出会二③_慶喜様に爵位を
空気を振るわせて、元気な歌声が響き渡る。
燦々と照る太陽の下、ウメちゃんのリサイタルである。
せっかくのいい天気だ。家の中に籠ってばかりの勉強では、つまらないだろう。
言語を覚えるには、歌もぴったりだと思い、一曲教えたのだ。効果があるかはわからないが、ウメちゃんはるんるんとリズムに乗り、楽しんでくれているらしい。
記憶の片隅に残った、懐かしい曲。なりたい人になるよね。頑張る人がいいよね。そんな歌詞で、ウメちゃんに似合う曲だと思う。
「一緒に歌お」
躊躇いながらも、おずおずと歌詞を口ずさむ。人前で歌うことは苦手だが、ここにはウメちゃんしかいない。
歌は好きだった。流行りのものは全くだったが、よく祖母のラジオを借りて、流れる曲を聴いていた。
埃ひとつない黒いラジオ。スピーカーから流れる、少しひび割れた音楽。
あのラジオは今、どこにあるのだろう。実家にあるかもしれないし、もう捨てられてしまったかもしれない。引越しの際に持ち出しておけばよかったと、後悔した。
「素敵な歌だね」
ぎょっとして振り返る。そこには、黒いモーニングに身を包んだ男がいた。
「渋沢のおじさま!」
「やあ、ウメちゃん。元気にしてたかな」
黒く丸い瞳に、朗らかな笑顔。人の警戒を解くのに充分すぎるほど、その雰囲気は柔らかい。
「はじめまして。びっくりさせてごめんね。
僕は渋沢って言います。よろしくね」
私も名乗り、差し出された手を握る。酷使した証か、その手はごつごつしていた。
「きみは、伊藤さんの奥様、かな」
「違うよ。お姉ちゃんは、私のお友達」
「そうだったの。ごめんね、勘違いして」
思わず苦笑いになる。他人から見れば、そう見えることもあるのだろうか。
「伊藤さんにご用?」
「俺なら、ここにいるよ」
いつの間にいたのか、伊藤さんがにこやかに渋沢さんへ手を差し出していた。
「渋沢さん、ようこそ」
「突然お邪魔して、すみません」
「どうぞ中へ。話を聞きましょう」
「いえ、今日は近くを寄ったので挨拶にと思って」
「顔に書いてありますよ。俺に、話したいことがあると」
伊藤さんが目を細めて指摘すれば、渋沢さんは少し困ったように眉を下げた。
「参ったな、伊藤さんに隠し事はできないみたいだ」
渋沢さんは真剣な顔つきをして、シルクハットを脱ぐ。
「少し、伊藤さんに相談させていただきたくて。長くお時間をいただくつもりはないので、立ち話で大丈夫です」
ウメちゃんと顔を見合わせ、そっと一歩下がる。なんとなく、大事な話だろうと思ったからだ。
「相談したいのは、慶喜様のことです」
「また、いつもの慶喜公がどれだけ素晴らしいお方であるかの演説ですか」
「違いますよ。僕、そんなに慶喜様のことを話してましたか?」
慶喜と聞けば、思い浮かぶのは一人。
「もしかして、徳川の……」
「Right.(そうだよ。) ショーグンだった人」
伊藤博文に出会ったかと思えば、次は江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜。この世界には、大物しかいないのだろうか。
「単刀直入に言うと、慶喜様に爵位をお授けしたいんです」
「ほう」
「慶喜様は、間違いなく素晴らしいお方です。国のことを、僕たち国民のことを一番に考えて、行動してくださっていました。幕府が終わる最後の時まで、無用な争いを避けようとされていました。そして、新しい日本のために、自ら辛い道をお選びになったんです。
なのに、慶喜様は今でも、世間から厳しい目で見られていますよね。こんなに悲しいことはありません」
現実味のないその話を物語を見るように聞く。
今この時代での徳川慶喜は、幕府崩壊後で立場がなく、身を潜めている頃なのだろう。
「ですから、慶喜様に爵位をお授けし、民衆の誤解を解きたい。ゆくゆくは、政治にも復帰いただきたいんです」
ヒートアップしてゆく渋沢さんの声。彼の真剣さが、びりびりと伝わってくる。
「慶喜……様は、やっぱり悪い人だと思われているのかな」
呟けば、ウメちゃんは頷いて答える。
「慶喜様は、幕府の人だから。政府は、幕府が嫌い」
たとえ善行でも、敵側からみれば悪行になる。立場が変われば、評価は変わる。
私は、慶喜が何をしたのか、詳しくは知らない。だが、少なくともこの世界では、彼は悪人だ。
