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第19章・3:薄闇に灯る小さな光

「うわあああああああああッ!!」


 エデンは両目を固く閉じたまま、絶叫し続けていた。


     ◇◇◇


「…………?」


 しかし、恐る恐る目を開いた瞬間、その表情が一変する。


 先ほどまで顔を覆っていた恐怖は消え、代わりに深い困惑が浮かんだ。


「何だ……?」


 エデンは、自分の身体と周囲の光景を交互に見回す。


「俺……まだ生きているのか……?」


「ハハハハハハハハハッ!」


 その反応を見たバルドルが、堪えきれずに笑い出した。


「何だ、今の反応は!」


 腹を抱え、涙まで流しながら尋ねる。


「このクソ野郎!」


 エデンが怒鳴りつけた。


「すまない、すまない」


 バルドルは、笑い涙を指先で拭う。


「最初から落下などしていなかったと知ったとき、君がどんな反応をするのか見てみたかったんだ」


「俺は、お前みたいな奴が大嫌いだ……」


 エデンは怒りに顔を引き攣らせる。


 しかし、バルドルは数秒前に彼が浮かべていた間抜けな表情を思い出し、再び笑い始めた。


「ハハハハハッ!」


「……殺すぞ」


 エデンが、低い声で脅した。


(完全に騙された……)


 彼は不機嫌そうに、改めて周囲を見回す。


(まさか、世界樹の内部にエレベーターのようなものがあるなんて……)


