第20章・1:義務を背負った願い
ガキンッ! ガキンッ!
ヒュンッ! ヒュンッ!
刃の応酬はあまりにも速く、常人の目では、その軌跡を追うことすら叶わない。
剣と剣がぶつかるたび、重く鋭い轟音が辺り一帯に響き渡る。
二人の動きは恐ろしいほど滑らかで、まるで一分の狂いもなく振り付けられた舞を踊っているかのようだった。
エデンの研ぎ澄まされた表情は、構えた剣の刃の向こうに隠れている。
そして、その正面で剣を構えているのは、彼に勝るとも劣らぬ――いや、それ以上の集中を見せるシュウだった。
ガキィン――ドォンッ!
互いの剣が、凄まじい勢いで正面から激突する。
その衝撃に大地が震え、大気が悲鳴を上げた。
「悪くないぞ、エデン」
シュウが小さく笑う。
「そっちこそな、シュウ」
エデンもまた、不敵な笑みを返した。
シュウは軽く一歩後ろへ退くと、剣の握りを滑らかに変えた。
次の瞬間、鋭い斬撃が閃き、エデンの胸元に浅い一線が走る。
「くっ……!」
エデンはたたらを踏み、数歩後退した。
「これは力比べじゃない、エデン」
シュウは油断なく剣先を向けたまま告げる。
「レイの剣技は、俺たち二人より遥かに上だ。ほんの一瞬でも気を抜けば、その隙を突かれて守りを貫かれるぞ」
「……ああ」
エデンは胸元から流れる血を手の甲で拭った。
「止めるか?」
「いや。頼む、もう少しだけ続けよう」
「――言ったな!」
シュウが地面を蹴り、再びエデンへと迫った。
ガキンッ! キィンッ! ヒュンッ!
二人の剣戟は、先ほど以上の速さへと加速していく。
だが、時が経つにつれ、シュウの刃は一歩、また一歩とエデンを追い詰めていった。
◇◇◇
少し離れた場所では、いまだ全身を包帯で覆い、松葉杖に体を預けたイサクが、アフロディーテと並んで二人の模擬戦を見守っていた。
(エデンは、新しい戦い方を見つけたみたいね)
愛の女神は、繰り広げられる剣戟を注意深く観察する。
(うまく言葉にはできないけれど……荒々しい戦い方はそのままなのに、もう何も考えず突っ込んではいない)
以前までのエデンならば、己の力と勢いだけを頼りに、正面から敵を打ち砕こうとしていただろう。
だが、今は違う。
(一撃ごとに、シュウのリズムを崩そうとしている……)
ただ剣を振るっているのではない。
相手の呼吸を読み、体勢を崩し、その均衡に亀裂を入れようとしている。
(悪くない答えね。でも――レイほど相手を観察する剣士に、いったいどう対処するつもり?)
隣に立つイサクは、何も言わずに戦いを見つめていた。
その瞳には、自らの敗北に対する怒りと悔しさが、いまだ色濃く滲んでいる。
しかし次の瞬間、イサクの表情が変わった。
(あれは……?)
エデンのゼンカが、凄まじい速度で左拳へと流れ込み、一点に収束していく。
ドンッ!
「うおおおおっ!」
エデンは強烈な左フックを、シュウの剣めがけて叩き込んだ。
だが、シュウも瞬時に反応する。
剣をわずかに傾け、全身を使って衝撃を受け流し、その凄まじい威力を殺してみせた。
(なんて力だ……!)
衝撃を受け止めたシュウの両手が、小刻みに震えていた。
(だが――)
シュウの瞳が鋭く光る。
「遅すぎる!」
剣を素早く返すと、その峰をエデンの体へ容赦なく叩き込んだ。
ドゴッ――バタンッ!
