第20章・3:心を持つ悪魔
穏やかな静寂が、辺り一帯を包み込んでいた。
エデンとサラは同じ石壁の上に腰を下ろしている。
だが、その間には人一人が入れるほどの距離が空いていた。
二人のあいだに会話はなく、聞こえてくるのは静かに流れる川のせせらぎだけ。
そんな中、エデンはふと、隣から向けられている視線に気づいた。
サラは先ほどからずっと、エデンの腕に抱かれた小さな猫を見つめていたのだ。
近づきたいような、それでいて決して近づいてはならないと自分に言い聞かせているような、複雑な眼差しで。
「触ってみるか?」
「えっ?」
突然声をかけられ、サラの肩がびくりと跳ねた。
「い、いや……私は……無理だ……」
「さっき言っていた呪いと、何か関係があるのか?」
「……」
サラは答えなかった。
しかし、一瞬にして強張った表情と、逃げるように伏せられた瞳。
その反応だけで、エデンには十分だった。
「そうか……」
猫の小さな背中を撫でながら、エデンはそれ以上追及しなかった。
しばらく沈黙していたサラは、自らの手を見つめながら、静かに口を開く。
「正直に言うと……その呪いが本当に存在するのかどうか、私自身にも分からないんだ」
「どういうことだ?」
「物心がついた頃から、私の人生には不幸が付きまとっていた」
サラの声は淡々としていた。
まるで、自分とは関係のない誰かの過去を語っているかのように。
「私は……愛した者を、一人残らず失ってきた」
「……」
「死を間近で見た回数なら、もう数え切れない。あまりにも繰り返しすぎて、死そのものを身近に感じるほどになった」
サラは自嘲するように、小さく息を吐いた。
「それなのに、どの悲劇でも生き残ったのは……いつも私だけだった」
エデンは何も言わず、彼女の言葉に耳を傾ける。
「どんな死に方だったかも、いつ起きたかも、周りに何人いたかも関係なかった」
サラの声が、わずかに震え始める。
「みんな……死んだ」
膝の上で固く握られた彼女の両手は、止めようとしても止められないかのように小刻みに震え続けていた。
「私がアスガルドへ来てから、その噂は瞬く間に広がった」
サラは震える指を、さらに強く握り締めた。
「だから皆、できるだけ私を遠ざけようとする。私が自分たちの人生に関われば、これまで私と一緒にいた者たちと同じ末路を迎える……そう思っているんだ」
その声に怒りはなかった。
そこにあるのは、とうの昔に抗うことを諦めてしまった者の静かな痛みだけだった。
「それで、いつの間にか私自身も、その呪いを信じるようになった」
「……」
「少なくとも、完全には否定できなくなった」
サラは、エデンの腕の中で大人しくしている猫へ視線を向ける。
「だから私は……あらゆる生き物から離れることにしたんだ」
(だから、猫に触れようとしなかったのか……)
ようやく、エデンは彼女があれほど怯えていた本当の理由を理解した。
怖かったのは、猫ではない。
自分が触れることで、この小さな命にまで不幸をもたらしてしまうことが怖かったのだ。
「臆病だと思わないか?」
「え?」
サラは口元を歪め、皮肉めいた笑みを浮かべた。
しかし、その笑顔はあまりにも痛々しかった。
「私は臆病者みたいに逃げた。二度考えることすらせず、振り返りもせず……ただ走って逃げたんだ」
「サラ……」
「『これが一番いい』なんて言葉の陰に隠れているだけだ」
サラは吐き捨てるように続けた。
「本当は、そんなことすら思っていない。ただ自分の弱さを正当化しているだけだ」
震える手を見つめながら、彼女は小さく呟く。
「……情けないよな、私は」
「……」
エデンはしばらく黙っていた。
それから、腕の中の猫へ視線を落とし、ほんのわずかに微笑んだ。
「でも俺には……ある意味、すごく優しいことに思えるけどな」
「……何を言っている?」
サラは訝しげに眉を寄せる。
「お前は必死に隠そうとしているけど、本当は誰よりも周りの人たちを気にかけている」
エデンは静かに彼女を見つめた。
「少なくとも、俺なんかよりずっと」
「……」
「周りの人たちが大切だからこそ、自分でも本当に信じているのか分からない噂から彼らを守るために、自分から独りになることを選んだんだろ?」
