第19章・1:変化
「やったぞぉぉぉッ!」
ヘルモーズは杯を高々と掲げ、喜びの声を上げた。
「おおおおおおおッ!」
その場にいた者たちも、興奮に満ちた声で続く。
「お前は本当に面白い奴だな、コウ!」
ヘルモーズは上機嫌なまま、コウの肩を勢いよく叩いた。
「どうだ? 私の娘を誰か紹介してやろうか!?」
「い、いえ……結構です……」
コウは引き攣った笑みを浮かべながら、丁重に断った。
「そうか。それは残念だ……」
ヘルモーズは本気で落ち込んだように肩を落とす。
しかし、すぐに別の人物を見つけると、勢いよく顔を上げた。
「おい、レイ!」
「は、はいっ!?」
「次はお前の番だ!」
ヘルモーズは、真っ直ぐにレイを指差す。
「我々を失望させるなよ!」
「はい! 精いっぱい努力いたします!」
(堅いな……)
あまりにも真面目な返答に、ヘルモーズは心の中で呟いた。
「まあまあ、ヘルモーズ。あまり少年へ重圧をかけるな」
テュールが隣へ歩み寄り、もう片方の神の肩へ腕を回す。
「少し背中を押してやっただけだ」
ヘルモーズは悪びれる様子もなく、肩を竦めた。
「ところで、テュール」
彼は、からかうような笑みを浮かべる。
「随分と嬉しそうじゃないか」
「今のお前は、ようやく本物の父親らしい顔をしているぞ」
「少し黙っていられないのか……?」
テュールは恥ずかしそうに顔を背けた。
コツンッ!
そのとき、床を叩く乾いた音が響き、全員の視線が一斉に集まった。
「少し落ち着け」
オーディンが、騒がしく喜ぶ一同へ命じる。
「戦いは、まだ始まったばかりだ」
「勝利を祝うには早すぎる」
「申し訳ありません、父上」
ヘルモーズは笑いながら頭を下げた。
「しかし、私たちのことはよくご存じでしょう?」
「何が起きても、すぐに祝わずにはいられないのです」
「祝う時間なら、あとでいくらでもある」
オーディンは静かに言い聞かせる。
「今は、それぞれの住まいへ戻れ」
そして、次に戦う少年へ視線を向けた。
「レイ。お前の勝利を信じている」
「はい、万物の父よ!」
レイは背筋を伸ばし、力強く返事をした。
「残念だなぁ……」
ヘルモーズが、わざとらしく悲しげな声を漏らす。
「せっかく、酔い潰れるまで飲もうと思っていたのに……」
「黙れ、この馬鹿」
テュールが呆れたように言い、その後頭部を軽く叩いた。
「酔っ払ったら手を貸してくれと頼みたいところだが……」
ヘルモーズは、テュールの片腕へ視線を落とす。
「貸したら、今度こそ手が一本もなくなってしまうな」
「殺されたいのか?」
テュールが低い声で吐き捨てた。
「冗談だって。怖いなぁ」
「…………」
ナイは何も言わず、その場から立ち去っていく。
しかし、部屋を出る直前――
ほんの僅かに、コウへ視線を向けた。
「……っ」
その眼差しを受けたコウは、ナイと目を合わせることすらできず、気まずそうに俯いた。
◇◇◇
神々は一人、また一人と控室をあとにした。
やがて残されたのは、オーディンと――
考え込んだまま、どこか心ここにあらずといった様子のコウだけだった。
「具合はどうだ?」
不意に、オーディンが尋ねる。
「えっ!?」
コウは驚いて顔を上げた。
「だ、大丈夫です……」
「そうか」
オーディンは、静かに彼を見つめる。
「あまり思い詰めるな」
「お前は見事に戦い、勝利した」
「それ以上、何かを悩む必要などない」
「……はい」
「今すぐ気持ちを整理できないのなら、ここでゆっくり考えればいい」
オーディンはそう告げると、コウへ背を向けた。
「考えがまとまったら、お前も帰りなさい」
「……ありがとうございます」
コウは、小さく頭を下げた。
先ほどまで控室を満たしていた喧騒は、完全に消え去っていた。
あとに残されたのは、コウと――彼自身の思考だけ。
(あんなことがあったあとで……俺にどう振る舞えっていうんだよ?)
考えれば考えるほど、頭の中は混乱していく。
やがてコウの意識は、あの熱狂的な祝勝が始まる直前の記憶へと呑み込まれていった。
【数分前――同じ控室】
ドゴォォンッ!!
