帰還編一①_生きてさえいてくれたら
「僕たち……帰ってきたんだね」
控えめに鳴く鳥の声、湿った風。体で日本を感じ、肩の重荷を下ろしたような気分になった。
レンガの建物もガス灯もない。ここにあるのは、ただ自然のにおいだけである。
日本人としての血のせいか、それとも、この世界に馴染みすぎたのか。私の世界ではないのに、帰ってきたと感じる。
振り返れば、青々とした海が静かにたゆたっている。この広い海を渡ったのだと思えば、感慨深い。
「長かったような、一瞬だったような。変な気分だよ」
栄一さんは、海から目を離さずに呟く。
「ねえ、僕たち……夢を見ていたわけじゃないよね。日本とは違う、技術や制度。あれは、全部、本当にあるんだよね。あの国は、存在しているんだよね」
ごつごつした手を、ぎゅっと握る。ここは、夢の中ではない。
国も、栄一さんも、そして私も。ここに、確かに存在している。
「迎えに来てくれた幕府側の人に、少し話を聞くことができたよ。今の日本の状況だけど、フランスで聞いた情報は正しかった。
幕府は、反幕府軍……新政府に倒された。戦いの中で、幕府軍には大きな被害が出た。激しい戦いの中で、いろんな人が傷ついたらしい。
もし、そのときここにいたならって、考えずにはいられないよ」
歴史の境目は、この目で見ることはなかった。
海外にいたおかげで、私たちは戦いに巻き込まれることはなく、その悲惨さも目の当たりにしていない。それは、よかったと言えるものなのだろうか。
「ごめん。今考えても、しょうがないよね。まずは、みんなが無事か、確かめに行こう」
それなりに活気のあった京都の町は、今は静かである。
焼け野原になっているというわけではないが、ここで何かあったのだと、漂うその空気が思わせる。知っている町並みのはずが、別の場所に迷い込んできたような感覚に陥った。
「慶喜様は、政権を全て返上された。もう幕府には、権力はない。
いや、幕府自体、もうない。幕臣も、多くが命を落とした」
一橋家の屋敷でよく面倒を見てくれていたおじさんが、私たちを迎え、日本を離れていた間に起きたことを教えてくれる。
「この辺りはまだましだが、伏見のほうは、新政府軍と激しく戦ったせいで被害が大きい。すでに幕府は終わったが、まだ抵抗している幕府軍の残党もいる。君たちも、巻き込まれないように気を付けたほうがいい。
政府に逆らうような言動は避けるように。すぐに捕まり殺されるぞ」
「あの、慶喜様は……」
「慶喜様は、静岡で謹慎されている。詳しいことは私にもわからん」
どうしてこんなことに、と小さくつぶやく声。
全てが、パリへ行く前と変わってしまっている。ここには、以前までの私たちの居場所はない。
「それから、尾高の平九郎という者は渋沢の従弟だったな。一つ、お前に伝えなければならないことがある。」
「平九郎が、何か」
嫌な予感に気づかないふりをして、言葉の続きを待つ。
少しの間の後、放たれた言葉は、嫌な予感を裏切らないものだった。
「尾高平九郎は、戦死した」
は、と口から空気が漏れる。
脳が、理解することを拒んでいる。
平九郎くんが。またね。そう言って笑っていた彼が。
なぜ。どうして。頭の中でぐるぐると回る、空っぽの疑問。
「尾高平九郎は、幕府のために政府軍と戦った。最後は政府軍に追い詰められたが、殺される前に自決した。あれは、賞賛すべき人生だった」
「賞賛……?」
栄一さんの口から漏れる、震えた声。
「そんなもの、死んだ後に何の意味があるんですか」
抑えきれていないその感情は、怒りか、悲しみか。激情に揺れる黒い瞳は、私の胸に針を刺した。
少しの沈黙。誰も、何も言えない。
「……頭を、冷やしてきます」
屋敷の外へ去る背中を、ためらいながらも追いかける。
渋沢を頼むよ、と後ろからおじさんの声が聞こえた。
いつも頼りにして、縋っていた背中。広いそれが今は、触れれば、壊れてしまいそうな。
手を伸ばしかけて、止める。今は、どんな言葉もかけるべきでない。
「平九郎は、小さな頃から正義感が強かった」
震える声。血が滲みそうなほど、きつく握られた手。
「……わかってる。わかってるんだよ。僕は平九郎とずっと一緒にいたんだ。平九郎のことは、全部わかるんだ。
誰かのために、日本のために、何かを成し遂げたい。平九郎は、ずっとそんなことを考えてた。静観するより、戦うことを選んだ。選んだのは、平九郎なんだ」
怒りや戸惑い、栄一さんの様々な感情が伝わってくる。
「平九郎の気持ちはわかる。僕も、パリじゃなくて日本にいたら、きっとその道を進んでたよ。同じことを、していたはずだ」
その選択は、正解ではないのかもしれない。
しかし、間違ってもいない。
「……それでも。それでも、僕は!」
栄一さんが、こちらに目を向ける。
その瞳は揺れており、今にも、崩れてしまいそうで。
「……平九郎に、生きてほしかった。日本の外にはこんな世界があったよって、話したかった。一緒に、日本の成長を見届けたかった。
ただ、生きてさえ、いてくれたら」
視界が滲む。脳が揺さぶられているように、くらくらする。
元気でね、と手を振った平九郎くんの笑顔が、浮かんでは消える。
きみの人生が、楽しく明るいものになることを願ってるよ。今でも、その声を鮮明に思い出せる。
もう会えないのだと。じわりじわりと実感となる。
「そろそろ藍の収穫時期じゃないか。お前がいなくて……どうするんだよ」
平九郎くんも。平岡さんも。この時代によって、命を散らしてしまった。
時代の節目には、戦いや犠牲がつきものであるという。私の世界は、多くの犠牲の上に成り立っている。
私には、それを否定することはできない。この命は、犠牲の上に生まれたものなのだから。積み上げられた足場を踏みしめて、立たなければならない。
たとえ、どれだけ辛くても。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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