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第19章・2:自己理解

 新たな朝日が、アスガルドの街並みを優しく照らしていた。


 厳しい冬の寒さも、少しずつ王国へ近づいている。


 魔法に彩られたその街には、ほかのどこにも存在しない独特の美しさがあった。


 そこに満ちているのは、別の場所では決して味わえない穏やかな平和。


 小鳥たちの歌声。


 一日の始まりに顔を合わせた住民たちの、静かな語らい。


 風に優しく揺らされる水面の音――


 そんな朝の街を、一人の少年がゆっくりと歩いていた。


 その姿は一見すると落ち着いている。


 しかし、彼の心には今もなお、数多くの迷いが渦巻いていた。


 やがて、古い街並みの中に、壮麗な建物が姿を現す。


 空と同じほど澄んだ水色のトパーズによって造られた、美しくも威厳に満ちた建造物。


 だが、その場所が誇る美しさは、建築様式や色彩だけではない。


 真の価値は――内部に眠る膨大な知識にあった。


「この場所……本当に巨大だな……」


 建物の中へ足を踏み入れたエデンは、僅かに笑みを浮かべながら辺りを見回した。


 そこに広がっていたのは、想像を遥かに超える巨大な図書館。


 無数の書架が、まるで天へ届こうとしているかのように高く聳え立っている。


 その内部に収められた書物は、数千万冊。


 歴史書、美術書、図鑑、図解資料――


 誰もが羨むほど、あらゆる分野の知識が集められていた。


「すごい……」


 エデンは、その壮麗な光景にすっかり心を奪われた。


 明確な目的も忘れ、導かれるように書架の間を歩き始める。


 一つの通路を抜け、また別の通路へ。


 果てしなく続く本の世界を、何度も何度も巡っていった。


     ◇◇◇


(何だ……この感覚は?)


 エデンは歩みを止め、胸の奥に芽生えた感情へ意識を向ける。


(懐かしい……のか?)


(いや、違う)


(俺は今まで、こんな場所へ来たことなんて一度もない)


(それなのに……どうしてか、家へ帰ってきたような気がする)


 古い記憶が、次々と脳裏に蘇っていく。


(試験前に、友達と一緒に勉強した放課後……)


(みんなで授業を抜け出したこともあったな……)


(思い返せば、きりがない)


 その顔に、温かな笑みが浮かぶ。


 しかし、その笑みはすぐに寂しさを帯びた。


(でも……あの日々が戻ってくることは、もうない)


(東京で過ごした時間が恋しくないと言えば、嘘になる)


 エデンは、ゆっくりと書架へ指先を滑らせる。


(自分の人生は退屈だと、ずっと思っていた)


(代表選手に選ばれるような大きなことを成し遂げなければ、俺の人生には何の価値もない――そんなふうにさえ考えていた)


(だが、今の俺はここにいる)


(何もかもが未知の世界で……頭のねじが何本も外れたような連中に囲まれて)


 思わず、小さな苦笑が漏れる。


(シュンの口から初めて『神々』という言葉を聞いたときは、馬鹿げた話だと思った)


(すべて夢なのかもしれないとも考えた)


(それどころか、俺は何かの事故で死んでしまって、ここは天国なんじゃないかとさえ疑った)


 だが、それも今では遠い記憶だった。


(あの最初の出会いから、もう何か月も経っている)


(いろいろなことを経験した)


(そして、数え切れないほど多くの人と出会った)


(誰も彼も、本当に信じられないほどすごい人たちばかりで……)


 エデンは、自らの手を静かに見つめる。


(あの人たちを知れば知るほど――自分という存在が、どんどん小さく思えてくる……)




 エデンは不意に足を止め、壁面に映り込んだ自らの姿を見つめた。


(いつだったか……)


(自分は、この世界の英雄になる運命なのかもしれないと思っていた)


(だが、そのために重ねてきたすべての試みは、ことごとく無残に失敗した)


 歪んだ壁面に映る自分の顔が、僅かに揺らめく。


(この世界を理解しようとすればするほど……自分自身のことが分からなくなっていく)


(俺は、本当は何なんだ……?)


(怪物なのか? それとも、誰かを救う者なのか?)


 エデンは、反射する自らの瞳を見つめ続ける。


(俺の命には……誰かに利用される武器以外の価値が、本当にあるのか?)


 時間が経つにつれて、壁に映る姿はさらに歪んでいった。


 輪郭が崩れ、表情も曖昧になり――


 やがて、それが本当に自分なのかさえ分からなくなる。


(できるだけ考えないようにしてきた)


(だが、俺は本当に……あのクソ野郎どもと向き合えるのか?)


