第20章・2:呪い
ヒュウッ――。
柔らかな風が吹き抜け、エデンとサラの髪を静かに揺らした。
二人の視線が、真っ向から重なり合う。
そこには、当人たちにさえ理解できないほど強い何かが宿っていた。
「大丈夫か?」
エデンは立ち上がると、地面に座り込んだサラへ手を差し伸べた。
だが――。
「……っ!」
サラは奥歯を強く噛み締める。
パシッ!
そして、差し出されたエデンの手を乱暴に払いのけた。
「私に触るな!」
「え……?」
サラは勢いよく立ち上がると、逃げるようにその場から立ち去っていった。
あとに残されたエデンは、何が起きたのか理解できず、呆然と自分の手を見つめる。
「……なんだったんだ、今の?」
払いのけられた手には、まだわずかな痛みが残っていた。
「俺、何か悪いことしたか……?」
困惑しながら辺りを見回したエデンは、そこでようやく気づいた。
周囲にいる市民たちが、皆こちらを横目で見ている。
その視線に込められていたのは、好奇心などではない。
明確な偏見と、隠しきれない嫌悪だった。
(面倒なことになる前に、ここから離れたほうがよさそうだな……)
そう判断して立ち去ろうとした、そのとき。
エデンは、道の上に大量の果物や野菜が散らばっていることに気づいた。
先ほどぶつかった拍子に、サラが落としてしまったのだろう。
「はぁ……」
エデンは深いため息をつき、その場にしゃがみ込んだ。
(まったく……結局、あいつを捜すことになるのか)
一つずつ、散らばった食材を拾い集めていく。
(あの衛兵たちに四六時中見張られているだけでもうんざりなのに……今度は、視線だけで好き勝手に決めつけてくる連中の相手かよ)
(俺を何だと思ってるんだ? 爆弾か何かか?)
そのとき、頭上から穏やかな男の声が聞こえた。
「大丈夫かい、君?」
「え?」
顔を上げると、そこには一人の中年男性が立っていた。
男はエデンへ手を差し伸べている。
その瞳に、先ほどまで向けられていた憎悪や嫌悪はなかった。
あるのは、純粋な心配だけだった。
「はい。心配してくれて、ありがとうございます」
エデンが答えると、男性は申し訳なさそうに眉を下げた。
「皆の視線については、私から謝らせてほしい。ただ、彼らが見ていたのは君ではなく、あの少女のほうなんだ」
「あの少女……サラのことですか?」
「ああ……」
「どうして?」
「彼女は、この辺りではあまり評判がよくなくてね」
男性は声を潜め、周囲を気にしながら続けた。
「彼女は呪われている――そんな噂があるんだ」
「呪われている……?」
「彼女に近づいた者は皆、やがてひどい死に方をするらしい」
エデンは何も答えなかった。
ただ、「呪われている」という言葉だけを、確かめるように心の中で繰り返す。
「呪われた者、か……」
その呼び名は、なぜか他人事とは思えなかった。
胸の奥に、言葉では説明できない複雑な感情が広がっていく。
「教えてくれて、ありがとうございます」
エデンは拾い集めた食材を抱えながら立ち上がった。
「覚えておきます……」
◇◇◇
アスガルドの賑やかな街並みから、喧騒が完全に消え去っていた。
代わりに聞こえてくるのは、巨大な王国の中を静かに流れる川の音。
そこには、豪華な黄金も、美しい宝石も存在しない。
ただ透き通った水と、心を落ち着かせる穏やかな静寂だけがあった。
「しっ、しっ! あっちへ行って、子猫ちゃん……!」
サラは目に見えて動揺しながら、足元にいる小さな猫を追い払おうとしていた。
しかし、猫は彼女の願いなどまるで聞こえていないかのように、じっとその顔を見つめながら近づいていく。
「こ、これ以上近づくな!」
サラは慌てて一歩後ずさった。
「ほら、さっさと家に帰れ!」
「ニャア」
猫は立ち止まらない。
むしろ返事をするように鳴き、さらに一歩サラへ近づいた。
「だから、こっちに来るなってばぁぁぁ!」
どうすればいいのか分からず、サラは完全に取り乱していた。
そんな彼女の姿を、少し離れた場所からエデンが見つめている。
両腕には、先ほど拾い集めた果物や野菜が抱えられていた。
「……これ、本当に現実か?」
引きつった笑みを浮かべながら、エデンは小さく呟く。
普段の鋭く凶暴なサラと、たった一匹の子猫を前に怯え切っている今の姿が、どうしても同一人物だとは思えなかった。
「ニャア」
猫が進む。
「く、来るな……!」
サラが退く。
