第19章・4:見えているのに、理解できないもの
ヘルヘイムを覆っていた霧も、骨まで凍らせる冷気も、すでに消え去っていた。
北欧の冥界で交わされた出会いのあとに残ったものは、ただ一つ。
一人の少年の胸に渦巻く、数多くの思いだけだった。
自らの弱さを知り、それでも答えを求めて歩き続ける少年――エデン。
その隣では、バルドルが何も語らず、横目で彼の様子を見守っていた。
長い沈黙を破ったのは、ほんの一言だった。
「ありがとう、バルドル」
エデンが静かに告げる。
「礼を言う必要はない」
バルドルは穏やかに答えた。
「私は何もしていないからな」
「いや」
エデンは、すぐにその言葉を否定する。
「俺たちは敵同士なのに、お前は助けようとしてくれた」
「それだけで、お前がどんな人間なのか分かるよ」
「君は本当に、私たちを敵だと思っているのか?」
バルドルが問い返した。
「……え?」
「私たちは敵ではない」
彼は、はっきりと否定する。
「今はただのライバルだ」
「確かに、私たちは互いに戦っている」
「だが、それは双方が同じ目的を追い求めているからこそだ」
バルドルは、真っ直ぐ前を見つめながら続ける。
「そして、すべてが終われば――」
「私たちはもうライバルではない」
「友人になれる」
「…………」
エデンは驚いたように、北欧の神の横顔を見つめた。
「友達……か」
その口元へ、小さな笑みが浮かぶ。
「悪くない考えだ」
「でも、こんなにも残酷な世界で……本当にそんなことが可能なのか?」
「エデン……」
「もし、誰もがお前のように考えられたなら、この世界はもっと良い場所になっていたのかもしれない」
しかし、エデンは寂しそうに目を伏せた。
「だが、それが不可能だということを……俺は嫌というほど早く思い知らされた」
「…………」
バルドルは、俯く少年の横顔を静かに見つめる。
「君は、私の古い友人によく似ている」
「古い友人?」
「ああ」
バルドルの瞳に、遠い過去の記憶が映り込む。
「彼も、この世界を変えることなど不可能だと思っていた」
「それでも、変えようとすることを決して諦めなかった」
「来る日も来る日も、この世界を少しでも良い場所にしようと足掻き続けた」
「叶うはずのない夢だと、彼自身も分かっていたはずだ」
「それでも、歩みを止めることはなかった」
そして、かつて友から告げられた言葉を、静かに口にする。
「彼は一度、私にこう言った」
「『夢を見ることができるのなら、どうしてその夢を現実へ変えられないと思うんだ?』――とな」
「…………」
「だが――」
バルドルの表情へ、苦い笑みが浮かんだ。
「彼が世界を明るく照らそうとすればするほど、その眼差しからは光が失われていった」
「壊れた世界を一つに繋ぎ合わせようとするたびに……」
その声が、僅かに震える。
「彼自身の世界は、さらに細かく砕けていった」
エデンは何も言わず、あれほど眩しく見えた神の後悔へ耳を傾けていた。
「そして、私がようやく異変に気づいたときには……」
バルドルは、強く拳を握り締める。
「彼はすでに、暗闇に呑み込まれていた」
「毎晩、考えるんだ」
「彼が孤独という奈落へ落ちてしまう前に、私が手を差し伸べていたなら――」
「何か一つでも、違っていたのではないかと」
そして、自らへ問いかけるように呟いた。
「すべてを失ってまで、この世界を良い場所へ変えることに、本当に意味があるのか」
「たとえ最後には、自分自身さえ失うことになろうとも……」
「…………」
エデンはユグドラシルの内壁へ背中を預けた。
そして、かつて友人から告げられた言葉を思い出しながら口を開く。
「お前や、その人が別の道を選んでいたら、何かが変わっていたのか……俺には分からない」
「だが、一つだけ確かなことがある」
エデンは、バルドルを真っ直ぐに見つめた。
「今のお前が、どんな人間なのか」
「そして、自分が信じるもののために、今も戦い続けているということだ」
「…………」
バルドルは、その言葉を聞いたまま何も答えられなかった。
「過去に持っていたものを、守れなかったのかもしれない」
エデンは続ける。
「それでも、今お前の手の中にあるものなら、きっと守ることができる」
「お前は、苦しいからといって諦めるような男には見えない」
そして、僅かに微笑んだ。
「だから――戦え、バルドル」
「……!」
その言葉を受け、バルドルの顔にも微かな笑みが浮かんだ。
「ありがとう、エデン」
「礼を言う必要はない」
エデンは、悪戯っぽく笑う。
「俺は何もしていないからな」
「…………」
自分が先ほど口にした言葉をそのまま返され、バルドルは堪えきれずに笑い出した。
「ハハッ……本当に、君という少年は……」
「バルドル」
エデンが、改めて真剣な声で呼びかける。
「一つ、頼みがある」
「何だ?」
「俺の試合から、一瞬たりとも目を逸らさないでくれ」
その瞳へ、確かな決意が宿る。
「必ず勝つと約束する」
「ああ」
バルドルも、力強く拳を差し出した。
「任せてくれ」
ゴツンッ!