シュウの一撃をまともに受けたエデンは、なすすべなく地面へ叩き伏せられていた。
「くそ……負けた……」
荒い呼吸を繰り返しながら、エデンが悔しそうに呟く。
「悪くはなかったぞ」
シュウはそう評価し、倒れたエデンへ手を差し伸べた。
「ただ、最後の一撃は遅かった。それに、あまりにも読みやすい」
「もう少し言葉に慈悲を持ってくれないか……?」
エデンは苦い顔をしながら、その手を掴んだ。
「悪い、悪い」
「二人とも、よくやったわね」
二人のもとへ歩み寄ってきたアフロディーテが、穏やかな笑みを浮かべる。
「ありがとうございます!」
エデンとシュウの声が、綺麗に重なった。
「エデン」
「はい?」
「今の最後の一撃が、あなたの探していた答えなの?」
「そんなところです……ただ、まだ暫定的な答えですが」
「暫定的?」
「はい。これで、失敗した仮説は千六百七十八個目になります」
「「「千六百七十八……?」」」
その場にいた全員が、言葉を失った。
試行回数そのものも異常だったが、それを一つ残らず正確に数えていることが、何よりも恐ろしかった。
「ヘラから俺の力について説明を受けてから、レイに勝つための方法を何通りも試してきました」
エデンは自らの左拳を見つめながら、静かに語り続ける。
「試すたびに答えへ近づいている気はします。でも……間に合うかどうかは分かりません」
拳を握り締める。
「ヘラは進むべき道を示してくれた。なのに俺は、まだその道を一歩も進めていない……」
「エデン……あなた、最後に眠ったのはいつ?」
アフロディーテの問いに、エデンはしばらく考え込んだ。
「さあ……覚えていません」
その顔には疲労が色濃く滲み、瞳は暗く淀んでいる。
それでも、エデンは確信に満ちた声で言い切った。
「でも、もうすぐ掴めます。絶対に」
そして、再び剣を構える。
「だからシュウ、頼む。続きをやろう」
「でも……」
「駄目よ、エデン。今は休みなさい」
アフロディーテが、普段よりも強い口調で制止する。
「試合はもう目前なのよ。疲れ切った状態で本番を迎えるなんて、あなたも望んでいないでしょう?」
「すみません、先生。でも……これ以上、時間を無駄にはできません」
エデンは俯き、歯を食いしばった。
「無駄にしてはいけないんです」
「エデン……」
「俺が負けたら、すべてが終わる」
その声には、焦りだけではない。
恐怖にも似た、異様な執念が宿っていた。
「手遅れになる前に……何としても、方法を見つけないと……」
ゴツンッ!
「痛っ!?」
突然、イサクが松葉杖でエデンの後頭部を小突いた。
「何するんだよ、イサク!」
「考えすぎだ、エデン。今は休め」
イサクは松葉杖に体を預けながらも、真剣な眼差しをエデンへ向けていた。
「お前はもう、十分すぎるほど鍛えた」
「お前まで言うのか? 俺たちがお前の納得するまで、ずっと付き合ったことを忘れたのか?」
「――それでも、俺は負けた」
「……」
イサクの静かな一言が、その場の空気を凍りつかせた。
「イサク……」
エデンが、呆然とその名を呟いた。
「この前、俺のために力を貸してくれたことには、一生感謝するつもりだ」
イサクは松葉杖に体を預けたまま、静かに続ける。
「だけど、お前には俺と同じようになってほしくないんだ、エデン」
全身に巻かれた包帯へ視線を落とし、自嘲するように笑った。
「俺は自分の体を、限界なんてとっくに越えたところまで酷使した。その結果がこれだ。まともに立つことすらできない……本当に情けないよ」
「イサク……」
「お前と俺が似ているからといって、同じ道を歩まなきゃいけないわけじゃない」
イサクは、エデンを安心させるように小さく笑う。
「お前なら答えを見つけられる。今までも、ずっとそうしてきただろ?」
その言葉には、一片の疑いもなかった。