 二人が立っていたのは、暗い空間を静かに移動する巨大な円形の足場だった。


「ここは、いったい何なんだ?」


「ユグドラシルの内部だ」


 バルドルが説明する。


「ほかの世界へ移動するための、最も速い経路の一つでもある」


「そういえば……」


 エデンは、以前から抱いていた疑問を口にした。


「その『世界』というのは、どういう意味なんだ?」


「ユグドラシルに存在する主要な王国へ、私たちが与えた呼び名だ」


 バルドルは、遥か上方へ伸びる内部空間を見上げる。


「世界とは呼んでいるが、実際にはすべて、この樹を通じて繋がっている」


「アスガルド、ミッドガルド、アルフヘイム、ヨトゥンヘイム――」


「すべてが、同じ世界樹の下に存在しているんだ」


 だが、その表情に僅かな寂しさが浮かぶ。


「そこに暮らす者たちは……同じようには繋がっていないがな」


「バルドル……」


 エデンが、心配そうにその名を呼ぶ。


「それに!」


 しかし、バルドルは突然、何事もなかったかのように明るい笑顔を見せた。


「『王国』と呼ぶだけでは、あまり壮大に聞こえないだろう?」


「だから、『世界』と呼ぼうと提案したのは私なんだ」


 満面の笑みを浮かべ、得意げに胸を張る。


「格好いいと思わないか?」


「お前、馬鹿なのか?」


 エデンは真顔で問いかけた。


「ひどいな……」


 バルドルは傷ついたように俯いた。


「ところで――」


 エデンは、移動し続ける足場へ視線を落とす。


「これが世界を移動する方法なら、どうしてあの馬鹿の力が必要だったんだ?」


「見た目だけなら、非常に単純な仕組みに思えるだろう」


 バルドルは、再び真剣な表情へ戻った。


「だが、進み方を知らずにユグドラシルへ入れば、その無数の根の中で永遠に迷うことになる」


「そして、運が良くても――迷った末に死ぬ」


「…………」


「ヘイムダルは、この世界樹の道筋を知る数少ない存在の一人だ」


「だからこそ、私たちを望んだ場所へ直接送り届けることができる」


「さっき、あいつが樹へ触れていたのも、そのためか?」


「ああ」


 バルドルは頷いた。


「父上は、ヘイムダルへ《導きの加護》を授けた」


「その力によって、彼はユグドラシルに存在するすべての道を把握できる」


「この場所の仕組みを本当の意味で理解している、数少ない者なんだ」


「なるほど……」


 エデンは、暗闇の中に無数に伸びる道を観察した。


「一見すると単純な仕組みにしか見えない」


「だが、その単純さこそが、完璧な防御になっているのか……」


「そのとおりだ」


 バルドルは満足そうに答える。


「敵が侵入したとしても、そこからアスガルドへ辿り着ける可能性は極めて低い」


「だが、決してゼロではない」


「偶然に正しい道を選ぶ者が現れるかもしれない」


「あるいは、知略だけで道を解き明かす者が現れる可能性もある」


「だからこそ、アスガルドを囲むあの巨大な城壁が造られたんだ」


 ガクンッ!!


「うおっ……!」


 突然、二人を乗せた足場が激しく揺れ、急停止した。


「どうやら、到着したようだ」


 バルドルが、正面へ視線を向ける。


「ここなのか?」


 エデンの視線の先には、不気味な緑色の扉が立っていた。


「そのはずだ」


 バルドルが答える。


「……そのはず?」


 エデンは疑わしそうに彼を見つめた。


「こういうことに詳しいんじゃなかったのか?」


「まあ、落ち着け」


 バルドルは自信満々に微笑む。


「私の勘を信じられないのか?」


「信頼度は、0%だ」


「本当にひどいな……」


     ◇◇◇



 バルドルが緑色の扉を開いた瞬間――


 凍てつく突風が、二人の全身へ容赦なく吹きつけた。


 それは皮膚を刺すだけではない。


 骨の髄まで凍らせるかのような、死の冷気だった。


「さ、寒いッ!」


 エデンは身体を震わせ、両腕で自分自身を抱き締める。


「行くぞ、エデン」


「は、はい……」


 二人は扉を潜り、その先にある世界へ足を踏み入れた。


 そこに広がっていたのは、エデンがこれまで目にしてきたどの景色とも異なる光景だった。


 眼前に果てしなく続くのは、濃い霧に覆われた凍てつく平原。


 氷と暗闇だけで形作られた砂漠のように、どこまでも終わりなく広がっている。


 谷間や平原からは、亡霊を思わせる緑色の氷柱が無数に突き出していた。


 その内部には、まるで死者たちの魂が封じ込められているかのようだった。


 さらに遠方には、静かに流れるギョッル川。


 しかし、その水面は一切揺らぐことなく完全に静止している。


 まるで、この場所にだけ時間という概念が存在しないかのように――


(この場所……恐ろしくない)


 エデンは、胸の奥に広がる奇妙な感覚へ戸惑った。


(むしろ……不思議なくらい温かい)


 だが、その穏やかな感覚は一瞬で消え去った。


 ドゴォン――バキバキバキッ!!


「……!?」


 ヘルヘイムの大地が、凄まじい勢いで揺れ動いた。


 衝撃によって大量の霜が舞い上がり、白い壁となって二人の視界を覆う。


 エデンとバルドルは、揺れの発生源へ同時に顔を向けた。


 そして――


 霜の向こう側に現れた存在を目にし、エデンは息を呑む。


 そこに聳え立っていたのは、漆黒の毛皮に覆われた巨大な狼だった。


 血のように赤い双眸は、どれほど勇敢な戦士であろうとも、その心を射抜き、恐怖で縛りつける。


 口元から覗く鋭い牙には、山一つすら容易く噛み砕けるほどの力が宿っているように見えた。


「許しもなく、この領域へ足を踏み入れたのは何者だ!」


 巨大な狼の咆哮が、凍てついた平原を激しく震わせる。


(喋った……!?)


