出会二②_日本を代表する教育者に
「頑張っているみたいだな」
扉の開く音。振り返れば、伊藤さんがコートを脱ぎながら、軽い足音と共に部屋に入ってきていた。
「たくさん教えてもらってる」
ウメちゃんは、聞いて聞いてと言うように身を乗り出す。
相槌をうちながら、伊藤さんは興味深げに机の上の本を見た。
「本を使って勉強か。思いのほか本格的で驚いたよ。ウメは、まだ読み書きまでは十分に学べていないからな。助かるよ」
「いえ、私、文字もろくに読めなくて」
「What?(本当?) お姉ちゃん、読めてたよ」
騙しているような気分になり、気後れする。それを紛らわすため、少しの嘘を交えながら言葉をこぼす。
「読めないんです。この本は昔に習ったので、それを思い出しながら読んで……」
「なら、大した記憶力だな」
首を横に振る。褒められればそれだけ、罪悪感が付き纏う。
「きみがいてくれれば、ウメの日本語もすぐ上達するだろう。これからもよろしく頼む」
「……はい」
「きみも文字を学びたいなら、支援するぞ。きみなら、すぐに覚えられるだろう」
おもむろに頭を下げる。学びたい気持ちは、ないこともない。
これまでできていたことが、全くできなくなることは辛い。文字が読めなければ、生活は不便極まりないはずだ。
「何を読んでいたんだ」
伊藤さんは身をかがめ、書物を覗き込む。
本を閉じて表紙を見せれば、ぴたりとその体が固まったように見えた。
「『学問のすゝめ』、か」
気のせいだろうか。
伊藤さんの目が、悲しそうな、懐かしそうな、悔しそうな。そんな色を映した。
しかしそれは一瞬で、その顔はすぐに余裕を滲ませる顔に戻っている。
「いい本じゃないか。先生を目指しているウメには、ぴったりだな」
「うん。たくさん頑張って、先生になる」
伊藤さんは満足そうに頷き、ウメちゃんと私に小箱を手渡す。
「頑張り屋さんには、ご褒美だ」
ぱっと顔を明るくしたウメちゃんが、早速小箱を開ける。中には、黒く艶やかに光る粒が並べられていた。
「チョコレート……」
「いいの?食べていいの?」
「ああ」
「わーい」
一つ口に入れたウメちゃんは、満面の笑みでそれを味わう。美味しそうに食べる子だ。
「好き、これ!」
美味しそうに食べる姿というのは、人を幸福にさせる効果でもあるのだろうか。自然と頬が緩んだ。
まじまじとウメちゃんのおやつタイムを眺めていると、不意に、二人の視線が私に向く。その意味を理解し、おずおずと小箱に手を伸ばす。
「いただきます」
小箱を開くと、ふわっと広がる甘いカカオの香り。眩暈がするほどの誘惑である。
つるりと光るチョコレートを一つ手に取り、口に含む。
甘みとわずかな苦み、そして海外のチョコ特有のパフュームのような香り。心の尖っていた部分が、チョコと共に溶かされたような気がした。
「美味しいです」
「……ほう、これは」
にこにことした二人の視線に耐え切れず、目を伏せる。
「いろんなものを買い与えたくなるな」
「伊藤さん、じじくさい」
「こら、そんな日本語を覚えるんじゃない」
呆れたように笑いながら、伊藤さんは空いている席に腰掛ける。休憩の流れだと察して、手元にあった本を脇に寄せた。
「ウメちゃんは、どうして先生になりたいの?」
「父上が、アメリカに行って英語を勉強してくれって、私にお願いしたから。ちょっと怖かったけど、家のために行くしかなかった。
そうするしか、なかった」
チョコを食べる手が止まる。
彼女は、最初から留学したかったわけではなかったのだ。
家族に言われるがまま、敷かれたレールの上に乗る。それはとても楽で、息苦しい。
「でも、だんだんわかった。アメリカは楽しいし、素敵。日本の人に、外の国のことを教えることが、私の役目。たくさん勉強して、勉強したことを広める」
すごいな、と思う。
ウメちゃんは、現代ではまだ高校生の年齢である。それなのに、すでに自分のやるべきことを理解し、実行しようとしている。
私などとは、全く違う。
「ウメには、日本を代表する教育者になってほしいと思っている。そのためにも、日本語ができないといけないんだ。日本語ができないとなると、なかなか貰い手がなくてな。
なにせ、外国人はたくさんいる。日本語のできない日本人より、ネイティブを雇いたい人が大層だ」
同じ教員でも、日本人と外国人では給料も比べ物にならないと、伊藤さんは言う。日本語と外国語ができて初めて、スタートラインに立てるらしい。
「なれるかわからないけど、頑張る。私、このままじゃダメだから」
「……大丈夫だよ。ウメちゃんなら、なれるよ」
そもそも、先生になりたいと思えることが、すごいことなのだから。
「何年も頑張ってきたんだから、絶対に結果になる。絶対、ウメちゃんは素敵な先生になる」
そうで、あってほしい。
私は、何者にもなれないから。
私の過去は変わらないし、未来も見えない。私はもう、なりたかったものにはなれない。
しかし、彼女は違う。可能性に満ちた、輝く未来がある。
「大丈夫だよ、ウメちゃんなら」
保障などない。ただの気休めである。
それでも、この言葉で背中を押すことができるのならば、何度でも言おう。
「私、頑張れる気がする。ありがと、お姉ちゃん」
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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