「でも、試合が始まる前から立っていられなくなったら、これまで積み重ねてきた努力が全部無駄になる」
「イサクの言うとおりだ」
今度はシュウが、二人の会話に割って入った。
「今、お前が背負っているものがどれほど重いのかは分かる。だけど、このままじゃレイの前に立つより先に、お前自身が潰れるぞ」
エデンは両拳を固く握り締めた。
二人が自分を責めるためではなく、心の底から心配して言っているのだと理解していたからこそ、言い返すことができなかった。
「過去を考えるなとは言わない」
シュウはエデンの瞳を真っ直ぐ見つめる。
「でも、『もしあのとき、違う選択をしていたら』なんて考えるのは、もうやめろ」
「……」
「自分が本当は何者なのか。それだけは忘れずに、未来へ進め」
シュウは穏やかに微笑み、拳を差し出した。
「残る二戦は、俺たち全員の力を合わせて戦おう。な?」
「二戦……?」
エデンが首を傾げる。
「ああ。だって、お前が勝つことは分かっているからな、相棒」
そう言って、シュウはエデンの肩を軽く小突いた。
「絶対に俺の仇を取れよ、エデン」
イサクもまた、小さな笑みを浮かべる。
「それで考えすぎるなって……さすがに無理がないか?」
エデンが苦笑すると、三人の間に柔らかな笑い声が広がった。
(この子たちは、見た目なんかよりずっと強い)
その光景を見守りながら、アフロディーテは静かに思う。
(普通なら心を壊されてもおかしくない出来事を、何度も乗り越えてきた。それだけじゃない……自分たちを苦しめてきた恐怖そのものから、前へ進む力を見つけ出している)
傷つき、迷い、何度も倒れながら、それでも彼らは立ち上がる。
(いつか、その才能を余すことなく解き放つ日が来たら……きっと、もう誰にも止められない)
アフロディーテの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
(とんでもない怪物たちになるでしょうね……)
「エデン」
アフロディーテが、突然その名を呼んだ。
「はい?」
「教師として、これだけは絶対命令よ。今日はもう休みなさい」
「でも……」
「命令よ」
アフロディーテは、有無を言わせぬ口調で繰り返した。
「訓練も禁止。調べ物も禁止。ただ目的もなく街を歩いて、頭を空っぽにしてきなさい」
「先生……」
「お願いだから」
その声からは厳しさが消え、代わりに純粋な心配だけが滲んでいた。
「……分かりました」
「そうだ。せっかく街へ行くなら、俺からも一つ重要な任務を与えよう」
シュウが、何かを企んでいるような笑みを浮かべた。
「なんだ?」
「今夜の宴に必要な食材を、買ってきてくれないか?」
「……本気で言ってるのか?」
「極めて重要な任務だ」
シュウは大真面目な顔で言い切った。
「お前が買い物に行きたくないだけだろ?」
「そんなに分かりやすかったか?」
「はぁ……分かったよ。その重要任務とやら、引き受けてやる」
エデンは深いため息をつきながら答えた。
「頼んだぞ、英雄エデン」
「だから俺は英雄じゃないって!」
「はいはい」
◇◇◇
大会を目前に控えたアスガルドの街は、無数の旗や横断幕で飾られ、普段とは異なる特別な輝きを放っていた。
街の至るところが赤と白に染まり、掲げられた旗の一枚一枚には、次の試合に出場するレイの顔が大きく描かれている。
(気分転換のために街へ来たはずなのに……)
エデンは、頭上ではためくレイの旗を見上げた。
(これだけあいつの顔が並んでいたら、試合のことなんて忘れられるわけがないだろ……)
どこへ目を向けても、そこには次なる対戦相手の姿がある。
まるでこの街そのものが、迫り来る決戦から逃げることを許してくれないかのようだった。
(みんなが俺を心配してくれたことは分かってる。でも……本当に、これが正しい答えだったのか?)