猫がもう一歩進むたび、サラは焦った様子で後退していった。
だが、逃げ続けることなどできない。
「……っ!」
サラの背中が、冷たい壁にぶつかった。
もう、どこにも逃げ道はない。
それでも猫は無邪気な足取りで、少しずつ距離を縮めてくる。
「ニャア」
「行って……」
サラは壁に身を押しつけ、ぎゅっと目を閉じた。
「お願いだから、あっちへ行って……!」
◇◇◇
「よっと! 捕まえたぞ、猫さん」
突然、横から伸びてきた両手が、サラへ近づいていた猫をひょいと抱き上げた。
「まったく、悪い猫だな。こいつがあんなに怯えてるのが見えなかったのか?」
エデンは猫を自分の顔の高さまで持ち上げ、その目を真剣に見つめる。
「もう少し、人の話を聞いたほうがいいぞ」
「ニャア」
猫はまるで反省していない様子で、呑気に鳴いた。
サラは何も言えず、ただ呆然とエデンを見つめていた。
その顔に浮かんでいるのは、驚きと困惑。
なぜ彼がここにいるのか、まったく理解できていないようだった。
「大丈夫か?」
エデンは猫を抱いたまま、サラへ尋ねる。
「猫一匹をここまで怖がる奴がいるなんて、思わなかったよ」
「お前……どうしてここにいる?」
「本気で聞いてるのか?」
エデンは思わず苦笑した。
「ついさっき、あれだけ派手にぶつかったばかりだろ。お前、自分がどれだけ盛大に散らかしたか見たほうがいいぞ」
猫を片腕で抱え直すと、エデンは一度しゃがみ込み、地面に置いていた紙袋を持ち上げた。
「悪いけど、卵がいくつか衝撃に耐えられなかった。だから、少し数が減ってる」
紙袋の底には、割れた卵の染みがわずかに広がっていた。
エデンは申し訳なさそうに笑う。
「ほら」
そして、その紙袋をサラへ差し出した。
「さっきは悪かった。自分の考えに夢中になりすぎて、目の前に誰かいることにも気づかなかったんだ」
「……」
「考えてみたら、ちょっと面白いよな」
エデンは一人で納得したように頷く。
「誰かとぶつかって知り合うたびに一枚コインをもらえるなら、今ごろ俺は二枚持ってる」
「……?」
「二枚なんて大した数じゃない。でも、同じことが二度も起きるのは妙だろ?」
エデンは何がおかしいのか、楽しそうに小さく笑った。
「だからまあ……あの妙な思考から引っ張り出してくれたことには、少し感謝してる」
そして、サラへ向かって屈託なく微笑む。
「ありがとう」
「……」
サラは何も答えることができなかった。
エデンがあまりにも矢継ぎ早に話すため、言葉を挟む隙すら見つけられなかったのだ。
「それじゃ、俺の用事も済んだことだし……」
エデンは猫を抱えたまま、サラに背を向ける。
「猫さんと俺は、これで失礼するよ」
「待て!」
「ん?」
エデンは足を止め、振り返った。
「どうした?」
サラは紙袋を胸元で強く抱き締めながら、震える声で尋ねる。
「お前は……私が怖くないのか?」
「え……?」
予想もしていなかった問いに、エデンは目を瞬かせた。
「怖がったほうがいいのか?」
「……」
「もしかして、世界を滅ぼそうとしている危険な組織にでも所属してるのか?」
「えっ? い、いや……」
「なら、怖がる理由なんなんてないだろ」
エデンは、さも当然のことのように答えた。
その言葉に迷いも、偽りもなかった。
だが、サラは安心するどころか、苦しそうに俯いてしまう。
「でも……あの人たちから聞いたんだろ?」
「何を?」
「私が、本当は何者なのか……」
「まあ……一応は」
「それなのに、どうしてまだここにいる?」
紙袋を抱えるサラの指に、強く力が込められていく。
「お前は、自分の命が惜しくないのか?」
その声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
しかし、その奥に隠されていたのは――深い痛みだった。
サラは顔を上げ、エデンを睨みつける。
「お前に分かるのか……?」
鋭い瞳が、わずかに震えていた。
「呪われた者として生きることが、どういうことなのか……お前に本当に分かるのか!?」
◇◇◇
エデンは小さく息を吐いた。
そして、どこか壊れてしまったような笑みを浮かべながら、静かに答える。
「ああ……分かるよ」
「……っ」
その言葉を聞いた瞬間、サラは凍りついた。
エデンの笑顔に浮かんでいたのは、同情でも哀れみでもない。
見る者の胸まで締めつけるような、深く、癒えることのない痛みだった。