「ぐっ……!」
凄まじい力で突き飛ばされ、傷だらけのコウの身体が控室の壁へ叩きつけられた。
「な、何をするんだ、ナイ!?」
コウは胸元を掴む腕へ手をかけながら、必死に抗議する。
「外で見せた、あの無意味な茶番は何だ!?」
ナイは怒りを露わにして怒鳴った。
「お前は、これをくだらない遊びだとでも思っているのか!?」
「俺まで、お前の遊び道具だと思っているのか!?」
「落ち着け! 一体、何の話をしているんだ!?」
「とぼけるな!」
ナイは、コウの身体をさらに強く壁へ押しつける。
「俺がなぜ怒っているのか、お前には分かっているはずだ!」
「だから、分からないと言っているだろ!」
コウは、胸元を掴むナイの腕から逃れようともがいた。
「なぜ、終わらせるべきときに試合を終わらせなかった!?」
「どうして、あれほど無意味な危険を冒した!?」
「そんなことで怒っていたのか!?」
コウも苛立ったように声を張り上げる。
「俺は、少しくらい戦いを楽しみたかっただけだ!」
「それの何が悪い!?」
「これは、お前が楽しむための遊びではない!」
ナイの怒声が、控室全体を震わせた。
「俺がお前を代表に選んだのは、誰よりもお前の能力を理解していたからだ!」
「観客の前で、くだらない見世物をさせるためではない!」
「お前があれほど欲しがっていた勝利を持ち帰っただろう!?」
コウは、真正面からナイを睨み返す。
「これ以上、俺に何を求めるんだ!」
ヒュンッ――ドサァッ!!
「がっ……!」
ナイは怒りに任せ、コウの身体を床へ投げ捨てた。
そして、倒れた彼を侮蔑に満ちた目で見下ろす。
「失敗しなかったことを幸運に思え」
「もし、お前の愚かな遊びのせいで、万物の父の前で俺の判断力を疑われていたなら――」
ナイの瞳に、冷酷な光が宿る。
「俺は迷うことなく、その場でお前を始末していた」
「……それが、友達に対する態度か?」
コウが床に手をつきながら問いかける。
「友情など、俺にとって何の意味もない」
ナイは一切の迷いなく答えた。
「俺にとって重要なのは、神々からどのような評価を受けるかだけだ」
「そして、お前の愚かさが俺の立場を危険に晒すのなら――」
冷たい眼差しが、コウを貫く。
「俺はお前を殺す」
◇◇◇
「はぁ……」
重苦しいため息とともに、あの記憶がゆっくりと薄れていく。
コウは血と包帯に覆われた自らの身体を見下ろし、力なく笑った。
「クソ……」
そして、困ったように頭を掻く。
「将来の家族付き合いは、随分と面倒なことになりそうだな……」
◇◇◇
アスガルドの美しい街並みを照らしていた橙色の灯りが、一つ、また一つとゆっくり消えていく。
それに合わせるように、ほんの少し前まで王国の隅々を満たしていた喧騒も、次第に静寂へと変わっていった。
しかし、月明かりの下――
満天の星々だけが見守る中で、勝利を掴もうと決意した一人の少年は、今もなお動き続けていた。
――少なくとも、そう見えていた。
ドサッ!!
突然、エデンは糸の切れた人形のように地面へ倒れ込んだ。
指一本動かすこともできない。
その瞳からは、あらゆる光が消え失せていた。
「…………」
だが、次の瞬間――
「ハッ――!」
止まっていた時間が再び動き出す。
まるで抜け落ちた魂が肉体へ戻ってきたかのように、エデンは大きく息を吸い込んだ。
「クソ……」
地面に倒れたまま、疲れ切った声で呟く。
「一体……何だったんだ、今の……?」
荒い呼吸を繰り返しながら、自らの手へ視線を落とした。
(まるで……死んでいたみたいだった)
(他にどう表現すればいいのか分からない)
(でも、ほんの一瞬だけ……すべてが真っ暗になった)
エデンは、自分が倒れた瞬間を必死に思い返す。
(テンザクと、あの馬鹿シュンと訓練したときとは、まるで違う)
(今回は、自分の意志で剣へゼンカを集中させようとした)
(だが、その直後から……何一つ覚えていない)
