも暗い刀身が、レイの喉元へ真っ直ぐ突きつけられていた。
「……っ!」
レイの体が凍りつく。
刃と皮膚との距離は、わずか数センチ。
ほんの少しでも動けば、その切っ先が喉へ突き刺さる。
「な、何のつもりだ……?」
レイの額に、冷たい汗が浮かんだ。
「さっさと始めよう」
エデンは剣を向けたまま、淡々と告げる。
「俺は、こういう無駄な茶番が嫌いなんだ」
「……フッ」
動揺していたレイは、すぐに侮蔑の笑みを取り戻した。
「聞いていたとおりだな」
「……」
「考えることもできない、愚かな悪魔」
レイの眼差しに、強い嫌悪が宿る。
「やはりお前は、根絶やしにされるべき存在だ」
「ああ……そうだな」
予想外の返答に、レイの笑みがわずかに揺らぐ。
「何……?」
「あいつらの言うとおり、俺は悪魔だ」
エデンは自らに向けられた言葉を、否定することなく受け入れた。
「それで?」
その声に、迷いも怒りもない。
「他に何か言いたいことはあるか?」
「そこまでだ!」
ヘルモーズの声が、闘技場全体へ響き渡った。
「まだ試合開始の合図を出していない!」
「……っ」
レイは悔しげに歯を食いしばる。
その直後、喉元へ突きつけられていた黒い刀身が静かに離れた。
「準備ができたら教えろ」
エデンは闘技場の一角を剣先で示す。
「俺は、あそこで待っている」
そう告げると剣を鞘へ収め、指定した場所へ向かって歩き始めた。
レイは何が起きたのか理解できず、その背中を呆然と見つめる。
観客席も静まり返っていた。
エデンを知らない者だけではない。
仲間たちや、これまで彼の戦いを見てきた者たちさえ、その不可解な行動に戸惑っていた。
(何をするつもりなんだ、エデン……?)
シュウは真意を探るように、友人の背中を見つめる。
(ほんの一瞬、レイの挑発に乗ったのかと思った)
アフロディーテも、エデンから目を離せずにいた。
(でも……どうして、あの子はあれほど落ち着いているの?)
その一方で、バルドルはエデンの内側に渦巻く力を注意深く観察していた。
(ゼンカは、相変わらず混沌としている)
光と闇。
希望と絶望。
相反する無数の感情が、彼の中で激しく混ざり合っている。
(だけど、何かが違う……)
バルドルの瞳が、わずかに細められる。
(今までのように、ただ無秩序に荒れ狂っているわけじゃない)
(あの混沌のすべてが……たった一つの意志に従っているように見える)
エデンは自ら指定した場所で足を止めた。
剣を鞘へ収めたまま、正面にいるレイを見つめる。
呼吸すらしていないのではないかと思えるほど静かに。
指一本動かすことなく、その場に立ち尽くしていた。
レイは困惑しながら、ヘルモーズへ視線を向ける。
両者の準備が整ったことを確認したヘルモーズは、大きく腕を振り下ろした。
「それでは――試合開始ぃぃぃぃっ!!」
合図が響いた瞬間、レイは一切迷うことなく刀を抜いた。
しかし――。
「……?」
再び、その体が硬直する。
エデンが動かない。
開始の合図が出たにもかかわらず、剣へ手を伸ばすことさえせず、先ほどとまったく同じ場所に立っている。
(どうして動かない……?)
レイは刀を構えながら、慎重にエデンの様子を窺う。
(もう開始の合図は出ている。それなのに、まだあの場所から一歩も動いていない)
事前に渡された資料の内容が、レイの脳裏をよぎる。
(報告にあった男とは、まるで違う……)
そこに記されていたのは、感情のままに行動する未熟な戦士。
試合開始と同時に、深く考えることなく攻撃を仕掛けてくる、衝動的な愚か者。
(挑発すれば、簡単に我を失うはずだった)
(それなのに……なぜ、あれほど落ち着いている?)
エデンの表情からは、何一つ読み取ることができない。
(冷静なふりをしているだけか……?)
疑念が膨らんでいく。
しかし、レイは強引にその思考を振り払った。
(何を考えていようと関係ない)
その視線が、観客席に座るオーディンへ向けられる。
(俺は、与えられた任務を果たすだけだ……)
◇◇◇
――ヒュンッ!
開始の合図が響いた次の瞬間、レイの姿がその場から消えた。
凄まじい速度で地面を駆け抜け、今も微動だにしないエデンへ一直線に迫る。
「死ねぇっ!」
レイは腰を鋭く捻り、抜き放った刀をエデンの頭部へ振るった。
深紅の刀身が、首から上を斬り飛ばす軌道で空気を切り裂く。
「……っ!」
エデンは上体を後ろへ大きく反らした。
刃が鼻先すれすれを通過し、前髪の先端をわずかに斬り落とす。
完全に避けられたのは、紙一重だった。
(速すぎる……!)