「だが……」
「俺に言わせれば、お前は本当に優しい人間だよ」
エデンの言葉に、迷いはなかった。
「俺なら、できないと思う。たかが呪いの噂だけで、自分の愛する人たちから離れるなんて……きっと耐えられない」
エデンは、どこか寂しそうに笑う。
「お前は、俺なんかよりずっと勇敢だ」
「……もう、いい加減にしないか?」
「え?」
突然の言葉に、エデンは目を瞬かせた。
「何がだ?」
サラは苛立った様子で、エデンを睨みつける。
「私のことを褒めるたびに、自分を貶すのをやめてくれないか?」
「……」
「聞いていて気持ちが悪い」
「悪い……」
エデンは叱られた子供のように、わずかに肩を落とした。
「私を普通の人間として扱ってくれることには感謝している」
サラはそう前置きしてから、さらに厳しい口調で続ける。
「だが、何か言うたびに自分自身を踏みにじるお前を見ていると、腹が立つんだ」
「……」
「お前だって、自分のクソみたいな問題と向き合っているんだろ?」
サラの鋭い瞳が、真っ直ぐにエデンを捉える。
「だったら、私に同情する必要なんてない」
その言葉には、拒絶ではなく確かな気遣いが込められていた。
エデンは一度目を伏せると、申し訳なさそうに頭を掻く。
「すまない。そんなふうに考えたことはなかった」
「お前は……怖くなるくらい馬鹿だな」
サラは心底呆れたように呟いた。
エデンは困ったように笑いながら、彼女へ尋ねる。
「それは……どういう意味で受け取ればいいんだ?」
◇◇◇
「一つ、聞いてもいいか?」
沈黙を破ったのは、サラだった。
「どうした?」
「お前は……どうして私に近づこうと思ったんだ?」
エデンが振り向くと、サラはまっすぐ前を見つめたまま問いかける。
「置き忘れた荷物を届けるため、という理由は分かる。だが、それだけなら、もう用は済んでいるはずだ」
彼女は隣に座るエデンを横目で見た。
「それなのに、お前はまだここにいる」
「……」
「まさか、私を哀れんでいるのか?」
サラの表情が、わずかに曇る。
「もしそうなら、今すぐ――」
「違う」
エデンは、サラが言い終えるよりも先に否定した。
「え?」
「ああ、いや……」
即答したにもかかわらず、エデンは困ったように頭を掻く。
「自分でも、うまく説明できないんだ。もしかしたら……ただの好奇心だったのかもしれない」
「お前自身にも分からないのか?」
「悪い」
エデンは誤魔化すように笑った。
「俺、自分の気持ちを言葉にするのが、あまり得意じゃないみたいだ」
「本当にどうしようもない奴だな……」
サラは呆れたようにため息をつく。
エデンは苦笑したあと、腕の中の猫へ視線を落とした。
「でも、やっぱり同情で近づいたわけじゃないと思う」
「なら、何なんだ?」
「同情ではないけど……結局、身勝手な理由だったことに変わりはない」
「何の話をしている?」
エデンはすぐには答えなかった。
自分の中にある感情を一つずつ確かめ、どうにか言葉へ変えようとしているようだった。
「周りの連中がお前を悪く言っているのを聞いたとき……お前の中に、俺が抱えているものと同じ痛みを見つけられるんじゃないかと思ったんだ」
サラは口を挟まず、エデンの言葉に耳を傾ける。
「お前が自分の痛みにどう向き合っているのか。その答えを利用すれば、俺も自分自身のことを理解できる気がした」
エデンは、自嘲するように小さく笑った。
「ほんの一瞬だけ……俺はお前に、自分自身を重ねていたんだ」
「つまり……」
サラは何かに気づいたように、わずかに目を見開いた。
「お前は、男の体に閉じ込められた女だと言いたいのか?」
「……」
エデンの思考が、完全に停止した。
「安心しろ」
サラは真剣な顔のまま、エデンへ向かって親指を立てる。
「私はお前の味方だ」
「……何の話だ?」
「何って……違うのか?」
「どうして今の話から、そんな結論にたどり着けるんだ……?」
「一番分かりやすい答えだと思ったんだが?」
「全然違う!」
「そうか……」
サラは納得したように頷いた。
「どうやら、父さんにもらった雑誌を、もう少し読み込む必要がありそうだな」
(こいつの父親は、いったいどんな雑誌を渡してるんだ……?)