(気がついたときには、こうして地面に倒れていた)
エデンは、力の入らない指をゆっくりと握り締める。
(ただ、これではっきりしたことが一つある)
(今の俺では、次の試合に勝てない)
(それどころか……相手を追い詰めることすらできない)
その脳裏に、倒れたイサクの姿が浮かんだ。
(自分の力が何なのかを理解し、少しでも制御できるようにならなければ……)
(俺に勝機はない)
(また――失敗する)
「どうやら……」
エデンは震える腕で地面を押し、ゆっくりと身体を起こした。
「誰かに助けを求めるしかなさそうだな……」
◇◇◇
小屋の扉を開けた瞬間、室内の柔らかな温もりがエデンの頬を優しく撫でた。
「ただいま……」
小さく呟き、その顔に懐かしさを帯びた微かな笑みを浮かべる。
「あっ、エデン。おかえり」
シュウが、優しい笑顔で彼を迎えた。
「少しは気分が良くなったか?」
「あ、ああ……まあ、少しは」
「そうか。よかった……」
シュウは安心したように息を吐く。
「悪い。先生がどこにいるか知っているか?」
「先生?」
シュウは奥の部屋へ視線を向けた。
「今はシャワーを浴びている」
「ああ、そうか……」
エデンは扉の前に立ったまま頷く。
「それなら、終わるまで待つよ」
「いつまで入口に突っ立っている! さっさと中に入れ、この馬鹿!」
突然、浴室からアフロディーテの怒鳴り声が響いた。
「……俺たちの話、聞いていたのか?」
エデンが、目を丸くしながら尋ねる。
「聞かれていたな」
シュウが冷静に答えた。
「全部聞こえているぞ!」
浴室から、再びアフロディーテの声が響き渡った。
◇◇◇
「し、失礼します……」
エデンは遠慮がちに声をかけ、浴室の中へ足を踏み入れた。
しかし、目の前に広がる光景を見た瞬間――その場で完全に凍りつく。
そこにいたのは、絹のように滑らかな肌を持つ美しい女神。
その眼差しは、彼女自身の肢体と同じほど妖しく、人の心を虜にする魅力に満ちていた。
「…………」
世界でも指折りの美しさを誇る女神を前にしながら、エデンが口にしたのは、ただ一つの質問だった。
「俺がいる間くらい、少し身体を隠したほうがいいんじゃないですか?」
「それがお前の最初の感想か、この馬鹿!」
アフロディーテが、信じられないといった表情で怒鳴る。
(どうして私の魅力が、この子にはまったく通用しないんだ……?)
腹を立てるよりも、彼女は純粋な疑問を抱いていた。
「何を言ってほしかったんですか……?」
エデンは本気で分からない様子で、首を傾げる。
「お前は、女性の美しさを理解できないほどの馬鹿なのか?」
アフロディーテは呆れたように尋ねた。
「それとも、そもそも女に興味がないのか?」
「すみません。でも、先生をそういう目で見るほうが変だと思います」
エデンは迷うことなく答える。
「先生は俺の教師です。それ以上でも、それ以下でもありません」
「……ただの馬鹿だったか」
アフロディーテは、深いため息を吐いた。
「それで?」
気を取り直すように、エデンへ視線を向ける。
「何のために私を捜していた?」
「先生に、助けてほしいことがあります」
「助け?」
アフロディーテは意外そうに目を瞬かせた。
「この私にか?」
「はい……」
エデンは僅かに俯き、自らの手を見つめる。
「今の自分が、どれほど無力なのかに気づきました」
「先生が以前、俺に言ったことは正しかった」
「この世界で期待には何の価値もない」
「価値を認められるのは、現実に存在するものだけだと」
「どういう意味だ?」
「俺のゼンカ制御は、完全に最低です」
エデンは自嘲するように言った。
「何かを壊さずには、まともに使うことすらできない」
「相手を殺すことが許されない決闘では、使い方を知らない俺の力なんて、ただの足枷です」
「…………」
(この子……)
アフロディーテは、驚いたようにエデンを見つめる。
(イサクの試合が終わってから、ずっとそんなことを考えていたのか?)