(相手が今この瞬間にも強くなり、さらに手強くなっているかもしれないのに……俺だけが、こんなところで時間を無駄にしていていいのか?)
歩みを進めながら、エデンの意識はさらに深く沈んでいく。
(それでも、一つだけ……どうしても引っかかる)
(俺はなぜ、ここまでこの大会にこだわっているんだ?)
自らの心へ問いかけても、返事はない。
(もっと強くなりたいから?)
(自分の価値を証明したいから?)
(それとも……俺を信じてくれている人たちを、失望させたくないから?)
エデンは、腰に差した剣の柄へそっと触れた。
(ここへ来たばかりの頃は、剣を握ることさえまともにできなかった)
(それを考えれば、俺はもう十分に成長したはずだ。ここまで来られたことに、満足してもいいんじゃないか?)
それでも、心は決して満たされない。
立ち止まることを拒むように、飢えにも似た衝動が彼を前へと駆り立て続けていた。
(これは、俺の野心の表れなのか?)
(それとも……自分では足りないという恐怖の表れなのか?)
答えを探せば探すほど、疑問だけが増えていく。
(すべてが終わったあと、俺が今築いているこの絆に、どんな意味が残る?)
(俺は本当に、あいつらを友達だと思っているのか?)
(それとも、また独りになるのが怖いから……必死にしがみついているだけなのか?)
胸の奥に生まれた疑念は、次第に鋭い刃となって自らの心を切り裂いていく。
(あるいは――)
(自分にはできないことを成し遂げる力を、俺はあいつらの中に見ているだけなのか?)
(いつか必ず彼らが必要になると分かっているから、そばにいるだけなのか……?)
…………。
答えは、どこにもなかった。
問いかける声だけが、暗い心の中でいつまでも反響している。
(答えのないことばかりだ)
(それでも……今の俺にとって大切なのは、一つだけ)
(――勝つことだ)
エデンは足を止め、店先のショーウインドウに映った自分の姿を見つめた。
その瞬間――。
鏡のようなガラスが、水面のようにゆらりと波打った。
「……?」
映っていたはずのエデンの姿から、黒く濃密な影が滲み出す。
それは人の形ではなかった。
悪魔の姿ですらない。
輪郭さえ存在しない、ただの漆黒の靄。
その闇の中に、刃のように鋭い二つの白い瞳だけが浮かんでいた。
何の感情も感じさせないその目は、ガラスの向こうからエデンだけを見据えている。
(手段なんて、どうでもいい)
影の瞳と、エデンの瞳が重なった。
(俺は勝つ)
(みんなのためだけじゃない。俺自身のために勝つんだ)
黒い影が、呼吸するかのように大きく膨れ上がる。
(たとえ、そのために怪物へ成り果てるとしても――)
(俺は、必ず勝つ)
エデンは何かに導かれるように、その異形の鏡像へ手を伸ばした。
指先が鏡面へ触れる。
しかし、そこに固いガラスの感触はなかった。
指が、手が、腕が――底のない闇へとゆっくり沈んでいく。
(たとえ――)
(彼らがあれほど恐れている悪魔に、この俺自身がなるとしても)
エデンの体が、鏡の中へ引き込まれていく。
だが、そのすべてが闇へ沈み切る寸前――。
ドンッ――バタッ!
突然の衝撃が、エデンの意識を現実へと引き戻した。
「いてて……」
地面に尻もちをついたエデンは、痛む頭を押さえる。
(なんだろう……この状況、前にもあったような……)
奇妙な既視感を覚えながら、ゆっくりと目を開いた。
「大丈夫か……?」
そして、自分とぶつかった相手へ手を差し出そうとする。
「お前は……」
エデンの動きが止まった。
目の前にいたのは、鋭く、獣のように険しい眼差しを持つ一人の少女。
そして、エデンと同じように――その人生を深い不幸によって刻まれた少女だった。
「サラ……?」
【続く】