「わ、私は……すまない。怒鳴るつもりはなかった」
「いやいや、気にするなよ」
エデンは何でもないことのように笑い、軽く手を振った。
「周りの全員から『呪い』だの『悪魔』だのと呼ばれて、嫌悪と憎しみのこもった目で見られるのは……本当に怖いよな」
サラは何も言わず、エデンの言葉に耳を傾けた。
「一人の人間としての自分を奪われて、誰も本当の自分を見てくれなくなる」
エデンの声から、少しずつ笑みが消えていく。
「ただ一つの存在としてしか見られなくなるんだ。皆が恐れ、嫌うべき怪物として……」
それは、エデン自身が何度も味わってきた痛みだった。
悪魔。
化け物。
災いを招く存在。
どれほど否定しても、人々は彼の中にある力だけを見て、その奥にいる一人の少年を見ようとはしなかった。
「そのうち、全部どうでもよくなる」
エデンは猫の背中を優しく撫でながら、自嘲するように続けた。
「自分を見下してくる馬鹿どもを、片っ端から殴り飛ばしたくなるんだ」
「……」
「でも、実際にそれをやったら……結局、あいつらが正しかったと証明するだけなんだと思う」
「随分、簡単そうに言うんだな」
サラが、わずかに眉をひそめる。
「簡単なわけないだろ」
エデンは困ったように笑った。
「俺だって、何度もその一線を越えてきた。神に殴りかかろうとしたことだってあるぞ」
「神に……?」
「ああ」
エデンは思い出したのか、可笑しそうに笑い始めた。
「今考えると、よく生きてるよな、俺」
「お前……頭がおかしいだろ」
サラは呆れたように呟いた。
「それは否定できないな」
エデンは素直に認める。
そして、ほんの少しだけ遠くを見るような目をした。
「たぶん、仲間や先生たちがいなかったら……俺一人じゃ、あれだけ多くの馬鹿どもに耐えることなんてできなかった」
脳裏に浮かぶのは、いつも自分を支えてくれた者たちの顔。
何度倒れても手を差し伸べ、道を見失ったときには隣を歩いてくれた、大切な仲間たち。
「もしかしたら、あいつらの存在も……俺が今も戦い続けられている理由の一つなのかもしれない」
その告白を聞いたサラの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「お前、いい奴なんだな」
「え?」
思いがけない言葉に、エデンが目を丸くする。
「私とは違う」
サラは自らの手を見つめながら、静かに続けた。
「暴力に走るか、何もかもから離れて独りになるか……道はその二つしかないと、諦めなかった」
「……」
「自分を苦しめる怒りそのものを、前へ進む力に変えたんだ」
サラは顔を上げ、エデンの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「立派だよ、お前は」
「サラ……」
「まあ、相当頭はイカれてるけどな」
「余計な一言がなければ、素直に喜べたんだけどな……」
エデンは苦笑した。
だが、その表情は先ほどまでよりもずっと穏やかだった。
「なあ、少しだけ隣に座ってもいいか?」
「だが……」
サラは、エデンの腕に抱かれた猫へ不安そうな視線を向ける。
その反応に気づいたエデンは、温かな笑みを浮かべた。
「安心しろ。こいつがお前に触れないよう、ちゃんと押さえておくから」
「はぁ……好きにしろ」
サラは大きなため息をつきながら、隣の空いた場所を示した。
「今のため息、必要だったか?」
「百パーセント必要だった」
「そこまで言い切るか?」
二人は顔を見合わせ――同時に吹き出した。
静かな川辺に、二人の笑い声が優しく響いていく。
ほんのわずかな間だけ、彼らを取り巻く世界のすべてが消え去ったようだった。
残ったのは、隣り合って座る二人だけ。
互いの胸に抱えていた苦しみを分け合うことで、それまで重くのしかかっていたものが、ほんの少しだけ軽くなっていく。
二人が歩んできた道は違う。
背負っている呪いも、心に刻まれた傷も、決して同じではない。
それでも――。
一人の人間としてではなく、恐れるべき怪物として見られる痛みだけは、誰よりも深く理解し合うことができた。
それは二人にとって、初めての出会いだった。
同じ過去を持たず、同じ呪いを背負っていなくても、自分の痛みを分かってくれる誰かとの出会い。
ほんの一瞬にすぎなかったのかもしれない。
それでも、そのひとときは二人に思い出させてくれた。
――自分はもう、独りではないのだと。