エデンは引きつった笑みを浮かべながら、心の中で問いかけた。
「と、とにかく……悪かった」
気を取り直し、エデンは話を戻す。
「自分が進もうとしている道は間違っているんだと、自分自身に証明するために……俺はお前を利用しようとしたんだと思う」
「……」
「でも、結局分かったのは、俺たちはまったく似ていないということだけだった」
「また自分を卑下し始めるつもりなら、そこでやめろ」
「いやいや、違う。そういう意味じゃない」
エデンは慌てて両手を振り、笑いながら否定した。
「ただ、俺たちはまったく違う道を選んだんだと気づいただけだ」
「違う道……?」
「ああ」
エデンは小さく頷く。
「それでも、俺たちが求めていたものは同じだった」
その横顔から、先ほどまでの迷いが消えていく。
「大切な人たちを守ることだ」
「……」
「俺たちは正反対の道を選んだ。それでも結局は、二人とも愛する人たちを守ろうとしていたんだ」
サラは少しだけ目を伏せた。
「……そうかもしれないな」
「よし、決めた!」
エデンは突然、勢いよく立ち上がった。
「結局、女になる決心をしたのか?」
「だから違うって!」
「冗談だ、冗談」
サラはおかしそうに、小さく笑った。
「くそっ……どうして俺は、こうも余計なことに首を突っ込みたがるんだ……」
エデンはぶつぶつと文句をこぼしながら、片方の手袋を外し始める。
「……何をしている?」
「馬鹿げた仮説でしかないけどさ」
エデンは手袋に手をかけたまま、サラへ視線を向けた。
「その呪いが、誰かとの直接的な接触によって作用すると仮定してみよう」
「……」
「だったら、お前が手袋をしていれば、百パーセント直接触れたことにはならないだろ?」
サラは信じられないものを見るような目をエデンへ向ける。
「なんだ、その馬鹿げた理屈は?」
「それをお前が言うのか?」
先ほどの突拍子もない勘違いを棚に上げているサラに、エデンは呆れた視線を返した。
それから、腕に抱いていた猫をそっと石壁の上へ下ろす。
「ニャア」
猫が大人しく座ったことを確認すると、エデンは片方の手袋を完全に外し、それをサラへ差し出した。
「ほら」
「本気なのか……?」
「ああ」
エデンは迷うことなく頷いた。
「最悪の場合、俺はこの世で最もひどい苦しみを味わいながら死ぬことになる」
「……」
「まあ、それはあくまで最悪の場合だけどな」
「それで私が安心するとでも思ったのか?」
「駄目だったか?」
「当たり前だ!」
サラは声を荒らげたものの、しばらく差し出された手袋を見つめていた。
そして、覚悟を決めたように息を吐くと、エデンから手袋を受け取る。
ゆっくりと手を通し、指先までしっかりとはめた。
その手を見つめてから、サラは鋭い眼差しをエデンへ向ける。
「忠告しなかったとは言わせないぞ」
◇◇◇
エデンの素手が、手袋に包まれたサラの手へそっと重ねられた。
「……」
何も起こらない。
呪いが発動することもなければ、突然雷が落ちてくることもない。
エデンは何度か目を瞬かせた。
ほんの一瞬だけ、目の前にいるサラの姿が二重にぶれて見えたのだ。
だが、すぐに元へ戻ったため、エデンは深く考えずに無視することにした。
「ほらな? 何も起こらないって言っただろ……」
安心させるように笑った、その直後だった。
「……あれ?」
エデンの体が、大きく前へ傾いた。
足元から突然、力が抜けていく。
「え?」
体勢を立て直す間もなく、エデンは石壁から前のめりに転げ落ちた。
――ゴンッ!!
鈍く激しい音とともに、エデンの額が地面へ叩きつけられる。
「おい!」
「いてて……ついてないな……」
エデンは額を押さえながら、ふらつく体を起こそうとした。
「大丈夫か!?」
サラは慌てて駆け寄ると、エデンの腕をつかみ、地面から引き起こす。
「どうしたら、そんな倒れ方ができるんだ!?」
「悪い……ここ数日、あまり眠れてなくてさ」
エデンは力なく笑った。
「色々なことが重なりすぎて、頭の中もだんだん混乱してきてるみたいだ……」
「あんな脅かし方をするな!」
サラの声は、明らかに震えていた。
「本当に死んだかと思っただろ!」
「悪い、悪い」
エデンは、その必死な様子がおかしかったのか、小さく笑う。
「何を笑っている!」
サラは苛立ったように眉をつり上げた。
「本当に、呆れるほどの馬鹿だな……自分ではまともに立つことすらできないくせに、他人の心配ばかりして……」
「でもさ……」
「何だ?」
「転んでよかったよ」
エデンは穏やかな笑みを浮かべた。
「……お前、マゾか何かなのか?」
「違うよ」
エデンは苦笑しながら、サラの手元へ視線を落とす。
「でも、ほんの一瞬だけ……お前はあの呪いのことを忘れて、俺を助けてくれた」
「え……?」
サラは、エデンの視線を追うように自分の手を見た。
そして、ようやく気づく。
エデンの腕を支えているのは、手袋をしていないほうの手だった。
サラの素肌が、直接エデンに触れている。
「……っ!」
その瞬間、サラの顔から血の気が引いた。
言葉を失い、恐怖に目を見開く。
「す、すまない! 触れるつもりは――」
サラは反射的に手を離した。
――ドサッ!
支えを失ったエデンは、再び地面へ尻もちをつく。
「痛っ!」
エデンは顔をしかめ、打ちつけた尻をさすった。
「おい! 手を離すなら、先に言ってくれ!」
「わ、悪い……」
サラは自分の素手を胸元へ引き寄せ、申し訳なさそうに俯いた。
「どうしてお前が謝るんだ?」
「だが、私は……」
「危険を承知で試したのは俺だ。お前のせいじゃない」
エデンは地面に座ったまま、サラを見上げる。
「それより……見ただろ?」
「何を……?」
「俺は死んでない」
「……」
サラはしばらく、呆然とエデンを見つめていた。
やがて小さく息を吐くと、手袋に覆われていないほうの手を彼へ差し出す。
「自殺志願の馬鹿め……」
エデンは、その手を




