パリ編一④_私のやるべきことは
工場や病院、日本にはまだない技術が、ここにはある。
渋沢さんは、大量にメモを取りながら、全てを頭に入れようとしている。
「きみは、フランス語を話せる?」
首を横に振れば、渋沢さんは通訳さんをちらりと横目に見た。
「フランス語、勉強しようかな」
言葉の壁は大きい。一つ簡単な会話をするだけで、労力が要る。
学びたいという欲求の強い渋沢さんにとっては、思うように知識が吸収できずに、もどかしいものかもしれない。
「うん、決めた。僕、フランス語を覚えるよ」
「いいと思います、とても」
言語の習得は難しいが、それだけの価値はあると思う。
「ねえ、あれは何かな」
不意に、渋沢さんが地面を指さす。そこには、丸い蓋がある。
通訳のお兄さんは笑って、どこか自慢げに説明を始める。
「あれは、マンホールです。この道の下には、下水が流れているんですよ」
「下水……」
「日本では、家庭に水道はないでしょうか。
綺麗な水をいつでも使えて、使い終わった水は地下に流す。不自由なく、水が循環できる仕組みです」
なるほど、と頷いた渋沢さんは、お兄さんに笑顔を向ける。
「下水を見ることって、できますか」
突拍子のない発言に、思わず目を見張る。
できないことはないですが、と案内人のお兄さんも戸惑っている。それでも、可否を確認し、マンホールを開けてくれた。
「ありがとうございました。とても勉強になりました」
空気がおいしく感じ、深く呼吸を繰り返す。
薄暗く湿った下水道は、その場にいるだけで体を悪くしそうな雰囲気があった。
「固いコンクリートで水の道を作って、集めて流す……こんなことができるんですね。地下にあるから、邪魔になることもないし、画期的だよ」
メモに文字を走らせる渋沢さんは、実に生き生きしている。そんな顔を見れば、あの薄暗い空間に勇気を出して入った甲斐があったというものだ。
「私も下水道に入ったのは初めてでしたよ。
あなたは変わった人だ」
さすがに、案内人のお兄さんも苦笑している。それでもここまで丁寧に付き合ってくれるお兄さんは、本当にいい人である。
「その明かりの火、全然消える気配がないですね」
渋沢さんが、お兄さんの持つランプに興味を移す。ランプは、ゆらゆらと淡く光を放っている。
「これはオイルランプなので、すぐには消えないですよ」
「油で長持ちさせているんですね」
「ランプといえば、あちらをご覧ください」
お兄さんの指差す方を見上げれば、映画に出てくるようなおしゃれな街灯が並んでいる。
「これはオイルランプとは違って、ガス灯と言います。夜には光が灯って、美しいですよ」
「……本当に、すごいものばかりだ。日本に取り入れることができたら、どれだけ効果が出るか。早く、慶喜様にご報告したい。
日本を変える。変えていかなきゃいけない、僕たちが」
渋沢さんは、日本を変える。日本の未来は、渋沢さんが作ってゆく。
日が差す。風が吹く。
どこまでもまっすぐに突き進み、道を切り開く。
なんて、眩しいのだろう。
誇らしく、頼もしく、こんなにも嬉しいのに、ただ一滴。一滴だけ、零れる寂しさ。
この感情は、何だろう。
足が止まる。耳元で私を呼ぶ声がする。
音が消える。足元が揺れる。
「きみはこれから、どうするんだい」
どこからか聞こえる、初めて聞くような、懐かしいような声。
私は。
絞りだした声が喉に詰まる。
「日本に無いものばかりだなあ」
渋沢さんの声に、ふと我に返る。
夢から醒めたような感覚。静かな海に包まれるようなあの空間は、もうない。
「これから、僕らの宿に行くんだって。どんなところだろうね」
曖昧に返事して、後ろを振り返る。
耳に残る、私を呼ぶ声。ぎゅっと、唇を噛む。
私の、やるべきことは。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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