 エデンは恐怖に目を見開いた。


 狼の赤い瞳が、ゆっくりとバルドルへ向けられる。


 しかし、当のバルドルは、その圧倒的な威容を前にしても一切動じることなく、静かに立っていた。


(こいつを……殺さないと)


 エデンは反射的に剣の柄へ手を伸ばし、その刃を鞘から引き抜く。


     ◇◇◇


「バルドル!」


「……え?」


 巨大な狼は、突然嬉しそうな笑みを浮かべた。


「久しぶりだな、ガルム」


 バルドルも、旧友と再会したかのように穏やかに挨拶を返す。


(知り合いなのか!?)


「来るのなら、なぜ先に知らせてくれなかった?」


 ガルムは、どこか残念そうに尋ねた。


「それなら、相応しい歓迎を用意していたというのに」


「気にするな。今日は少し立ち寄っただけだ」


 バルドルは、周囲へ視線を巡らせる。


「彼女はここにいるか?」


「ああ」


 ガルムは頷いたものの、すぐに困ったような表情を浮かべた。


「だが、おそらくお前には会いたくないと思うぞ……」


「それなら、驚かせてやろう!」


 バルドルが、満面の笑みで答える。


「…………」


(俺は今、何を見せられているんだ?)


 エデンは呆然と、二人のやり取りを見つめていた。


(さっきまであれほど恐ろしかった狼が、どうして急にこんなに大人しくなった……?)


「そうだ、ガルム」


 バルドルは、戸惑い続ける少年へ片手を向ける。


「この少年を紹介しよう」


「彼の名は、エデンだ」


「…………」


 ガルムは、赤い瞳でエデンの両眼を真っ直ぐに見つめた。


 そして次の瞬間、巨大な頭を深く下げ、敬意を示す。


「お会いできて光栄だ、小さき人間よ」


「我が名は、ガルム」


「こ、こちらこそ……」


 エデンも慌てて頭を下げた。


(ますます状況が分からなくなってきた……)


 その顔には、困惑した笑みが浮かんでいた。


「それでは、我らが女王の居城までご案内しよう」


「頼んだぞ、ガルム」


 巨大な狼は二人へ背を向けると、凍てついた平原を進み始めた。


 その後ろを、バルドルとエデンが並んで追いかける。


「なあ、バルドル」


 エデンは声を潜め、隣を歩く神へ問いかけた。


「本当に大丈夫なのか?」


「何が心配なんだ?」


「ガルムは、その人がお前に会いたくないかもしれないと言っていただろ?」


「別の日にしたほうがいいんじゃないか?」


「君の試合は明日だったはずだ」


 バルドルは、平然と問い返す。


「それでも構わないのか?」


「それは、そうだけど……」


「心配するな」


 バルドルは、爽やかな笑顔を浮かべた。


「最悪の場合でも、少し酷い目に遭うだけだ」


「…………」


(その言葉を聞いても、まったく安心できない……)


 エデンは、引き攣った笑みを浮かべながら歩き続けた。


     ◇◇◇



 シュッ!


