パリ編二②_何がどうなってるの
万博もひと段落し、あちこち走り回る多忙な日は過ぎた。海外の生活にも慣れ始めたのか、幕府一行の緊張感はそれほど感じない。
何もしない時間も増えた。いわゆる、中だるみというものなのかもしれない。
そんな中で、栄一さんはせっせとノートに数字を書き込み続けている。
「栄一さん、これは」
「帳簿だよ。お金の支出と収入をまとめてるんだ」
羅列された数字たちは、見ているだけで拒否反応が出そうになる。
「日本からの送金が、遅れ気味なんだよね。節約できるところは節約しなきゃ。まだ、すぐに足りなくなるってことはないと思うけど。株で増えた分があるから」
栄一さんは、この国で学んだ資産運用を、いつの間にか実践しているらしい。行動と吸収の速さには、いつも驚かされる。
「渋沢は、金の管理に長けているのですね」
昭武様も栄一さんのノートを覗き込み、感心した様子を見せた。
「いえ、そんなにお褒め頂くほどのことでは」
ひとつ呼吸を置いて、栄一さんは真剣な顔になる。椅子に座り直し、その頭が下げられる。
「昭武様、一つご相談なのですが……今宿泊している宿は、少し金額が高めなので、宿を変えさせてはいただけないでしょうか」
「そんなことできるわけがないだろう。日本の代表として来ているのに、みすぼらしい宿になんか泊まれやしない」
聞いていた一人の幕臣さんが、割って入る。栄一さんとの視線が、ばちばちと火を放つ。
「おっしゃることはわかります。しかし、このままでは資金が尽きてしまいます」
「そこを工面するのがお前の仕事だろう」
「固定費を削減するのが一番確実でしょう」
二人の声にどんどん熱が入ってゆく。
ヒートアップの気配を感じたところで、ぽんと手をたたく軽い音がそれを中断させた。
「互いの言い分はわかりました。
ここは、渋沢に任せましょう。渋沢が会計係なのですから、彼の判断に従うべきです」
「昭武様……」
「私も、宿を変えることに異論はありません。日本の状況もわからず、仕送りもない状況では、なりふり構っていられません」
昭武さまがそう言えば、それは決定事項である。幕臣さんは了承し、少しばつが悪そうに席を外した。
昭武様のためを思って行動しているのは、皆同じである。
「渋沢、そなたにも手間をかけますね」
「いえ、私が至らずに彼を説得できず、申し訳ございません」
「そんなことを言わずに。私は、そなたを本当に頼りにしています。ここには、そなたのように金を管理できる者はいない。皆、武士ですから」
武士は商人のようにお金の勘定をしない。それも、この世界での普通である。
「渋沢、その才能は誇ってよいものです」
栄一さんの顔に、ぱっと花が咲くような笑顔が咲く。
「ありがたきお言葉、ありがとうございます!これからも、お役に立てるよう努めます」
褒め上手と褒められ上手。私も嬉しくなって、頬が緩んだ。
しかし喜びもそこそこに、栄一さんは再度帳簿とにらみ合いながら、うんうんと唸る。
「候補の宿はいくつか見つけてあるんだけど、どれにしようか悩んで……」
栄一さんの言葉が途切れる。突然、部屋の扉が乱暴に開けられたからだ。
新聞を握った幕臣のひとりが、息を切らして、部屋に弾丸のように飛び込んでくる。
ただごとではない。この場にいるみんなが、そう感じた。
一つ息を詰まらせた後、彼の震える唇が開かれる。
「幕府が……崩壊した、と」
その言葉は、絶望的な響きをしていた。
ついにこの時が来たのかと、妙に冷静な頭が悟る。江戸幕府が、徳川の時代が終わる。
「それは、いつのことですか? 被害の状況は?」
「分からない、分からないんだ、何も。新聞には、これ以上の情報は」
「……慶喜様は、どうなったの?」
しんと、部屋が静まる。ここにいる誰もが、最悪の状況を頭によぎらせているのだろう。
「不確かな情報だが」
絞り出されたような、掠れる声。
「慶喜様は、敵を前に逃げ出したと……」
「逃げた……? 慶喜様が……?
一体、何がどうなってるの」
わからない。何も。ネットがない世界では、すべての情報が遅い。
私だけが知っている、今日本で起こっているであろうこと、今後の顛末。私はそれを口には出せない。
そして、それが本当になっていないことを、今でも願っている。
「すぐに帰らなきゃ。帰国の手配をしましょう」
「渋沢。今は、帰る時ではありません」
昭武様のその一声に、部屋の中が静まる。
「何故ですか。早急に戻り、状況を確認しないと」
焦れたような栄一さんに対し、昭武様の声は冷静である。
「日本からは、帰国の指示がない。つまり、それは、我らはこの場にとどまるのが良いという兄上の考えがあってのこと。
人には、それぞれ役割がある。我らは、我らに課せられた任務を、遂行するべきででしょう。今は、日本に戻ったところで、我らにできることはありません」
「…………承知、いたしました」
昭武様は、静かに部屋を出てゆく。その背中を追いかけられる人はいない。
「昭武様、落ち着いているように見えたけど、そんなことなかったみたい」
ぽつりと、栄一さんが呟く。
「昭武様、爪が食い込むくらいに、拳を握りしめてた。辛いに決まってるよね。身内の安否もよく分からない状況で、平気でいられるわけがない。日本に帰りたいと一番思ってるのは、昭武様なんだ」
その胸の内を思うと、苦しい。これほど、日本を遠いと感じたことはない。
「慶喜様もきっと、辛い思いをされている。でも、今は駆けつけることはできない。だから、今僕たちにできることをしなくちゃ」
今すべきこと。
それは、この国で知識を得て、日本に持ち帰ることである。
帰った時に、それを役立てる場がなくなっているかもしれないとしても。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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