エデンが体勢を立て直そうとする。
しかし、その時間さえレイは与えなかった。
「まだだ!」
レイの踏み込みと同時に、深紅の刀身が鋭く突き出される。
一撃。
二撃。
三撃。
目で追うことさえ困難な刺突の嵐が、エデンの全身へ容赦なく襲いかかった。
「くっ……!」
エデンは体を捻り、首を傾け、最小限の動きで攻撃を避け続ける。
刃が頬を掠める。
次の一撃が肩を通過する。
さらにその次の切っ先が、胸元へ迫る。
攻撃を重ねるたびに、レイの刺突はエデンの急所へ近づいていった。
心臓。
喉。
肺。
腹部。
まるで、エデンの回避行動を一つずつ計測しているかのように。
(なるほど……)
迫り来る刃を見つめながら、エデンの瞳が鋭く細められる。
(ようやく分かった)
「そこだ!」
レイは一歩深く踏み込み、エデンの肝臓を狙って鋭い一撃を放った。
今まで以上に速く、正確な斬撃。
しかし――。
――ギィンッ!
ついにエデンが剣を抜いた。
虚無よりも暗い刀身が深紅の刀を下から弾き上げ、その軌道を強引に逸らす。
「何っ!?」
がら空きになったレイの首へ、エデンの蹴りが横薙ぎに放たれた。
「……っ!」
レイは咄嗟に上体を沈める。
エデンの足が、首筋を数センチの差で通り過ぎた。
互いの攻撃を辛うじて回避した二人は、同時に地面を蹴って後方へ跳ぶ。
距離が開く。
視線が交差する。
次の瞬間――。
二人は一切の迷いなく、再び正面から飛び出した。
――ズガァァァンッ!!
漆黒と深紅の刃が激突する。
凄まじい衝撃が闘技場全体を駆け抜け、大地を震わせた。
巻き起こった風圧が砂埃を吹き飛ばし、観客たちの衣服を激しく揺らす。
「はああああっ!」
レイは鍔迫り合いを押し切ると、卓越した技術で攻撃の連続を繰り出した。
切り上げ。
振り下ろし。
斜めからの斬撃。
そして、急所を貫く鋭い刺突。
攻撃の種類は次々と変化する。
その技の引き出しは、尽きることがないようにさえ思えた。
だが――。
(やっぱり、そうだ)
エデンは防御に徹しながら、レイの剣筋を見つめ続ける。
繰り出される技は変わる。
狙われる場所も変わる。
それでも、その攻撃が組み立てられる順番だけは変わらない。
あまりにも正確に。
あまりにも忠実に。
同じリズムが、何度も繰り返されていた。
しかし、規則性を見抜いたからといって、すべての攻撃を防げるわけではない。
実戦経験の差が、すぐにエデンへ牙を剥いた。
「遅い!」
レイの攻撃速度が、さらに上がる。
「ぐっ……!」
深紅の刃が、エデンの左腕を切り裂いた。
続く斬撃が脇腹を掠め、その直後には肩口へ新たな傷が刻まれる。
一撃ごとに速度が増し、狙いはより正確になっていく。
エデンは必死に剣を動かし、迫り来る刃を受け止め続けた。
――ギィンッ!
――ガキンッ!
――ザシュッ!
だが、防御は少しずつ間に合わなくなっていく。
頬。
腕。
胸。
脚。
漆黒の鎧の隙間を縫うように、無数の傷がエデンの体へ刻まれていった。
流れ落ちる血が地面へ滴り、闘技場の砂を少しずつ深紅に染めていく。
それでも、エデンは攻撃しなかった。
ただひたすらレイの剣を受け、避け、その動きを観察し続ける。
観客席にいる仲間たちは、その光景を不安と無力感の入り交じった表情で見つめていた。
(何を待っているんだ、エデン……?)
シュウは強く拳を握り締める。
(どうして攻撃しない? こんなの、いつもの君らしくない)
アフロディーテの胸にも、重い後悔が広がっていた。
(もしかして、私たちがあの子を追い詰めすぎたの……?)
次々と傷ついていくエデンを前に、唇を強く噛む。
(勝つと信じることばかりを押しつけて……私たちは、本当に馬鹿ね)
バルドルもまた、険しい表情でエデンを見つめていた。
(あれほど落ち着いていたのは……もう自分の敗北を受け入れていたからなのか?)
一瞬、最悪の可能性が頭をよぎる。
しかし、バルドルはすぐにその考えを否定した。
(いや……君は、そんな人間じゃないだろう?)
