第18章・7:形勢逆転
「勝者は――コウ・ネーヴェぇぇぇぇッ!!」
ヘルモーズが、闘技場全体へ力強く宣言した。
「よっしゃあああああああッ!!」
コウは両拳を天へ突き上げ、四方へ向かって勝利の雄叫びを放つ。
「ウオオオオオオオオオッ!!」
観客たちも一斉に立ち上がり、手にした武器を夜空へ高々と掲げた。
オーディンは拳を固く握り締め、その口元へ微かな笑みを浮かべる。
トールとテュールは互いを見ることなく、静かに拳を突き合わせた。
一方、ナイは何も言わずに背を向け、その場から立ち去っていく。
「イサクッ!!」
エデンは観客席から闘技場へ飛び降りると、倒れている仲間へ駆け寄り、その身体を両腕で抱き起こした。
「イサク……おい、イサク!」
観客たちの歓声も、武器がぶつかり合う音も――
エデンの耳から、すべて消え去っていた。
今の彼にとって、この世界に存在するのは腕の中にいる倒れた仲間だけだった。
「…………」
エデンの瞳から、光が完全に失われかける。
しかし、そのとき――
トクン……。
微かな鼓動が、イサクの胸から伝わってきた。
「生きてる……」
エデンは、安堵したように呟いた。
「傷がさらに悪化する前に、ここから運び出すぞ」
駆け寄ってきたアフロディーテが、生徒たちへ指示を出す。
「下では、すでにエイルが待っている」
会話へ加わったバルドルが、静かに告げた。
「彼女なら、あとのことはすべて引き受けてくれる」
「ありがとう、バルドル」
ヘルメスは短く礼を告げると、イサクの身体を両腕で抱き上げた。
「…………」
アカイア使節団は、それ以上一言も発することなく、闘技場から立ち去っていく。
バルドルは、遠ざかる彼らの背中を静かに見つめていた。
「無事に回復するといいが……」
◇◇◇
アカイア陣営の者たちの眼差しには、数え切れないほどの感情が入り混じっていた。
怒り。
無力感。
悲しみ。
憤り。
そして――憎悪。
彼らの瞳には、いつもの輝きがもう残っていない。
あの敗北が意味するものは、ただ一試合を落としたという事実だけではなかった。
このラウンドを勝ち抜くためには、努力や才能さえも超越する――何か特別なものが必要となる。
そして、そのために支払う代償がイサクと同じものであるならば――
自分たちは、まだそれを背負う覚悟ができていないかもしれない。
「容体は安定しました」
静かで温かな声が、重苦しい空気に包まれた部屋へ響いた。
「ありがとう、エイル……」
アフロディーテは俯いたまま、力なく礼を告げる。
【エイル――北欧の癒やしの女神】
エイルは、その場にいる全員の顔を黙って見渡した。
今は、言葉を慎重に選ばなければならない。
僅かでも間違えれば、彼らの心にある何かが壊れてしまう――そう理解していた。
「安心してください。彼は回復します」
エイルは、穏やかな声で説明を始める。
「命に関わる傷を含め、重傷はすべて治療しました」
「残っているのは軽い傷だけです。完全な回復のためにも、それらは彼自身の身体に治させるのが一番でしょう」
「…………」
(ですが……)
エイルは、ベッドに横たわるイサクへ視線を向けた。
(そう伝えたところで、この光景があまりにも凄惨であることに変わりはありません)
意識を失ったイサクの身体には、端から端まで無数の傷痕が刻まれていた。
(偶然だったのか、それとも本能的に力の使用を止めたのか……)
(もし、あのまま力を使い続けていたなら、この少年は二度と自分の脚で歩けなかった可能性が高い)
エイルは、苦しげに眉を寄せる。
(ここまで自分自身を追い詰めた者を見るのは初めてです……)
(いったい何が、この少年をあれほど底のない奈落へ追いやったのでしょうか?)
ドンッ!!
