101 サイフォン
久方ぶりのニーの街。既に懐かしい。しかし憲兵の詰め所とギルドの辺りには行きたくないので真っ直ぐにアルフレッドさんの喫茶店へ。たっぷりしたカフェオレが飲みたい。巷ではラテが流行っているが、私にはちょっと濃過ぎるのだ。
「いらっしゃいませ……おや。もう妖精サイズではなくてもよさそうですね、お席にどうぞ」
アルフレッドさんは今日も穏やかに微笑んでいる。と、言うか。今、イルを見て言ったよね?
「カフェオレを2つとプレーンのシフォンケーキ1つください。それとアルフレッドさん、俺、大きく成りました。珈琲を淹れたいんです、ずっと憧れてたので教えてもらえませんか」
イルはそんな些細な事は気にせずに手早く注文しておねだりまで済ませてしまった。私のカフェオレも注文してくれてありがとう。
「そうですか、それはとても光栄です。それでは、一度淹れ方をご説明しながら御覧に入れましょうか」
本当にアルフレッドさんは何者なのだろうか。今まで誰一人今のイルがあの小さな蛇だとは気付かなかったのに。解った挙句驚かないとか、どこの執事なのだ。
「当店で使用しているのは、サイフォンという器具です。ご覧のとおり、上下でガラスが分かれていますね」
アルフレッドさんが少し上のガラスを持ち上げてみせてくれた。持ち上げると、上下を繋ぐような形のパーツも分離できる事を示してくれる。
「これが珈琲の粉をろ過する部分です。ここに濾し布を被せます。そうしたら、漏斗に取りつけます。この時布と漏斗の中央が揃うように注意して下さい。取りつけたら、人数分の水を入れた下のパーツと接続します。留め金がありますから、引っかけて斜めにしておいて下さい」
イルは目をキラキラさせてアルフレッドさんの手元を見つめている。まだ準備段階なのに。
「その金属の球は何のためにあるのですか?」
ろ過器の下から垂れているボールチェーン状の金具に目を止めたイルが質問した。アルフレッドさんは水を入れたフラスコの下に小さな魔法焜炉を置いてから答えてくれる。
「これがフラスコの底にあることで、沸騰した状態を見易くなります。それに、これが無いと時々水が爆発するのですよ。器具が古いといっぺんに駄目になる事があります。さて、この焜炉はゆっくりとお湯を沸かしてくれますからその間に豆を挽きましょう」
アルフレッドさんが取り出したのはイルの憧れの塊、ミルである。確かにこれをがりがりやるアルフレッドさんは二度見する程度には様になっているのである。どこからか缶を取り出したアルフレッドさんが豆を秤に乗せた。アンティークな上皿天秤である。
「お好みもございますが、まず標準的な濃度に入れようと思えばお一人分で10グラムの粉を使います。お二人分でしたら18グラムにします。淹れる量と使う量は同じ様には増えないので、注意が必要です」
錘と釣り合いが取れた豆をミルの中に注いで蓋を閉める。ハンドルを丁寧に回し始めた。
「挽く際、勢いがあり過ぎると豆が熱くなります。ゆっくり落ち着いて回すことを心掛けるとよいでしょう。下に粉受け皿があるので、挽き終えたらそこから皿ごと粉を取り出します」
ん、まだ10回くらいしか回していないのにミルの出番が終了した。料理番組のようだが、アルフレッドさんがそんな仕込みをする筈もない、スキルだろうか。
「これを、先程取りつけた漏斗部分に入れます。ああ、丁度良い具合に沸騰しそうですね。……これくらい沸騰したら、漏斗を真っ直ぐになる様に差し込みます。固定されるまで入れてくださいね」
湧き立つフラスコ内のお湯が上の部分に吸いあげられていく。漏斗にお湯が到達したら、アルフレッドさんは木のヘラを取り上げた。
「手早く粉とお湯を馴染ませます。しつこく混ぜてはいけません。くるくると、丸く混ぜるのが良いでしょう」
するりとヘラが抜かれた後の漏斗を横から眺めると、泡の下に粉が浮き、その下に増えていくお湯の層と言った感じで分かれている。素人考えだとよく混ぜた方がよさそうだが、これが正解らしい。
「珈琲豆には、美味しくない成分も含まれます。しつこく混ぜたり、長い事豆を漬けっ放しにしたりすると、嫌な味まで珈琲に出てきてしまいますから。さて、お湯が上がりきってから30秒、私は待ちます。この時間は好みですが1分を超えると概ねえぐ味が出てしまいますから、それくらいを限度だと考えてください」
話しながらアルフレッドさんは焜炉をフラスコから外した。それから再びヘラで漏斗内を混ぜる。1回目よりもさらに軽い手つきだ。
「極僅かに撹拌したら、後は珈琲が下に落ち切るのを待つのみです。漏斗に残った粉がふわんと丸くなって、泡が被さっているように見えたら上手く行ったと思って良いですよ。これで飲んで美味しくなかったのなら、豆の分量を間違ったか、水の選択を間違えたかです」