そして、サラは――。
誰よりも苦しそうな顔で、血に染まっていくエデンを見つめていた。
(ごめん……エデン)
自分のために彼が余計な迷いを抱いたのではないか。
自分が彼を、この戦いへ追い詰めてしまったのではないか。
そんな思いが、胸の奥を締めつける。
(本当に……ごめん)
レイの刃がエデンを切り裂くたびに、地面へ落ちる血の量は増えていった。
漆黒の鎧は赤黒く濡れ、足元には小さな血溜まりさえ生まれ始める。
「これで終わりだ!」
レイは防御の崩れた一瞬を逃さなかった。
強く地面を踏み込み、両手で握った刀をエデンの腹部へ突き出す。
――ザクッ!
「……っ!」
深紅の刀身が、エデンの腹部を貫いた。
切っ先が背中側へ突き抜け、鮮血が宙へ飛び散る。
その瞬間――。
熱狂していた観客たちの声が、完全に消えた。
闘技場全体が、まるで時間さえ止まったかのような静寂に包まれる。
「がはっ……!」
エデンの口から、大量の血が吐き出された。
鮮血は、目の前にいるレイの冷たい顔へ降りかかる。
それでもレイは表情を変えず、貫いた刀を強く握り締めていた。
しかし――。
血に濡れたエデンの口元に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。
「悪い……」
掠れた声で、エデンが呟いた。
「これしか方法がなかったんだ」
その言葉と同時に、腹部を貫いていたレイは刀を引き抜こうとした。
そして――。
――タッ!
レイはエデンの腹部から刀を引き抜こうと、柄を強く引いた。
しかし――。
「……っ!?」
刀は、まるでエデンの体内へ縫いつけられたかのように、びくともしなかった。
レイは両腕へさらに力を込める。
それでも、刀身はほんのわずかにも動かない。
常識では考えられないほどの力が、刀をその場へ押さえつけていた。
「ようやく捕まえたぞ……」
「……!」
エデンが、ゆっくりと顔を上げる。
大量の血を口元から流しながら、その顔には見る者を凍りつかせるほど恐ろしい笑みが浮かんでいた。
「この野郎」
「何……?」
レイが視線を下へ向ける。
そこで初めて、自分の刀を動かせない理由に気づいた。
エデンの左手。
手袋に覆われていないその手が、腹部を貫く深紅の刀身を力任せに握り締めていた。
鋭い刃が掌へ深く食い込み、指の隙間から大量の血が溢れ出している。
それでも、エデンは決して手を離さなかった。
「おいおい、少しは落ち着けよ」
エデンは刀身を握ったまま、呆れたように問いかける。
「こんなふうに腹を刺されたら、どれだけ痛いか知らないのか?」
「お前……正気じゃない!」
レイの顔から、完全に余裕が消えていた。
「いったい、どこの狂人が自分から腹を貫かせるんだ!?」
「悪いな」
エデンは、苦痛に顔を歪めながらも笑い続ける。
「お前を捕まえるには、これしか思いつかなかったんだ」
「何を馬鹿なことを……」
「お前の動きは速すぎた」
エデンはレイの刀を逃がさないように、左手へさらに力を込める。
「俺では、攻撃を目で追うだけでも精一杯だった」
「……」
「動きが機械的だったから、次の攻撃を予測することはできた」
レイの瞳が、わずかに揺れる。
「でも、分かったところで簡単には防げない。速さも技術も、今の俺より遥かに上だったからな」
エデンは、自分の体へ刻まれた無数の傷を一瞥した。
「本当に厄介だったよ」
「だから、わざと俺の刀を受けたというのか……?」
「ああ」
エデンは迷うことなく頷いた。
「俺からお前を追いかけるのは諦めた」
そして、握り締めた刀身をわずかに引き寄せる。
「その代わり、お前のほうから俺のところへ来てもらったんだ」
「お前は……馬鹿なのか?」
「ああ」
エデンは、どこか誇らしげに答えた。
「この世界でも指折りの大馬鹿だ」
「……」
「もちろん、この方法はお前が自分から仕掛けてこなければ成立しなかった」
エデンの笑みから、少しずつ軽さが消えていく。
「でも、お前は必ず来ると思っていた」
「なぜだ……?」
「お前は、今日どうしても勝たなければならない何かを背負っている」
その言葉に、レイの表情が強張った。
「何か――」
エデンは一瞬だけ、神々の観覧席へ視線を向ける。
その先にいたのは、オーディンだった。
「いや……誰か、と言ったほうが正しいか」
「……っ!」
「そいつがお前を追い詰め、何としてでも俺を殺そうと思わせている」
レイの体が凍りついた。
先ほどまで必死に刀を引き抜こうとしていた腕さえ、完全に動きを止める。
「でも、一つだけ教えておいてやるよ、レイ」
エデンの体内から、異様で禍々しい力が溢れ始めた。
黒く濁った気配が炎のように揺らめき、その全身を包み込んでいく。
空気が震える。
大地が軋む。
そして、エデンの左手に握られた深紅の刀身へ、細い亀裂が走った。
「なっ……!」
レイが目を見開く。
亀裂は一本から二本へ。
二本から数十本へと増え、刀身全体へ瞬く間に広がっていく。
エデンは、恐怖に染まるレイの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「俺は――」
左手に、さらに凄まじい力が込められる。
「死ぬつもりなんてない」
――バキィィィンッ!!