二人の拳が、力強くぶつかり合う。
そして、どちらからともなく笑みを浮かべた。
◇◇◇
幾つもの時間が過ぎ、太陽はすでにアスガルドの地平線へと沈んでいた。
その役目を引き継ぐように、夜空には月と無数の星々が浮かんでいる。
王国の最も高い場所――
ヴァラスキャールヴに置かれた玉座には、万物の父であるオーディンが腰を下ろしていた。
そこは、純銀によって覆われた壮麗な大広間。
オーディンが九つの世界すべてを見渡すことのできる、神聖なる場所だった。
そのとき、一人の兵士が広間へ入ってきた。
彼は玉座の前まで進むと、片膝をついて深く頭を下げる。
「失礼いたします、万物の父よ」
「何事だ?」
「アカイア使節団の者たちが、本日行った行動についてご報告に参りました」
「何か不審な動きはあったか?」
「特にございません」
兵士はそう答えたものの、僅かに言葉を濁した。
「ただ、一つだけ、ご相談したい件がございます」
「何だ?」
「本日、バルドル様とGODSの生徒エデン・ヨミが、ユグドラシルを通じてヘルヘイムへ入りました」
「ヘルヘイムへ?」
オーディンの片眉が僅かに動く。
「はい」
兵士は緊張した面持ちで報告を続けた。
「ヘイムダル様の許可を得て、死者の国へ移動したとのことです」
「つきましては、万物の父より下された直接の命令へ背いた守護神に、処罰を与えるべきかと存じます」
「その必要はない」
「……え?」
予想外の返答に、兵士が顔を上げた。
「ですが――」
「少年は単独でヘルヘイムへ向かったわけではない」
オーディンは、淡々と説明する。
「バルドルが同行していたということは、この件を提案したのもバルドルだろう」
「つまり、ヘイムダルは私の息子から頼まれ、門を開いたにすぎない」
「ならば、私の命令に対する明確な反逆とは見なさぬ」
「しかし、それでも……」
「お前は――」
オーディンの片眼が、兵士を鋭く射抜いた。
「私の息子が持つ権威へ、疑問を呈するつもりか?」
「い、いえ! 滅相もございません、万物の父よ……」
兵士は慌てて視線を伏せる。
「ほかに報告すべきことはあるか?」
「……ございません」
◇◇◇
「うわあああああああああッ!!」
「……!」
会話が終わるよりも早く、凄まじい悲鳴がアスガルドの宮殿全体を震わせた。
「バルドル……!」
オーディンは玉座から勢いよく立ち上がり、声のした場所へ向かって必死に駆け出す。
そして、辿り着いた部屋では――
一人の神が、寝台の上に座り込んでいた。
「はぁ……はぁ……!」
全身を激しく震わせ、呼吸は大きく乱れている。
瞳孔は限界まで開き、その眼差しには深い恐怖が刻まれていた。
――バルドル。
「…………」
オーディンは、心配そうに息子を見つめる。
その両眼に宿っていたのは、普段の冷静で理知的なバルドルからは想像もできないほどの恐怖だった。
「息子よ……」
「何があったの、バルドル?」
寝台の傍らにいたフリッグが、息子の手を優しく握る。
【フリッグ――結婚と家庭を司る女神】
「また……見えたんだ……」
バルドルは、震える声で呟いた。
「見えた?」
フリッグが眉をひそめる。
「何を見たというの?」
「私の……死だ」
「……!」
その告白を耳にした瞬間、部屋にいた全員が凍りついた。
だが、オーディンを最も不安にさせたのは、息子の言葉に一切の迷いがなかったことだった。
まるで、その一言によって――
これまで欠けていた謎の断片が、初めて一つに繋がったかのように。
「し、死……?」
フリッグが信じられない様子で聞き返す。
「ああ……確かに見た」
バルドルは、震えながらも断言した。
「だが、今回は今までとは違っていた……」
「命を失い、地面に横たわる自分自身の身体が見えたんだ」
「その先には何もなかった」
「ただ、冷たく恐ろしい虚無だけが広がっていた……」
「誰に殺された!?」
オーディンは息子の両肩を強く掴む。
「どのようにしてだ!?」
「分からない……」
「分からないでは駄目だ!」
オーディンの声に、焦燥が滲む。
「お前なら、何か見えたはずだ!」
「あなた!」
フリッグは、怒りに満ちた眼差しを夫へ向けた。
「今、この子を問い詰めるべきではないでしょう!」
「……す、すまない」
オーディンは我に返り、ゆっくりと手を離した。
そして、可能な限り穏やかな声で問い直す。
「その悪夢について……もう少し詳しく話せるか?」
「…………」
バルドルは荒い呼吸を整えながら、記憶を辿った。
「私が去ると同時に、花々が次々と枯れていくのが見えた」
「深紅の涙を流す、一匹の蛇も……」
その瞳に、再び恐怖が浮かび上がる。
「そして、痛みと喪失の中から生まれる――新たな世界を見た」
「恐ろしかった……」
バルドルは、自らの身体を抱き締める。
「あの亡霊のような冷気が、身体の隅々まで這い回る感覚を……今も覚えている」
「心配する必要はない、息子よ」
オーディンが、強い声で告げた。
「父上……」
「私は、決してその未来を現実にはさせない」
オーディンは、息子の前で固く拳を握り締める。
「どれほどの代償を支払おうとも――」
「何者にも、お前の髪一本すら触れさせはしない」
そして、揺るぎない決意を込めて誓った。
「お前の未来と、神々の未来に懸けて――」
「私は必ず、お前を守る」