「……!」
突然の激しい衝撃音が、全員を思考の海から引き戻した。
「エデン……何をしている?」
アフロディーテが驚いたように問いかける。
エデンの拳は、部屋の壁へ深々と突き刺さっていた。
傷ついた拳からは、何本もの血の筋がゆっくりと流れ落ちている。
「…………」
エデンは、何も答えなかった。
だが、その瞳は激しい怒りと罪悪感に満ちている。
「本当に……大丈夫なんですか?」
歯を食いしばりながら、震える声で尋ねた。
「話を聞いていなかったのか?」
シュウが、すぐに答える。
「エイルは大丈夫だと言った。回復するまでに時間が必要なだけだ」
「…………」
しかし、エイルは何も言わなかった。
その沈黙に気づいたエデンが、ゆっくりと北欧の女神へ顔を向ける。
「……!」
エイルは思わず息を呑んだ。
自分へ向けられたのは、涙を湛えた硝子のような瞳。
怒りも、恐怖も、罪悪感も――すべてが今にも溢れ出しそうだった。
「……はい」
エイルは、その眼差しを真っ直ぐに受け止める。
「彼は大丈夫です」
「…………」
その答えをもう一度聞いた瞬間、エデンの全身から力が抜け落ちた。
膝から崩れ落ち、そのまま床の上で身体を小さく丸めていく。
「よかった……」
安堵の声は、次第に壊れたような嗚咽へと変わっていった。
「エデン……」
シュウは仲間へ近づき、その肩に手を置こうとする。
しかし、触れる直前にヘルメスが間へ入り、静かに首を横へ振った。
「先生……」
「行こう」
ヘルメスは、床に蹲るエデンを見つめながら告げる。
「今は少しだけ、一人にしてやったほうがいい」
「きっと、俺たちの言葉を聞きたいとは思っていない」
「わ、分かりました……」
シュウは何度も仲間を振り返りながら、ゆっくりとその場を離れた。
一人、また一人と部屋から立ち去っていく。
やがて残されたのは――
すべてを失ったかのように蹲る少年と。
ほんの少し前に、夢も希望も打ち砕かれた一人の戦士だけだった。
「ごめん……」
それが、エデンの口から最後に零れた言葉だった。
部屋の外へ出る直前、エイルは足を止め、遠くからその姿を静かに見つめていた。
◇◇◇
治療室の外へ出たアカイア陣営の者たちは、いまだ気持ちを整理できないまま、重い足取りで廊下を進んでいた。
そこで彼らを待っていたのは、誰もが予想していなかった人物だった。
「……コウ?」
全員が驚愕に目を見開く。
コウの身体は無数の傷と血に覆われ、壁に手をつかなければ立っていることすら難しい状態だった。
「コウ、どうしてここにいる?」
アフロディーテが、不思議そうに尋ねる。
「へへ……悪い」
コウは気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「イサクの様子が気になってさ。どうしても見に来たかったんだ」
「その前に、自分の心配をするべきじゃないのか?」
アフロディーテは、信じられないといった表情で彼の全身を見つめる。
「いやいや、俺なら大丈夫だって」
コウは引き攣った笑い声を漏らした。
「まあ、この姿をエイルさんに見られたら、こっぴどく叱られるだろうけどな」
「…………」
コウは、その場にいる全員の顔を順番に見渡した。
誰一人として笑っていない。
その表情を見ただけで、治療室の中がどのような状況なのかを理解した。
「今日は……会えそうにないな」
コウは残念そうに呟く。
「だったら、一つだけ伝言を頼んでもいいか?」
「ああ、もちろんだ」
アフロディーテが静かに頷いた。
「すごく楽しかった――そう伝えてくれ」
コウは満面の笑みを浮かべる。
「今こんなことを言うべきじゃないのは分かっている」
「でも、もう心の中にしまっておけなかったんだ」
「…………」
そのあまりにも率直な告白に、アカイア陣営の全員が言葉を失った。
「俺は、本当にイサクへ感謝している」
コウは、自らの胸へ手を添えた。
「あいつは俺を、自分でもほとんど知らなかった限界の先まで連れていってくれた」
「うまく説明できないけど……」
少し考え込んだあと、両手を大きく広げる。
「感情が一気に『K‐BOOM!』って爆発したような感じだったんだ」
「…………」
「だから、俺の代わりに礼を伝えてくれ」
コウの顔に、眩しいほど晴れやかな笑みが浮かぶ。
「あんなにも輝いた世界を見せてくれて、ありがとうって」
「それから――いつか、もう一度戦いたいとも伝えてほしい」
コウはそう言い残すと、アカイア陣営の者たちへ丁寧に一礼した。
「それじゃあ、またな」
そして彼らへ背を向け、廊下の先へ歩き出す。
一歩進むたびに身体を大きくふらつかせ、何度も壁へ手をつきながら――
それでも、コウは自分の足でゆっくりと遠ざかっていった。
「…………」
アカイア陣営の者たちは、彼のあまりにも真っ直ぐな言葉に戸惑ったまま、その背中を見送る。
(お前が何を求めてGODSへ入ったのか、私は知らない)
