帰還編一②_徳川の世は終わった
はっと、目が覚める。私の傍に停まっていたらしい小鳥が、空高く飛んで行った。
少しの間、うつらうつらとしていたらしい。旅の疲れが出ているのだろう。
今、私は栄一さんと共に静岡にいる。謹慎している、徳川慶喜に会うためである。
京都や江戸と比較すると。人の往来は少なく、静かである。鳥の鳴き声が、透き通って聞こえる。
栄一さんは、一人で慶喜様のいる屋敷へと向かった。私は面会できるような立場ではないため、こうして帰りを待っている。
あれから、随分時間が経っている。そろそろ戻ってくるだろうか。
「遠いところから、わざわざようこそ。大したもてなしはできないけれど、ゆっくりしていっておくれ」
私たちを敵視することなく、村の人は優しく対応してくれる。その温もりのおかげで、私たちは立てている。
「慶喜公は、静かな方なんだね。この近くにいても、声ひとつ聞いたことない。まるで、存在しないみたいだ」
息を潜め、空気に同化する。時が経つことを、ひたすらに待ちながら。
「きみは、慶喜公に仕えていたんだろう。慶喜公は、どんな人なんだい。あれは、悪い人なのかい」
私には、正解はわからない。
「反幕府……政府から見れば、悪い人なのかもしれません。
でも、少なくとも、私にとっては。悪い人ではありませんでした」
そして、栄一さんにとっても。
どこにも正解はない。そこにあるのは、ただの結果だけである。
そして、その人の評価を決めるのは、結果の先にある未来の人間だ。未来の人間である私には、結果を見届ける義務がある。
「お待たせ」
待ち望んでいた声に、腰を上げる。走り寄る栄一さんのその顔は、晴れない。
村のおじさんは、一つ礼をして去っていった。私たちに気を遣っているのかもしれない。
「どうでしたか」
「とりあえず、無事なことは確認できたから、それはよかったんだけど。なんて言えばいいか。一言にできそうにないから、僕たちのやり取りをそのまま話すね」
栄一さんは、ぽつりぽつりと慶喜様の状況を伝えてくれる。
「狭くて、薄暗い部屋だった。お供もいない。お髪もお召し物もぼろぼろで、ただ一人お座りになっていた。それが、今の慶喜様の立場だった」
『パリへの随行、ご苦労だったね。おぬしが、費用のやりくりや諸国の知識の吸収に尽力してくれたことは、聞いている』
『慶喜様、まさかこのような形でお目見え申し上げることになるとは……これは、あまりにも……』
『渋沢、徳川を惜しむようなことは、決して、申してはならぬ。私は政府に従う。新しき時代は、新しき人々が作る。
徳川の世は終わった。私が、終わらせた』
『……申し訳、ございません……』
『私は今、何よりも、おぬしが無事に帰ってきてくれたことを心より嬉しく思っている。パリは、どうであったかな。おぬしの話を、聞かせてはくれぬか』
「これが、慶喜様の今の姿だよ。
慶喜様は、最後に僕に微笑んだんだ。だから、僕は、もっと胸が苦しくなった」
国のトップから引きずり下ろされた、徳川幕府最後の将軍。彼は、どんな気持ちで、この世界を見ているのだろう。
「慶喜様は、たくさん国のために頑張ってきたんだよ。なのに、こんな結果になるなんて。
……結局、慶喜様が何を思っていたのか、分からないままだな。失礼だとは思ったけど、幕府崩壊の時にどうして戦わなかったのかをお尋ねしたんだよ。でも、答える気はないみたいだった」
『このようなことを尋ねるのは無礼と重々承知していますが、一つ確認させてください』
『慶喜様は、戦わず敵から逃げたと聞きました。それは、本当なのでしょうか。なぜ、戦い続けなかったのですか』
『ここにあるのは、結果だけ。”何故”など、意味はない。
私は逃げた。幕府のために戦おうとする臣下を置いて、逃げた。それが事実であり、ただそれだけのこと」
『……慶喜様』
『おぬしの従弟の尾高についても……本当にすまぬ。あのようなことになる前に防げなかったのは、私のせいだ。私には、謝罪する資格すらもない』
『いえ、いえ、そのようなことをおっしゃらないでください。誰のせいでもない。誰の責任でも、ないんです』
『……渋沢。おぬしは、ずっと生きていてほしい。何があっても、生きてほしい。その温かくまっすぐな魂が失われることを考えると、怖い。決して、失くしたり、奪われたりしないでほしい』
『僕は、生きます。生きて、慶喜様のお側にいます』
『渋沢。おぬしは、もう自由だよ。これからは、私の臣下という立場ではない所で、学んだものを活かしてほしい』
『慶喜様……』
『おぬしの主としての、最後の願いだ。願わくば、この国のため、手を尽くしてほしい。おぬしが働く場に困らぬよう、手配は進めている。
どうか、これからも息災で』
「慶喜様は、もしかすると……いや、仮定の話をしても仕方がない」
今の慶喜様には、何を発することも許されていない。彼ができることは、静かに息を殺して、ただ時間が過ぎるのを待つことだけ。
「とりあえず、慶喜様の命があったことだけは、確認できてよかったと思う。それ以外は最悪だけどね。幕府はもうない。もう僕は幕臣じゃない。
今の僕は、何者でもない」
立場があやふやな時ほど、不安なことはない。この世界に来た時の私のように。
「これから、どうするんですか」
「とりあえず、水戸に行く。慶喜様から、昭武様へのお手紙を預かってるから届けに行かないと。
仕事をどうするかは、その後決めるよ。この際、お百姓に戻るのもいいかもしれないね。慶喜様は、僕に仕事をくれる手配をしてるって言ってたけど。ものによっては、受けられないよ。
僕が仕えるのは慶喜様だけだもん」
栄一さんは私とは違う。栄一さんは、自分の居場所を見つけられる人だ。
そして今の私は、栄一さんについて行くことしかできない。
「また、帰る場所がなくなっちゃったね」
栄一さんの手を握る。互いの存在を、少しでも感じられるように。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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