手で示された漏斗内部には、大福みたいな形の粉が残っていた。上に泡が被っている。これが成功例と言う事なのだな。思わず拍手。お辞儀されてしまった。
「お目汚しでございました。さて、それではカフェオレでございましたね、どうぞ」
いったいいつ牛乳を温めたのかさっぱりわからないが、魔法のようにカフェオレが完成した。いや本当に1分クッキングみたいである。カップも温かいし完全に魔法だ。
「凄い……!ほんとに凄いですよアルフレッドさん!ああ、今日も美味しいです!」
イルもすっかりのめり込んでいたようで、カップが置かれた音でやっと我に返ったらしかった。感動しながら一口飲んで更に感動している。形と中身がアンバランスだよなあ。アルフレッドさんはケーキを出した後にサイフォンを手早く片づけながらも柔和な顔である。
「有難い事ですね。さて、これで一連の流れをご覧に入れましたが如何でしたでしょうか」
ネルを綺麗に洗浄し、水を入れた容器に納めてカウンターの下のどこかに納めてからアルフレッドさんは立ち上がってイルと目を合わせた。
「最初から最後まで見ていて思ったんですが、ちょっと大掛り……ですよね。俺がサイフォンを手に入れたとして、どこで使うのかちょっと想像できなかったです」
おや?興奮しきりだったイルだが、片づけの様子を見ているうちに、少し冷静になったらしい。少し眉尻が下がっている。
「そうですね。確かにサイフォンは持ち運びには全く適していません。取り扱いに注意も必要です。ネルは使用後速やかに冷水に保管し、衛生状態も注意しなければなりません」
そりゃあ、総ガラス製だしね。ネルに手がかかるからペーパーフィルターが現代では主流なんだろうなあと考えながらカフェオレを飲みつつ、私は静観することとする。イルも、気落ちした様子でシフォンケーキを食べた。
「これ、ふわっふわで美味しいです……。そうですよね、ちょっと、超えるべき壁が多いですね……」
いけないなあ、イルが諦めてしまいそうな流れになりつつある。お節介だがちょっと口を出そうか。
「あー、持ち運びに優れた器具なんてありませんか?」
横から私がお邪魔すると、悪戯っぽく笑ったアルフレッドさんと目があった。何だ、最初からそのつもりだったんですね。過保護ですみません。
「ございますよ。サイフォンは、最も見た目の美しい器具です。珈琲を淹れる手順を楽しむ事が出来ます。けれど、もっと気軽にコーヒーを楽しみたい先人達は様々な器具を考え出してくれたのですよ」
「え?」
話に付いていけていないイルがぽかんとし、アルフレッドさんがカウンターの下から一つ道具を取り出した。あ、プレスだ。
「カフェティエール・ア・ピストンでございます。プレス、と言う名前が一般的ですが少し武骨に過ぎるので、私個人はこちらの名前で呼んでおります。使い方はとても簡単です。蓋を取り、挽いた豆を中に入れたらお湯を注ぎ、蓋をして数分待ちます。仕上がりましたら蓋に付いた取っ手を下まで押し込んで、カップに注げば出来上がりです」
本当に簡単である。しゅっとしたポットみたいな形なので取り回しもしやすそうだ。イルはちょっとついていけてないのか、とりあえずシフォンケーキをもう一口食べた。それからカフェオレを飲んで一息。それからやっと、目に力が戻ってきた。
「それなら、俺でも使えそうですね……!どこに行ったら買えますか?」
手をぐっと握ってイルがアルフレッドさんを見上げた。アルフレッドさんは孫でも見るような顔でイルを見返している。そしてまたカウンターの中から何かを取り出した。
「こちらは私が修行の旅をしていたころに使っていた品です。宜しければお持ちください」
カウンターの上に置かれたアタッシェケースを、イルはあっけにとられたように見つめている。アルフレッドさんが止め具を外して中身を見せてくれた。2人分が精一杯の小さなプレスとやっぱり小さなミル、装飾の無い珈琲缶が収められている。このケース、随分丁寧な作りだ。丁度収まるようにきちんと詰め物が入っている。
「い、良いんですか?」
イルがどもったのなんて初めて聞いた気がするぞ。酷く緊張したような様子で尋ねるイルに、頷くアルフレッドさんが答える。
「珈琲を愛する同士が生まれた今、応援もしないようでは私が私に顔向けできません。どうぞ、お持ちください。そしてどこでも珈琲をお楽しみいただければそれでいいのです」
イルが感動し過ぎて、店から出たのはもう夕方だった事を言い添えておこう。なお豆は別に販売しているそうで、煎った豆を缶に収まるだけ購入しました。この辺りは商売人だなあ。