 脳裏に浮かんだのは、リュウとカイの姿だった。


「クソ……泣きたい……」


 エデンは重いため息を吐き、両手で顔を覆った。


「…………」


 しばらくして、ゆっくりと手を下ろす。


 そのとき、彼の視線が一冊の小さな本へ引き寄せられた。


 周囲の書物とは違い、その本は少しも輝いていない。


 表紙は酷く擦り切れ、ほんの僅かに触れただけでも、ばらばらに崩れてしまいそうだった。


「何だ、これ……?」


 ただの好奇心から、エデンはその本を手に取る。


 だが、指先に伝わった感触に、その眼差しがすぐに変わった。


 外見とは裏腹に、その本は周囲のどの書物よりも頑丈だった。


 そして、そっと表紙を開くと――内部から淡い光が溢れ出す。


(どういうことだ……?)


(今にも崩れそうに見えるのに……)


(それでも、こんなにも強く形を保っている……)


「こういう場所は、君にはあまり似合わないと思っていたよ、エデン」


 背後から、温かな男の声が聞こえた。


「バルドル?」


 エデンが驚いて振り返る。


「やあ。具合はどうだ?」


「あ、ああ……大丈夫です」


 バルドルは穏やかに微笑んだ。


 しかし、エデンの手元へ視線を落とした瞬間、その表情が僅かに変わる。


「……その本は」


「あっ、すみません」


 エデンは気まずそうに本を持ち直す。


「少し気になって、手に取っただけなんです」


「美しいな……」


 バルドルが、小さく呟いた。


「……何がですか?」


「その本の由来を知っているか?」


 彼は微かな笑みを浮かべながら尋ねる。


「いえ……」


「以前、ミッドガルドの街をあてもなく歩いていたときに、偶然見つけたものだ」


 バルドルは、古びた表紙を懐かしそうに見つめた。


「題名は――『終わりなき物語』」


「終わりなき物語……?」


「ああ」


 バルドルは静かに頷く。


「誰が書いたのかは、今もまったく分かっていない」


「そこに描かれているのは、海へ旅立った一人の小さな戦士の冒険だ」


「その戦士は、旅の中で数え切れないほどの危険に遭遇する」


「どれも、決して乗り越えられないと思えるほど絶望的なものばかりだった」


「それでも、彼は何度も乗り越えた」


「奇跡が起きたからでも、都合のいい偶然に救われたからでもない」


「自らの意志と知恵によってだ」


 バルドルの指先が、古びた表紙を優しく撫でる。


「状況が何度ひっくり返ろうとも、彼は必ず切り抜ける方法を見つけ出した」


「最後の瞬間まで――ずっとな」


「最後に、何があったんですか?」


 エデンが興味を惹かれたように尋ねる。


「彼は、一つの難しい決断を迫られた」


 バルドルの表情から、笑みが消えた。


「王国に暮らす人々の命を救うか――」


「それとも、愛する妻の命を救うか」


 そして、真剣な眼差しをエデンへ向ける。


「君なら、彼がどちらを選んだと思う?」


「……妻じゃないですか?」


「さあな」


 バルドルは、小さく肩を竦めた。


「それを知ることは、永遠にできない」


「……え?」


「何を言っているんですか?」


「物語は、その美しい瞬間で終わっているんだ」


 バルドルは、どこか楽しそうに説明する。


「彼がどちらを選んだのかは書かれていない」


「この物語に、明確な結末は存在しないんだよ」


「そんな……」


「初めて読んだときは、これを書いた者を本気で殺してやりたいと思った」


「…………」


「冒険者が何を選んだのか」


「そして、その選択を目にしたとき、自分が何を感じたのか――」


 バルドルは、自らの胸元へ手を添えた。


「その答えを知ることができない苦しさが、いつまでも私の心を蝕み続けた」


「だが、時間が経ってから、ようやく一つのことに気づいた」


「……何に?」


「最初から、唯一の答えなど存在しなかったんだ」


 バルドルは静かに微笑む。


「そこに存在していたのは――いくつもの『答え』だけだった」


「……!」


 その言葉を耳にした瞬間、エデンは凍りついた。


「もし、あのとき別の決断をしていたら、何が起きていたのか」


「どちらが正しい答えなのか」


「自分は、どの道を選ぶべきなのか」


「いくら考えても、最後にはどこにも辿り着けない問いばかりだ」


 バルドルは、光を放つ本へ視線を落とす。


「冒険者がどちらを選んだのか、私には分からない」


「だが――私自身がどちらを選ぶのかは分かっている」


「それが最善の答えなのか」


「あるいは、真実の答えなのか」


 僅かに目を細める。


「そんなことは、誰にも分からない」


「それでも、それは私自身が選び取った答えだ」


 そして、エデンの瞳を真っ直ぐに見つめた。


「選ぶまで、答えそのものが存在しない決断もある」


「そして一度選んだなら――その選択こそが、唯一の真実になる」


「俺自身の……答え……」


 エデンは、その言葉を確かめるように呟いた。


「…………」


 しばらくの沈黙が流れる。


「バルドル」


「何だ?」


 エデンは意を決したように顔を上げた。


「一つ……力を貸してくれませんか?」


「……え?」


. . .




 それから、数分が過ぎた。


 バルドルとエデンは床に腰を下ろし、周囲には何冊もの本が開かれた状態で積み上げられていた。


「なるほど……」


 バルドルは、ようやく納得したように頷く。


「君は、そんなことを考えていたのか」


「はい」


 エデンは手元の本へ視線を落としながら答えた。


「狙うべき瞬間さえ間違えなければ……僅かでも勝機を作れると思うんです」


(俺には、シュンのような力も、シュウのような知略もない)


 周囲に広げられた書物を眺めながら、エデンは静かに考える。


(でも、二人のようになる必要なんてない)


(自分の持つ強みを生かす方法さえ見つけられれば――俺にも勝利を掴めるはずだ)


「…………」


 バルドルは、黙ってエデンの横顔を見つめていた。


(見た目よりも、ずっと洞察力のある少年だな)


