出会一④_根拠なんてない
眠れない。
何度目かの寝返りを打ち、ため息をつく。
一向にやってこない睡魔は、どこへ行ってしまったのか。夢の中で眠れないなど、変な話である。
私は、いつ目覚めるのだろう。いつ日常へ帰ることができるのだろう。
落ち着かない。考えれば考えるほど、思考が急降下している。
観念して、ベッドから起きる。眠れないのにただ天井を睨みつけることほど、虚しいものはない。
水でも貰いに行こうと、明かりのろうそくを手に、そっと部屋の扉を開けた。
静まった暗い廊下。ろうそくの炎が揺れ、振り返る。
と、不意に、肩を掴まれた。
思わず口から悲鳴が出そうになるのを、寸前で止める。目を凝らしてみれば、その人は家の前で見張りをしていた男性だった。
「この時間に、何か御用で」
何もやましいことはないはずだが、こうして問われると委縮してしまう。水を貰いに来ただけだと伝えるが、その疑惑の目は晴れない。
「何かあったか」
暗闇の中から届く声。
「明かりが見えたから来てみたが。成程、お嬢さんは眠れなかったんだな」
この家の持ち主が、私の肩を引き寄せる。ふわっと香る、洒落た香水のにおい。
「きみ、あまり客人を責め立ててはいけないよ。ここは問題ないから、下がっていいぞ」
「しかし、伊藤様」
「女には優しく接しような」
男はもの言いたげな顔をしていたが、すぐにこの場を離れる。
思っていたよりも緊張していたようで、どっと力が抜けた。
「ご迷惑をおかけして、本当にすみません」
「何も悪いことはしていないんだから、気にしなくていい。環境が変わったんだから、眠れなくなるのは当然のことだよ」
伊藤さんはそういうが、夜更けに他人の家を徘徊していた私が悪い。これ以上迷惑をかけないようにしようと、心に決めた。
おいで、と肩を抱かれたまま、椅子の前まで連れられる。いちいち距離の近い人である。
「よく眠れるハーブティーがあるんだ。味も悪くないし、どうだ」
「伊藤さんも、眠れないんですか」
「いや、俺はさっき帰ってきたところなんだ」
随分と遅い時間まで働いているらしい。私も仕事人間だが、この人もそうなのだろうか。
手際よく準備されてゆくポットやティーカップ。ただ眺めていれば、次第にすっきりするような、甘くとろけるような、不思議な茶葉の香りが広がった。
「どうぞ、レディ」
ティーカップに注がれたハーブティーは、ろうそくの光を受けて揺らめく。そっと口に含めば、爽やかな香りと暖かさが全身を包んだ。
「伊藤さん」
「うん?」
「……いえ、何でもないです」
伊藤さんの目が問うようにじっと私を映し、口を開いたことを後悔した。
「俺に聞きたいことがあるようだな」
もう、だんまりを決め込むという選択肢はない。観念して、胸に沸いている疑念を口に出した。
「私は、ここにいて、本当に大丈夫なんでしょうか」
「何か、不満でもあるのか」
不満など、あったとしても言える立場ではない。伊藤さんもそれをわかっているだろうに、意地悪である。
「ここに置いていただけるのは、本当にありがたいと思っています。けど……」
相手の気を悪くしない言葉を、頭の中で選ぶ。
「……ここは、普通の家ではないように見えます」
「ほう?」
「お洒落すぎるというか、何というか……警備もついているし」
疑念を口に出せば、なんだそんなことかと、伊藤さんは笑う。
「それはそうだ。ここは、日本初の総理大臣になる男の家だからな」
「…………」
「特にこだわりはないんだが、そんな男がぼろぼろの家に住んでいたら、面子が立たないだろう」
伊藤さんは、何を言っているのだろう。
「俺のことを知らないか?伊藤博文と言えば、それなりに知れ渡る名前なんだが」
その名は、教科書で見たことがある。明治の日本で内閣総理になり、憲法を作った政治家。
しかし。
「私の知っている伊藤さんとは、違うように思います」
「そうか」
目を細めて、伊藤さんはどこか楽しそうに笑う。その顔をじっと見つめてみるが、やはり教科書に載る人物とは思えない。
「自分で言うのもなんだが、ここは過ごしやすい場所だと思うよ」
「だからこそ、です。私のような怪しい人間を置いていい場所には、思えません」
「きみは随分、心配性なんだな。そんなことは、気にする必要はない。きみはきみ自身を怪しいと言うが、俺はきみが悪い人間ではないと判断した」
何故、そう言い切れるのだろう。
「根拠なんてない。ただの勘だ」
何も言えずに黙る。これほど、堂々と勘だと言い張る人は、初めてである。
「それに、たとえきみが悪い人間だったとしても、その時はその時だ。きっと、なんとかなるからな」
「それも、勘ですか」
「ああ」
驚くというより、呆れの感情でため息が出る。
「そんな顔をするな、これは信じられる勘だよ。今まで、何とかならなかったことはなかったんだぜ」
なんとポジティブな思考だろう。常にネガティブ思考の自分に、分けてほしいほどだ。
「だから、きみには堂々とこの家にいてほしい。俺のためにも」
伊藤さんのため、とは。
「俺は、きみのような途方に暮れている子を……見ないふりできない性分なんだよ。俺は、きみの力になりたくてたまらない」
あまりにもまっすぐに、彼の言葉が私に降りかかる。
「ここできみを手放せば、俺は一生後悔することになる」
大袈裟な、という言葉を飲み込む。その顔は、真剣だった。
「だから、負担だとか迷惑だということは考えるな。帰れる算段がつくまで、ここにいろ。もちろん、きみさえ良ければ、だがな」
私に選択を委ねているが、その言葉には有無を言わさぬ響きがある。
だが、それは私にとってはありがたいことではある。無理に出ていこうとは、考えないことにした。
「改めまして、よろしくお願いします」
「ああ。ウメも、きっと喜ぶよ」
ウメちゃんの笑顔が目に浮かぶ。
今でこそ受け入れられているが、日が経つに連れ、私は重荷になるのではないか。
「きみは、表情で言葉を喋っているみたいだな。きみの考えていることが、手に取るようにわかる。悲観的であることは、慎重という長所にも置き換えられるが。あまり行き過ぎると、逆に相手に負担になることもある。
ウメと、たくさん話すと良い。ウメがどんな人間かを知れば、きみの懸念するようなことはないと分かるよ」
諭すような彼の言葉は、心を読まれた気まずさと共に染みる。
相手の思考など分からない。分からないことは、不安を呼び起こす。
だからこそ、相手のことを知るべきなのかもしれない。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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