帰還編一③_神の一員にならないか
「きみが、渋沢だな」
不意にかけられた声。振り向くと、そこには大柄な男がいる。
「慶喜公はお元気だったかな」
鋭い瞳、固く結ばれた口、この世界では珍しいスーツ姿。
「僕は渋沢で間違いありませんが、何か」
警戒するには十分すぎる。
栄一さんは私を隠すように、前に出た。
「俺は、明治政府の大隈である。きみに会いたかった」
ぴりっとした空気。何故、政府の人間が。
「明治政府のお方が、幕府の人間であった私に、どのようなご用でしょうか」
これほど冷たい栄一さんの声は初めてだ。思わず、彼の羽織を強く掴む。
「警戒する気持ちはわかるが、俺に敵意はない。きみを捕まえるつもりもない。だから、その手を下ろしてくれ」
見やると、栄一さんは左手を刀に触れさせていた。
そっとその手は降ろされたが、その表情や声が、目の前の人を拒絶している。
「要件を、お願いします」
「単刀直入に問おう。これから、明治政府の一員として働く気はないか」
さらりと告げられた言葉は、私にとっても信じがたいものだった。当然、栄一さんは私よりも衝撃を受けたはずである。
「こちらが無礼な提案をしていることは承知である。しかし、新政府は人材が不足している。俺たちには、きみが必要なのだ」
幕府を崩壊させたのは、新政府である。つまり、この人は、敵対していた政府へ協力をしろと言っているのである。
「……申し上げさせて頂きますが。慶喜様は政権をご返上されましたが、何百年も徳川御家の政治が続いた今、幕府の他に政治を行える者はいません。発足したばかりの新政府が、たちまち正しく国を治めることができるとは、僕には思えません」
「だからこそ、きみのような優秀な人材が欲しいのだ。きみの幕臣時代の活躍は、よく耳に入っている。きみは特に、金に関しては心得があると見受けているから、租税の職についてもらいたい。きみの力を、政府のために発揮してほしい」
栄一さんの羽織を掴んでいるから、わかる。
体が、震えている。
「私は幕府に仕えていた身であり、慶喜様を裏切るようなことはしません」
だんだんと、栄一さんの声が大きくなる。押さえつけていた感情が、溢れだす。
「あなたたちが、慶喜様をあのような姿にした。あなたたちが、平九郎を、平岡さんを殺した」
ぽた、と瞳から何かが零れる。
私は、泣いていた。
平岡さんがいなくなり、平九郎くんもいなくなり、私たちの居場所もなくなった。どこへも向けることができなかったやるせなさが、政府の人間というものを見つけてしまったのだ。
あなたのせいで。そう思う気持ちを止められないのは、栄一さんも私も同じだ。
それが不毛であることは理解している。理解はしているが、感情が追いつかない。
ざり、と砂を踏む音。顔を上げれば、そこには深く下げられた大隈さんの頭があった。
「すまなかった」
この人は、今何と言ったか。なぜ、この人は頭を下げているのか。
「その点に関しては、詫びよう。多くの被害を出してしまったこと、そして今もなお戦いが完全に収束していないこと、謝罪する」
溢れ出ていた涙は止まった。
栄一さんも、何も言わない。
「慶喜公が早々に撤退したおかげで、死人は抑えられたとはいえ、甚大な被害が出たことは事実である。誰の命も、等しく尊いものだ。なくなってよかったものなどない」
人の命は軽い。しかし、軽くあってはならない。
平岡さんの言葉が耳元で響いた。
「謝って済むことではないことも承知している。ただ、政府の人間として、きちんと謝罪させてほしい」
『仕方がなかった』と、そう言えばいい。それが日本のためだったと、正義を振りかざせばいい。
しかし、この人はそうしない。
政府側も、多くの人が傷ついたはずである。今も戦いが続いているのは、幕府が抵抗しているからである。それでもこの人は、それについて言及しない。
きっと、そこには善悪がないからだ。
ただ思想が異なっただけで、どこにも悪者などいない。正解のない世界で、ただ自分の思う道を進み、ぶつかった。
私たちは、同じ国を思う、国民なのだ。
「一つの区切りを終えて、これから日本は生まれ変わる。八百万の神々が集まり、新たな国を創るのだ。
新しい日本を創る、神の一員にならないか」
「……しかし」
「きみは、慶喜公を裏切りたくないと言ったな。だが、国を繁栄させることこそ、慶喜公が望んでいたことではないのか。
明治政府では、それができる。きみの力を存分に発揮できる場所がある。きみが政府で日本の発展に貢献すれば、それはすなわち、慶喜公の望んでいたものになると考えるが……きみは、どう思う」
揺れる、栄一さんの黒い瞳。大隈さんは、的確に相手が否定できない言葉を並べている。
「しかし、私に政治の経験はありませんから、務まるとは思えず……」
「政府は今できたばかりだ。経験のある者などいない。誰もが、初めての経験だ。
きみこそ、この国を牽引していく存在だ。きみの力が、必要なのだ」
風が吹く。激しく耳鳴りがする。
大きく揺れたのは、木の枝か、もしくは。
たっぷり時間を使った後、栄一さんは振り絞るように声を出した。
「考えさせて、いただけますか」
「ああ、勿論。返事はすぐでなくとも構わない。本当は、明日にでも仲間になってほしいところだが」
背を向け、大隈さんはひらりと手を振った。
「良い返事を待っている。きみが来てくれることを、心待ちにしているよ」
大隈さんが去った後、しばらくは何も言えなかった。
嵐が去った後のようだと思う。先程まで吹き荒れていた風は、今は存在しない。
「あの人は、すごいと思う。他人に自分の意見を通すっていう難しいことを、軽々とやってる」
自分の発言に対する絶対的な自信。その態度に、私たちはきっと怯んでしまったのだ。
「ねえ。僕はこれから、どうすればいいんだろう」
大隈さんの言うことは、わかる。もっともな事しか言っていない
「でも、政府は、敵だ。幕府が完全にいいものだったとは言えないかもしれないけど、政府がいいものだとも僕には思えない。
許せない。許せる、わけがない」
簡単には割り切れない。それが心だ。
憎しみ、悲しみ、混乱。それらが、栄一さんの思考を霞ませる。
「……きみも疲れたでしょう。とりあえず、今日はもう休もう」
緩やかに吹く風。どこかで鳴く鳥の声。
ぐらりと、地面が揺れる。誰かが私の名を呼ぶ声がする。
これから、どうすればいいんだろう。それは、私も考えなければならないことである。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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