「ゼンカについて理論的な説明を理解できれば、できるようになるかもしれないと思ったんですけど……」


 エデンは、難解な文字で埋め尽くされた本を閉じた。


「俺みたいな馬鹿には、無理な話でした」


 自嘲するように、小さく笑う。


「今だって、読むことも、話すことも、聞き取ることも……自我を持つゼンカに頼り切っている」


「本当に、自分が嫌になります」


「その問題なら――」


 バルドルは、何かを思いついたように顔を上げた。


「最適な人物を一人知っている」


「ただ、少しだけ時間をくれ」


「本当ですか!?」


 エデンの表情が、一瞬で明るくなった。


「ありがとうございます、バルドル!」


「礼を言うのはまだ早い」


 バルドルは、すぐに立ち上がる。


「私たちは、まだ何一つ成し遂げていないからな」


 そう告げると、一冊の本を手にしたまま、書架の奥へ歩いていった。


 その本の表紙には――


『光の彼方へ』


 そう記されていた。


     ◇◇◇


 やがて二人は図書館をあとにし、新たな目的地へ向かった。


 そして、その場所へ辿り着いた瞬間――


「何だよ……これ……」


 エデンは、目の前に広がる光景を見上げたまま絶句した。


「どうして今まで、こんなものに気づかなかったんだ?」


 彼の前に聳え立っていたのは、見る者へ恐怖すら抱かせるほど巨大な樹冠だった。


 太い枝は果てしなく伸び、アスガルド全土を覆うように広がっている。


「本来、その存在を知ることができるのは神々だけだ」


 バルドルが説明した。


「父上が、この樹へ隠蔽の術を施しているからな」


「すごい……」


 エデンは圧倒されたまま、その全貌を見上げ続ける。


「そうだろう?」


 バルドルは、どこか誇らしげに微笑んだ。


「名を、ユグドラシル」


「九つの世界すべてを支える世界樹だ」


「九つの世界を……」


 エデンは改めて、そのあまりにも巨大な樹を見つめる。


「それで、俺たちはここで何をするんですか?」


「それは、私も聞きたいところだ」


 突然、背後から威厳に満ちた声が割って入った。


「やっほー、ヘイムダル!」


 バルドルが、何事もなかったかのように片手を上げる。


「何のつもりだ、バルドル?」


 ヘイムダルは、険しい表情で二人を睨みつけた。


「なぜ、その悪魔がお前と一緒にいる?」


「この野郎……」


 エデンが低く吐き捨て、一歩前へ出ようとする。


 しかし、その前にバルドルが片腕を伸ばし、彼を制止した。


「突然すまない」


 バルドルは穏やかな口調で切り出す。


「君に一つ、頼みたいことがある」


「何だ?」


「ヘルヘイムへ続く門を開いてほしい」


「ヘルヘイムだと?」


 ヘイムダルは、信じられないといった表情を浮かべた。


「何を馬鹿なことを言っている?」


「この少年を、そこにいる人物へ会わせたいんだ」


「不可能だ」


 ヘイムダルは即座に拒絶した。


「万物の父から、明確な命令が下されている」


「アカイアの者たちは、いかなる理由があろうともアスガルドの外へ出してはならない」


「おねがい」


「駄目だ」


「おねがーい」


「駄目だ」


「はぁ……」


 バルドルは、心底残念そうにため息を吐いた。


「これは使いたくなかったんだが……どうやら、ほかに方法はないようだ」


 そう言いながら、ゆっくりと片手を懐へ差し入れる。


「……!」


 ヘイムダルは即座に身構え、戦闘態勢を取った。


 しかし――


 バルドルが懐から取り出したものを目にした瞬間、その顔から血の気が引く。


「そ、それは……!」


「ああ……」


 バルドルは、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「よく冷えた蜂蜜酒だ」