「……!」


 次の瞬間、冷たく鋭い短剣の刃が、バルドルの首筋へ押し当てられていた。


 その光景を目にしたエデンの顔が、恐怖で強張る。


「これは、どういうことだ――ガルム!」


 血の気を感じさせないほど青白い肌を持つ女が、鋭い声で問い詰めた。


「陛下……」


 ガルムは申し訳なさそうに頭を下げる。


「神々には誰一人として会いたくないと、あれほど言ったはずだ!」


 女の怒りに満ちた視線が、バルドルへ突き刺さる。


「ましてや――こいつだけは絶対に通すなと!」


「仰るとおりです。しかし、バルドルがどうしても陛下へお会いしたいと……」


「やあ、ヘラ」


 首元へ刃を突きつけられたまま、バルドルは気まずそうに微笑んだ。


「私も君に会えて嬉しいよ」


「黙れ」


【ヘラ――北欧の冥界・ヘルヘイムを統べる女王】


「私の命令を無視するのなら、何のためにお前をこの地の番人にしているのか分からないな……」


 ヘラは、呆れ果てたように深いため息を吐いた。


「まあまあ、ヘラ」


 バルドルは、短剣を突きつけられているとは思えないほど穏やかに話しかける。


「追い出す前に、せめて話くらい聞いてくれないか?」


「お前の口から聞きたいことなど何一つない、この忌々しい男め」


 そして、バルドルから一瞬も目を離さないまま告げる。


「それから、そこの人間」


「私が想像していることを実行しようとしているのなら、やめておけ」


「……!」


 剣へ手を伸ばしかけていたエデンは、その場で動きを止めた。


 そして、ゆっくりと剣を鞘へ戻す。


(こっちを一度も見ていないのに……どうして分かった?)


「ほらな?」


 バルドルが、どこか得意げにエデンへ視線を向けた。


「彼女なら私たちの力になってくれると言っただろう?」


「今は冗談を言っている場合じゃないと思うぞ、バルドル」


 エデンは、引き攣った表情で答えた。


「無断で私の居城へ侵入しただけでは飽き足らず……」


 ヘラの声へ、さらなる怒りが込められる。


「私の国へ悪魔まで連れ込むとは、恥というものを知らないのか?」


「やはり、君にも分かったんだな?」


 バルドルが真剣な眼差しで問いかける。


「お前が何を企んでいようと、私には関係ない」


 ヘラは冷たく言い放った。


「今すぐここから消えろ。その少年も連れていけ」


「すまないが、それはできない」


「……何?」


 短剣の刃が、さらに強くバルドルの首筋へ押しつけられる。


「本当に死にたいようだな?」


「頼む、ヘラ」


 バルドルは、真摯な声で懇願した。


「この問題で、私たちを助けられるのは君だけだ」


「エネルギーというものを、君以上に理解している者はいない」


「すでに断ったはずだ」


「必要なら、どんな代償でも支払う」


 ヘラの言葉を遮り、バルドルは迷うことなく言い切った。


     ◇◇◇


「まったく……どこまでも面倒な男だな」


 ヘラは深くため息を吐き、ようやくバルドルの首元から短剣を離した。


「だが、今の私には、お前たちの問題へ付き合っている時間などない」


 彼女の表情が、僅かに険しくなる。


「最近、ヘルヘイム全体が制御を失いつつある」


「理由も分からないまま、数多くの魂がこちらへ向かう道の途中で失われているんだ」


「だから、お前がどれほどの対価を差し出そうとも、無駄にできる時間はない」


「ほんの数分でいい」


 バルドルは、もう一度だけ頭を下げた。


「頼む」


「…………」


 ヘラは玉座へ戻り、静かに腰を下ろした。


 そして、初めてエデンへ正面から視線を向ける。


 彼女の瞳に映ったのは――


 少年の全身から絶え間なく噴き出している、巨大なエネルギーの霧だった。


(こんなにも恐ろしいものを目にするのは、初めてだ……)


「少年」


 ヘラは、エデンの全身を注意深く観察する。


「お前が何を求めてここへ来たのかは知らない」


「だが、一つだけ教えておいてやる」


「今のお前が自分の足で立っていること自体、ほとんど奇跡に等しい」


「……何?」


 エデンは意味を理解できず、眉をひそめた。


「どういうことですか?」


「良くも悪くも、お前は力の爆弾だ」


 ヘラは淡々と答える。


「力の爆弾……?」


「何を言っているんだ、ヘラ?」


 バルドルも、真剣な表情で問いかけた。


「一目見ただけでも、お前の力が常軌を逸するほど巨大であることは分かる」


 ヘラはエデンを指差す。


「だが今、お前を破滅へ追いやろうとしているのも、その力そのものだ」


「…………」


「簡単に説明してやろう」


 彼女は僅かに目を細めた。


「お前の肉体は今――自らの力から生き延びようとしている」


「制御できない膨大なエネルギーを、身体中のあらゆる毛穴から必死に外へ放出しているんだ」


「それを全身へ拡散させ続ける目的は、ただ一つ」


「死なないためだ」


「……!」


 その言葉を聞いたエデンは、自らの両手へ視線を落とした。


 思考が、前日の訓練へと引き戻されていく。


(それが……あの夜、突然すべての力を失った理由なのか?)


