京都編二④_知らぬことは恥ではない
「廊下は、ほこりが残らないよう隅まで丁寧に掃くこと。門の前は、特にこの家の印象に関わる。落ち葉やごみを決して残さないよう、気を付けるように。
来客があったら、係の者に伝えるように。客室の手入れもきみの仕事だ。
都度、やってもらうことはこちらから声をかける。分からないことは、放置しないで必ず聞きなさい」
それが、平岡さんから受けた私の仕事の内容だった。
頭の中に、その言葉たちをしっかり詰め込んでゆく。やるべきことは多かったが、内容はさほど難しいものではない。
あれやこれやを指示され、ぱたぱたと動き回る。こういう雑務は、嫌いではない。現実では、よく任されていたものだ。ただ無心で、与えられた業務を進めてゆく。
「きみが噂の新入りかい」
呼び止められ、業務的な笑顔を返す。今で何回目だろう。
「男ばかりの場所で大変だろうけど、頑張って」
既に、私の話は皆の耳に入っているらしい。ちらちらと視線を感じるものの、それらに敵意はないように見える。ここは安全だと言った渋沢さんの言葉を、深く理解した。
「ね、きみ。そこの書類を、向こうの部屋に頼む」
何かをし始めれば、こうして小さな仕事を振られる。目が回るな、と思いながらも、それを受け取り速足で廊下を進んだ。
「あ」
急いでいたせいか、周りに目を向けていなかったらしい。曲がり角に差し掛かった時、ぽすんと何かにぶつかった。
「っと、ごめんね、大丈夫?」
顔を上げれば、視界いっぱいの藍色。私が衝突したのは、渋沢さんだった。
謝って、頭を下げる。こんな言い方は良くないかもしれないが、ぶつかったのが渋沢さんで少々安堵した。
「もう馴染んじゃってるみたいだね」
「そうでしょうか」
ここにきて一日目にして、そんなことはないはずだが。
「きみ、来客用の茶を沸かしてくれるかい」
割り込む声のほうを向けば、わたわたと動き回るおじさんが、急須を指さしている。
すぐお持ちしますと急須を持てば、渋沢さんが私を覗き込んできた。
「土間の場所はわかるかな」
「場所はわかりますけど、その」
茶の準備の仕方が分からない。正確には、炊事場の扱いがさっぱりなのだ。
ここには、水道もポットもガスコンロもない。文明の利器がなければ、私は無力である。
「お茶の淹れ方を、教えていただいてもよろしいでしょうか」
恥を忍んで、頭を下げる。お茶さえ淹れられない自分は本当に情けない。穴に入りたい気分になった。
「うん、わかった。おいで」
渋沢さんは即答し、そのまま私を先導してくれる。
何故わからないのか、などと聞かれなくてよかったと思う。じくりと痛む胸を抑え、その背中を追った。
炊事場に着くと、渋沢さんは置かれている大きな陶器のかめをのぞき込んだ。
「水がこの中にあるから、沸かして使ってね。
だけど、水が少なくなってるね。先に補充しようか。井戸から汲まなきゃいけないけど……一緒にやろう」
存在感のあるかめを見やる。確かに水が入っているようだが、中身は半分にも満たない。
井戸から水を汲むなど、初めての経験である。さらに言えば、井戸を見たことすらない。
物珍しさに、興味本位で井戸の中を覗き込む。底は見えず、ただ闇がある。ぽっかりと空いた、穴のようだった。
わ、と思わず声が漏れる。その声は、暗闇に吸い込まれて反響した。
桶を落とし、からからと滑車を鳴らして、紐を引く。引き上げた桶を見れば、中にはほんの少ししか水が入っていない。
「…………」
「まあ……水を汲み上げるのも難しいからね」
あからさまなフォローに、申し訳なくなる。簡単そうに見えるのだが、なかなかコツがいるらしい。
「一回、僕もやってみるね」
渋沢さんは、桶を井戸に落とし、腕をまくる。意外にも筋肉がありたくましい腕である。
同じように桶を井戸に落とし、引き上げる。引き上げられたのは、先程と変わらず、水のほとんど入っていない桶である。
「お、おかしいな」
おろおろしている渋沢さんに目を向ければ、ぱちりと目があう。顔を見合わせて、互いに苦笑した。
「僕、あまりこういうことをしてこなかったんだよね。でも、きっと次は出来るはず……」
「貸してみろ」
再度桶を井戸に入れようとした渋沢さんの手が、止まる。振り返れば、平岡さんがいた。
途端に、身がすくむ。いい人だとわかっていても緊張してしまうのは、不可抗力である。
「これは理屈よりも、実際に見たほうがいい。よく見ていなさい」
言うなり、平岡さんは手早く水を汲んだ。私たちの時とは違って、その桶には並々と水が入っている。
「特に技術はいらん。慣れさえすれば、誰でもできる。きみも、すぐにできるようになるだろう」
見よう見まねで何度かトライしてみると、なんとかいい具合に水を汲めるようになってきた。
ほっと、息をつく。一応働かせてもらっている身からすれば、できないことは極力減らしていきたい。
充分な量の水を汲み、かめに注ぎ込む。半分にも満たなかった水量が、八分目ほどまで溜まった。
それにしても、大きい陶器である。人ひとり入れそうなほどに見える。
ふと、手を止める。どこからか猫の鳴き声が、聞こえた気がした。それは、このかめの中からのような。
かめの中を伺う。視線が、静かに波打つ水面に吸い寄せられる。
時が止まったような感覚。猫の鳴き声、水のはねる音。
不意に、息苦しさが身を襲う。泡の音が、ごぽりと鳴った。
私は、溺れているのだろうか。かめの中に落ちてしまったのかもしれない。
溺れて、もがいて、沈んで、そして――
「どうしたの?」
その声に、はっと意識が戻る。
止まっていた息を、大きく吸い込む。私は水の中にはいないし、溺れてもいない。
心配そうに私を覗き込む渋沢さんに、首を振る。今のは、何だったのだろうか。
しかしそんなものはどうでもいい。今は与えられた仕事をしなければならない。
「火の起こし方も、教えていただけると……」
「……かまどを使ったことがないのか」
恐縮して、身をすくめる。できないことばかりで、本当に申し訳ない。
「すみません」
「謝る必要はない。知らぬことは、何も恥ではない」
結局、火の起こし方や食器の洗い方まで、何から何まで教わってしまった。それでもまだ分からないことが多そうだと、気が沈む。
「追加で僕たちのお茶を入れよう。きみも、朝からずっと動きっぱなしだったでしょう。そろそろ休憩しよう」
言われてから、体の疲労感に気づく。時計がないので今が何時かはわからないが、それなりに時間が経っているらしい。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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