「…………!」


 芳醇な香りを放つ極上の酒を前に、ヘイムダルの口元から涎が垂れ始める。


「それで――どうする?」


 バルドルは、手にした瓶を目の前で軽く揺らした。


「ぐっ……」


 ヘイムダルは必死に抵抗しようとしたものの、最後には力なく肩を落とした。


「お、お前の勝ちだ……」


「…………」


 その一部始終を見ていたエデンは、呆然と二柱の神を見つめていた。


(こいつら……馬鹿なのか?)


     ◇◇◇



「必ず一時間以内に戻ってこい」


 ヘイムダルは、鋭い眼差しで警告する。


「万物の父に知られれば、私は殺される」


「だが、その前に――私がお前を殺す」


「はいはい。私を信じろ」


 バルドルは、まるで危機感を抱いていない様子で軽く答えた。


「お前たちの一挙手一投足は、常に監視しているからな」


 ヘイムダルは、次にエデンを睨みつける。


「その悪魔が少しでも怪しい動きを見せたら、即座に消滅させる」


「…………」


 ヘイムダルはユグドラシルへ向き直り、その巨大な幹へ掌を押し当てた。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ――


 直後、世界樹が彼の力へ応えるように振動し始める。


 樹皮に刻まれた無数の凹凸が眩い黄金色に輝き、一つずつ神秘的なルーン文字を描いていった。


「すごい……」


 エデンが、目の前で起きる現象に息を呑む。


 しかし、次の瞬間――


 黄金色だったルーンが、亡霊を思わせる不気味な緑色へと変化し始めた。


 一つ、また一つと集まった文字は、やがて巨大な髑髏を形成する。


 その頭部を飾っているのは、美しくも冷たい雪の花々。


 ゴォォォォォォ――


 直後、髑髏が描かれた樹皮が内側へ大きく歪んだ。


 そして、ユグドラシルの内部に出現した凍てつく虚空へ、音もなく吸い込まれていく。


 あとに残されたのは、光すら呑み込みそうな暗い入口だった。


「準備はいいか?」


 バルドルが、楽しそうな笑みを浮かべながら尋ねる。


「……え?」


 エデンは、目の前に広がる冷たい虚空とバルドルを交互に見た。


「ちょっと待ってください」


「まさか……あの中へ入るんですか?」


「ああ」


「いやいやいや! 絶対に嫌です!」


 ガシッ!


「……!?」


 バルドルは逃げようとするエデンの手を、力強く掴んだ。


「時には――」


 その顔に、爽やかな笑みが浮かぶ。


「信じて飛び込むことも必要だ」


「……何を言って――」


 エデンが問い返すよりも早く、バルドルは一切の迷いなく走り出した。


「なっ――!?」


 掴んだ手を離さないまま、エデンを引きずって凍てつく虚空へ突進していく。


「待て待て待て! もう少し真剣に考え直しましょうッ!!」


 エデンが必死に叫ぶ。


「ヒャッホォォォォイッ!」


「このクソ野郎ォォォォォッ!!」


 二人の姿は、そのまま暗い入口の奥へ呑み込まれた。


 ゴゴゴゴゴゴ――


 直後、失われていた樹皮が何事もなかったかのように再生し、ユグドラシルは元の姿へ戻っていく。


「…………」


 その光景を見届けたヘイムダルは、不意に一つの疑問を抱いた。


(そういえば……)


(あの女は、バルドルを嫌っていなかったか?)


「……さあな」


 ヘイムダルは、それ以上考えることをやめ、肩を竦めた。


「まあ、あいつなら何とかするだろう」


 そして、手に入れた瓶へ嬉しそうな視線を落とす。


「それより今は――この極上の蜂蜜酒を楽しませてもらうとしよう」


【続く】


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