深紅の刀身が、凄まじい音とともに砕け散った。
数百もの細かな破片が宙を舞い、闘技場の光を反射しながら周囲へ降り注ぐ。
「うわっ……!」
刀を引いていた力の行き場を失い、レイは大きく体勢を崩した。
――ドサッ!
そのまま地面へ倒れ込み、呆然とエデンを見上げる。
そこに立っていたのは、先ほどまで一方的に傷つけられていた少年ではなかった。
腹部から血を流し続けながらも、エデンの全身からは底知れない力が噴き上がっている。
「お前……」
レイの顔が、恐怖に引きつる。
「いったい、何者なんだ!?」
震える手で、砕けた刀の柄を握り締める。
「これは剣士同士の戦いだったはずだろう!」
「違う、レイ」
エデンは静かに否定した。
「これは最初から、剣士同士の決闘なんかじゃない」
「何……?」
「剣士なのは、お前だけだ」
黒く濁った力をまといながら、エデンが一歩踏み出す。
「俺は――お前が狩ろうとしている獣だ」
「……っ!」
「俺は、お前を突き動かしている規則にも、名誉にも縛られない」
エデンの足元で、地面へ落ちた刀の破片が震え始める。
「勝つために必要なら、俺はどんな手段でも使う」
一歩。
また一歩。
エデンは怯えるレイとの距離を縮めていく。
「なぜなら、俺は戦士じゃない」
その瞳に、赤い光が灯り始めた。
「英雄でもない」
赤は次第に濃くなり、やがて鮮血のような深い紅へ変わっていく。
「俺は悪魔だ」
エデンを取り巻くゼンカが、異様な形へ歪み始めた。
「野蛮人だ」
光とも闇とも呼べない、おぞましい何かが、その背後で蠢く。
「怪物だ」
観客たちは声を失い、ただその姿を見つめていた。
「異端だ」
レイの全身から、冷たい汗が流れ落ちる。
「そして――災厄だ」
エデンの紅い瞳が、レイだけを捉えた。
「だから、お前が俺の道を阻むつもりなら……」
一瞬。
エデンの姿が、レイの視界から消えた。
「排除する」
――シュンッ!
「……え?」
――ドゴォォォンッ!!
エデンの拳が、レイの顔面へまともに叩き込まれた。
凄まじい衝撃によって頬が歪み、その体が地面から浮き上がる。
「がはっ……!」
レイは数メートルもの距離を吹き飛ばされ、闘技場の壁へ一直線に叩きつけられた。
――ズガァァァンッ!!
分厚い石壁が砕け、巨大な亀裂が周囲へ走る。
崩れ落ちた瓦礫と砂煙が、レイの姿を完全に覆い隠した。
「……ぐっ」
しばらくして、瓦礫の奥から苦しげな声が聞こえる。
レイは砕けた石へ手をつき、ゆっくりと体を起こした。
全身は止めようもなく震え、顔から流れ落ちる血が地面へ滴っている。
(何なんだ、あの力は……?)
レイは腕で顔の血を拭いながら、煙の向こうに立つエデンを見つめた。
(どこから、あれほどの力を引き出した……?)
その姿は、もはや一人の人間には見えなかった。
(俺に……あんな怪物を倒せる可能性が、本当にあるのか?)
恐怖に揺れるレイの視線が、助けを求めるように観覧席へ向けられる。
その先には、オーディンが座っていた。
しかし、神の瞳に同情も迷いもない。
氷のように冷たい眼差しでレイを見下ろしながら、その唇だけをゆっくりと動かした。
声は聞こえない。
それでも、何を命じられたのかは明白だった。
――殺せ。
「……っ!」
レイは、砕けた刀の中で唯一形を残している柄を、両手で強く握り締めた。
爪が掌へ食い込むほど力を込め、震える両足で立ち上がる。
「どんな手を使ってでも……」
恐怖を押し殺し、エデンを睨みつけた。
「必ずお前を倒す。忌まわしい悪魔め!」
その眼差しを見たエデンの口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。
「その目――気に入った」
しかし、余裕に満ちた言葉とは裏腹に、エデンの腹部からは今も大量の血が流れ続けていた。
(この出血では、長くは戦えない)
エデンは自らの腹部を一瞥し、紅く染まった拳を握り締める。
(できるだけ早く、決着をつけるしかない……)
【続く】