(ゼンカを剣へ送り込もうとした)


(だが、気づいたときには地面に倒れていて……その間のことは、何も覚えていなかった)


「これまでに――」


 ヘラが、彼の思考を見透かしたように尋ねる。


「自分がなぜそこに倒れているのか分からないまま、目を覚ましたことはあるか?」


「は、はい……」


 エデンは戸惑いながらも頷いた。


「昨日、ゼンカを剣へ集中させようとしました」


「でも、失敗して……気を失ったんです」


「お前の運が、この世で最も良いのか、最も悪いのか……私にも分からないな」


 ヘラは信じられないものを見るようにエデンを見つめた。


「そんな愚かな真似をしておきながら、今も生きていることには驚かされる」


「……どういう意味ですか?」


「先ほど、私はお前が何をしようとしているのか、こちらを見ずに察知した」


「それは、お前自身のゼンカが教えたからだ」


「俺のゼンカが……?」


「ああ」


 ヘラは静かに頷く。


「先ほどまで恐怖に染まっていたエネルギーが、一瞬で殺意へ変化した」


「だから、お前が剣を抜こうとしていると分かった」


「本当に……?」


「おそらく、昨日も同じことが起きたのだろう」


 ヘラの視線が、エデンの腰にある剣へ向けられる。


「お前の救いようのない制御力のせいで、無意識のうちに全エネルギーを剣へ送り込んでしまったんだ」


「そんな……」


 バルドルが、驚愕に目を見開く。


「では、あのときエデンは……」


「ああ」


 ヘラは、一切表情を変えずに答えた。


「事実上、自殺したようなものだ」


「……!」


 エデンの身体が、石のように固まった。


「だから、お前の運が良いのか悪いのか分からないと言った」


「制御できないという欠陥が、お前を死へ追いやった」


「だが同時に、その馬鹿げるほど膨大なエネルギー量が、お前を完全な死から引き戻した」


 そして、残酷な事実を告げるように言葉を続ける。


「もっとも――」


「ほんの一マイクロ秒とはいえ、お前は確かに死んでいたがな」


     ◇◇◇



「それなら……どうして俺は、今も生きているんですか?」


 エデンは、震える声で問いかけた。


「お前の肉体は普段から、必要以上に生み出されたエネルギーを自然に体外へ排出している」


 ヘラは、淡々と説明を始める。


「生命を維持するために必要な分だけを体内へ残し、それ以外を外へ逃がしているんだ」


「だが、お前が体内のエネルギーを一瞬ですべて空にしたとき――」


 彼女は、エデンの胸元を指差した。


「肉体の生存本能が、エネルギーの流れを逆転させた」


「それまで排出していた力の一部を、再び体内へ吸収したんだ」


「再吸収……した?」


「ああ」


 ヘラは静かに頷く。


「ほかの者であれば、何の道理もない話だ」


「だが、お前という例外に限っては成立する」


「お前は普段から、馬鹿げるほど大量のゼンカを体外へ放出している」


「その一部を取り戻しただけで――止まった心臓を再び動かすには十分だった」


「…………」


 エデンは、自らの胸へ手を添えた。


(ようやく分かった……)


(あのとき感じた胸の痛みは、偶然じゃなかった)


(あれは――俺の心臓が止まった瞬間だったんだ)


 そして、ゼンカを剣へ集中させようとした瞬間を思い返す。


(最初は取るに足らない時間に思える)


(だが、俺のエネルギーが剣へ到達するまでに生じる、ほんの数マイクロ秒……)


(その僅かな時間だけで、俺は死ぬ)


(つまり、今と同じ方法を千回繰り返したところで、結果は変わらない)


(剣へ力が届く前に、必ず失敗する……)


「なあ」


 沈黙するエデンを見ながら、ヘラがバルドルへ声をかけた。


「何か言ってやらなくていいのか?」


「いや」


 バルドルは、真剣に考え続ける少年を静かに見つめていた。


「今の彼は、自分で進むべき道を見つけようとしている」


(だが……)


 エデンの中で、一つの考えが浮かび上がる。


(その時間を短くすることができたら?)