「山縣さんにも相談したんですけど、取り合ってくれなくて」
「まあ、山縣さんはそうでしょうね。
事情は分かりました。では、できる限りの協力をしましょう」
「え、いいんですか」
「何故、渋沢さんが驚くんです?」
「そんなにあっさり引き受けてくださるとは思わなくて」
伊藤さんは、政府の人間である。であれば、確かに不思議に思う。
政府の人間であれば、幕府の頂点にいた将軍は敵であり、少なからず警戒してもいいと思うのだが。
「率直に言うと、俺は彼に敬意を抱いているんです。
というのも、この間、慶喜公と話をする機会がありまして。俺は、大変無礼ながら、慶喜公に長年の疑念をお尋ねしてみたんです」
「それって……」
「ええ、他でもない大政奉還……江戸幕府が完全に崩れたときの話です。
慶喜公は戦わず、政府に恭順の意を示した。何故、幕府を守るために最後まで戦わなかったのかが、ずっとわからなかった。だから、それを尋ねたんです」
直接、本人にそれを尋ねるとは。なかなか肝が据わっていると言うべきか。
「慶喜公は、俺の無礼な質問に、淀むことなく答えました。
『特別な考えがあったわけではありませぬ。私は、天皇陛下に忠誠を誓っている。朝廷とは決して争わぬ。争うことなどあってはならぬ。いかなる場合においても朝廷に弓を引くことあるべからず、という親に教えられたこの言葉に、ただ従ったまでのこと。知恵のないやり方で、恥ずかしい限りだけれどね』、と」
歌うような伊藤さんの声に、まだ見ぬ慶喜がそれを口にする場面が思い浮かぶ。
「いくらでも、それらしい理由をつけて、自分を正当化することはできたはずだった。でも、慶喜公はそうしなかった。俺は、彼のまっすぐな心意気に、感銘を受けたんです」
「慶喜様……」
「慶喜公は、尊敬に値するお方ですよ。敵対していた俺から見ても、彼は日本のために尽くした人物だと思います。
ですから、慶喜公に爵位をお授けすることに俺も賛成です。慶喜公が、早く日の目を見るようになればいいですね」
渋沢さんは頷いて、その顔をほころばせた。
「伊藤さん、本当にありがとうございます」
「しかし、これはすぐにとはいきませんよ。なかなか、周りの理解は得られないでしょう。積み重なった人の意識は、そう簡単に変えられるものではないので」
「重々承知しています。でも、これで一歩前に進めました」
もし、渋沢さんの言う通り、慶喜が国のために努力した人なのだとしたら。私も、慶喜という一人の人間が報われてほしいと思う。
「今日は、お話を聞いてくださってありがとうございました。今後のことは、また追って相談させてください」
「ええ、今日はお会いできてよかったです。次にいらっしゃったときは、コーヒーの一杯でも飲んでいってください」
「はい、その時は是非。伊藤さんも、また僕の家に来てくださいね。
ウメコちゃん、きみもまたね。今度機会があったら、ゆっくり話そう」
渋沢さんは長いコートを翻して、足取り軽く去ってゆく。
「渋沢のおじさま、さようなら」
渋沢さんが去ると、庭は先程よりも静かになる。代わりに、鳥が上品に歌う声がBGMとなった。
「私、渋沢のおじさま好き。優しくて、いろんなお話聞かせてくれる」
「ああ、あれは稀に見るいい人だよ」
雰囲気は柔らかく一般人に見えたが、伊藤さんと気さくに話せる仲ということは、普通の人ではないのだろう。
消えてゆく背中を眺めていると、肩を叩かれる。伊藤さんである。
「きみたち、時間はあるな。出かける準備をしてくれ」
「おでかけ!」
「色々、必要なものがあるだろう」
伊藤さんの視線は私に向いていて、私がここで生活するためのものを買いに行こうと言っているのだと理解した。
「でも」
私はここに長居するつもりはない。ゆえに、私物を増やすつもりはない。
「言っただろう、遠慮は無用だと」
「行こう」
ウメちゃんの屈託のない笑顔に、頬が緩む。
夢はいつ覚めるかは分からない。ならば、楽な方へ流れればいい。
せめて、今だけは。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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