「たった一日で、自分の力を完全に制御できるようになるとは思っていません」
エデンは顔を上げ、真剣な眼差しを教師へ向けた。
「それでも、どんな小さな助言でも構いません」
「今の俺と勝利の間にある距離を、少しでも縮めたいんです……」
「…………」
その言葉を聞いたアフロディーテの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「何かおかしいですか?」
エデンが不思議そうに尋ねる。
「いや、何でもない」
アフロディーテは小さく笑いながら答えた。
「ただ、お前のような馬鹿が、そこまで深く考えていたことに驚いただけだ」
「もともと少ない脳細胞を、全部焼き切っていないか?」
「どうして急に攻撃してくるんですか……?」
エデンが納得できない様子で眉をひそめる。
「悪く言っているわけじゃない」
アフロディーテは、笑みを浮かべたまま首を横へ振った。
「ただ、僅かな時間でお前たちが随分と変わったことに驚いているんだ」
「……俺たちが?」
「ああ」
女神は、どこか懐かしむような眼差しを向けた。
「以前のお前なら、何も考えずに敵へ飛びかかっていただろう」
「自分の意志と復讐心だけを信じてな」
「だが、今のお前は違う」
アフロディーテの表情から、からかうような色が消える。
「自分の強みだけではなく、相手が持つ強みまで考えている」
「それどころか、自らの弱点さえ正面から認めようとしている」
そして、穏やかな声で告げた。
「立派になったな、エデン」
「先生……」
「だが、すまない」
アフロディーテは申し訳なさそうに目を伏せる。
「お前が抱える問題について、私が直接力になることはできない」
「信じられないかもしれないが、生粋の神々は、お前たちが持つゼンカとはまったく異なるエネルギーを持って生まれる」
「しかも、半神や人間とは違い、その力は生まれた瞬間から完成された状態で備わっているんだ」
「だから私たちは、自らの力がどのような仕組みで動いているのかを、深く考える必要すらなかった」
「そうだったんですね……」
エデンは、残念そうに視線を落とした。
「邪魔をして、すみませんでした」
「いや、待て。謝る必要はない」
アフロディーテが、すぐに彼の言葉を遮る。
「直接教えることはできなくても、一つだけ助言ならできる」
「……何ですか?」
エデンは、再び顔を上げた。
アフロディーテは、その瞳を真っ直ぐに見つめる。
「自分らしさを――決して見失うな」
◇◇◇
「……どういう意味ですか?」
エデンは、アフロディーテの言葉を理解できずに問い返した。
「今、お前の前に立ちはだかっている相手が、決して越えられない巨大な壁に見えていることは分かる」
「だが、無理にその壁を登る必要などない」
アフロディーテは、諭すように言葉を続ける。
「確かに、イサクやシュウなら、どうにかして壁を登る方法を探すだろう」
「だが――それは本当に、お前の戦い方か?」
彼女は、エデンの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「本当のエデンなら、その壁を登ろうとするか?」
「それとも、迷わず叩き壊すか?」
「…………」
エデンは僅かに考えたあと、静かに答える。
「壊します……」
「ああ。そうだろう?」
アフロディーテは満足そうに微笑んだ。
「自分の力がどこから生まれ、どのように働くのかを理解しようとする姿勢は立派だ」
「だが、だからといって、第二のシュンや第二のゼウスになる必要はない」
「変わること自体は、決して悪いことではない」
「ただし――自分ではない何かに変わろうとするな」
その声が、優しくエデンの胸へ染み込んでいく。
「お前は、お前だ」
「それでいい」
「……本当に?」
「ああ。本当だ」
アフロディーテは迷うことなく頷いた。
「お前なら、必ず自分だけの方法を見つけられる」
「これまでも、どれほど困難な状況に置かれようと、最後にはそうしてきただろう?」
「…………」
「それでもまだ答えが見つからず、悩み続けるつもりなら――」
アフロディーテは、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「アスガルドの大図書館を覗いてみるといい」
「何か手掛かりが見つかるかもしれないぞ」
「……!」
エデンの表情が、一気に明るくなった。
そして――
チュッ!
「…………」
エデンは身を寄せ、愛の女神の頭へ軽く口づけを落とした。
あまりにも突然の出来事に、アフロディーテは完全に凍りつく。
「……え?」
「本当にありがとうございます、先生!」
エデンは満面の笑みを浮かべながら、勢いよく立ち上がった。
「俺、できる限り頑張ります!」
そう告げると、そのまま嬉しそうに浴室から離れていく。
「ちゃんと休めよ、この馬鹿!」
我に返ったアフロディーテが、遠ざかる背中へ怒鳴った。
「はいはい、分かりました!」
エデンの明るい声が、廊下の向こうから返ってきた。
◇◇◇
「本当に……どうしようもない馬鹿だな」
アフロディーテは深く息を吐きながらも、小さな笑い声を漏らした。
(シュン……)
閉じた扉を見つめながら、心の中で呟く。
(お前は、本当に素晴らしい少年を育て上げたな)
(あの笑顔なら、きっといつか――世界中を照らすことができる)
だが、その温かな表情へ僅かな不安が滲んだ。
(しかし……)
(光が強ければ強いほど、それが生み出す影もまた、濃く大きくなる)
(もし、優しさと愛に満ちたこの子が、いつかその感情を失ってしまったら――)
(そのとき、いったい何に変わってしまうのだろう?)
まだ誰にも見通すことのできない未来を思い浮かべる。
(考えれば考えるほど……胸の高鳴りと恐怖を抑えられない)
そして、アフロディーテはただ一人、静かに問いかけた。
(いつか世界が知ることになるのは――いったい、どんなエデンなのだろう?)