(完璧にゼンカを制御する必要なんてない)


(俺を殺すよりも先に、力を剣へ到達させればいい)


 俯いていた顔が、ゆっくりと上がる。


(不可能ではない)


(成功する可能性は限りなく低い。奇跡と呼べるほどに――)


(それでも、ゼロではない)


「……見つけた」


 エデンが、確信を込めて告げた。


「…………」


 ヘラは、少年の輝く瞳を見つめた。


 先ほどまで迷いに揺れていたその双眸は、初めて自信と決意に満ちている。


(この少年は、本当に開かれた本のようだな……)


 ヘラの口元から、小さな笑みが零れた。


 彼女の瞳には、エデンを取り巻いていた禍々しいエネルギーの霧が、美しい光へと変わっていく様子が映っている。


(僅かな時間で、どうしてここまで変わることができる?)


「ありがとうございます、ヘラ」


 エデンは立ち上がり、彼女へ深く頭を下げた。


「これで、俺にも勝てる可能性が生まれました」


 そして、決意に満ちた表情で続ける。


「どれほど小さな可能性でも、絶対に手放しません」


「お前には、随分と興味を惹かれるな……小僧」


 ヘラは素直な感想を口にした。


「先ほどの申し出がまだ有効なら、大会が終わったあと、もう一度この少年を連れてこい」


「今度は正式に迎えてやる」


「もちろんだ、ヘラ」


 バルドルは迷うことなく答えた。


「ガルム」


 ヘラが、玉座の傍らに控えていた巨大な狼を呼ぶ。


「二人を出口まで案内しろ」


「承知しました、陛下」


 ガルムは恭しく頭を下げた。


「バルドル!」


 立ち去ろうとした彼を、ヘラが呼び止める。


「何だ?」


「どうして、ほとんど何も知らない相手のために、ここまでする?」


「へえ……」


 バルドルは、からかうような笑みを浮かべた。


「私たちのことに興味を持ってくれたのか?」


「……もういい。忘れろ」


 ヘラは不機嫌そうに顔を背けた。


「彼の目が――」


 バルドルは小さく笑い、遠ざかろうとするエデンへ視線を向ける。


「少しだけ、あいつの目に似ているんだ」


「まさか……お前が言っているのは……」


「ああ」


 バルドルの笑みへ、深い後悔が滲んだ。


「夜になるたびに考える」


「あのとき、私があいつの言葉へ耳を傾けていたら……何かが変わっていたのではないかと」


「あいつは私を必要としていた」


「それなのに――私は応えてやれなかった」


「…………」


 バルドルは、ガルムと共に立ち去っていくエデンの背中を見つめる。


 少年の横顔には、希望を見つけた者だけが浮かべられる微かな笑みがあった。


「私はもう二度と――」


 その声に、揺るぎない決意が宿る。


「あれほど眩しい光が、同じように消えていく姿を見たくない」


「もう二度と、後悔したくないんだ」


「たとえ、そのために――すべてを失うことになろうとも」


「バルドル……」


 ヘラは、不安そうに目を細めた。


「まさか、お前は……」


「シーッ……」


 バルドルは、人差し指を口元へ当てる。


「私は大丈夫だ」


 そして、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべた。


(未来がどうなるのかは、誰にも分からない)


(それでも、君がそこにいる限り――きっとすべては大丈夫だ)


(エデン……)


(君こそが、私の信じる未来なのだから)

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