アフロディーテは、静かに思う。
(だが、イサク――)
(今のお前には、ただの半神としてではなく……一人のライバルとして見てくれる者がいる)
◇◇◇
それから、数分が過ぎた頃――
シュウは完全な孤独の中にいた。
洗面台の前に立ち、鏡に映る自分の顔を黙って見つめている。
(エデンの気持ちが……少しだけ分かったような気がする)
シュウは、先ほどの光景を思い返した。
(イサクに限界を超えろと、最初に背中を押したのはエデンだった)
(俺たちは全員、イサクならできると信じたからこそ、戦い続けることを認めた)
(だが、エデン自身はそう考えていないはずだ)
鏡の中に映るシュウの表情が、僅かに曇る。
(あいつの中では、自分こそがイサクをあの状態へ追い込んだ一番の原因になっている)
(本当は、ただ仲間を支えただけなのに……)
(今のエデンの頭から離れないのは、きっと一つの問いだけだ)
(『もし、あのとき何も言わずに黙っていたら――?』)
さらに深く思考へ沈みかけた、そのときだった。
「へえ……誰かと思えば」
皮肉を含んだ男の声が、背後から聞こえた。
「こんなところで会うとはな」
「…………」
シュウはゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、今もっとも顔を合わせたくない人物――ナイ・ブリクストだった。
「よう、神童君」
「他に行く場所はないのか、ナイ?」
「おいおい、凡人だってトイレくらい使うぞ」
ナイは大袈裟に肩を竦める。
「お前みたいな神童だけの場所じゃないんだからな」
「その『神童』という言葉を口にするな」
シュウは不快そうに眉をひそめた。
「聞くだけで反吐が出る」
「どうしてだ?」
ナイは楽しそうに口元を歪める。
「お前は、俺たちの世代を代表する天才だったじゃないか」
「昔の話だ。忘れろ」
「そう謙遜するなよ」
口調こそ穏やかだったが、その言葉には露骨な皮肉が込められていた。
「誰だって知っている」
「シュウ・サジェス――神々に祝福された神童の名をな」
「お前は喋るたびに金でももらえるのか?」
シュウは冷たい視線を向ける。
「どうして一瞬たりとも黙っていられない?」
「へえ……随分と機嫌が悪そうだな」
ナイはシュウの顔を覗き込む。
「何かあったのか?」
「もう行く。そこをどけ」
シュウは会話を打ち切り、ナイのすぐ横を通り過ぎた。
◇◇◇
「失望したよ」
「……」
その言葉を耳にした瞬間、シュウの足が止まった。
「これほど多くの才能が、たった一人の人間に無駄遣いされるとはな」
ナイは背を向けたまま、吐き捨てるように続ける。
「お前を見ていると、反吐が出る」
「そうか?」
シュウは皮肉な笑みを浮かべた。
「それなら嬉しいよ」
「お前を、できるだけ遠くへ追いやれるからな」
ナイは勢いよく振り返り、声を張り上げる。
「お前たちに勝ち目はない!」
「絶対に不可能だ!」
「不可能……?」
シュウも足を止めたまま、ゆっくりと振り返った。
そして、その言葉を噛み締めるように小さく笑う。
「それを聞いて、安心した」
「……何?」
「残念だったな、ナイ」
シュウの口元に、自信に満ちた笑みが浮かぶ。
「俺の仲間には、不可能を可能にすることだけは誰にも負けない専門家がいる」
「そして、あいつが勝ったら――次は俺がお前の尻を蹴り飛ばす」
「あいつだと?」
ナイは嘲るように鼻で笑った。
「今頃、涙に暮れて部屋へ閉じこもっている奴のことか?」
「ああ、そいつだ」
シュウは一切迷わずに答える。
「信じられないかもしれないが、今回の出来事はあいつをさらに強くする」
「俺たち二人よりも、遥かにな」
「ハッ! いつまでも夢を見ていろ」
「ああ。そのつもりだ」
シュウは、穏やかな笑みを浮かべた。
「あいつと出会ってから、俺はずっと夢を見続けている」
「そして信じろ、ナイ」
「あいつは――その夢を現実に変える男だ」
シュウは再び背を向け、歩き出そうとする。
「だから、今から覚悟しておけ」
その足を止めることなく、最後の警告を告げた。
「俺たちの戦う番が来たら――お前を徹底的に叩き潰す」
シュウが僅かに顔を向ける。
その瞬間、彼の双眸が眩い黄金色の輝きを放った。
「ここ数年、何一つ成し遂げていない奴にしては、随分と大きな口を叩くな」
ナイの瞳にも、青白い電流が激しく走り始める。
「神童は、どこまで行っても神童だ」
「だが――それ以上の存在にはなれない」
ナイは、遠ざかっていくシュウの背中を睨みつけた。
「『期待されるだけの逸材』と『本物』の違いを、俺がはっきり教えてやる」
「…………」
シュウは振り返ることなく、ゆっくりとその場を離れていった。
(この状況を覆せる者がいるとすれば――それはお前だけだ、エデン)
その瞳には、揺るぎない決意が宿っている。
(どんな代償を払うことになろうとも……俺たちは負けない)
◇◇◇




