パリ編一②_日本は変わるよ
「この黒い水は、一体……」
香ばしい匂いを立てているカップを、恐る恐る覗き込みながら、渋沢さんは問う。
「焦げてない?焦げた水じゃない?」
「これは、コーヒーという飲み物です。少し苦いかもしれないですけど……」
船員さんたちが用意してくれたコーヒーは、渋沢さんの目には妙なものに映っているのだろう。
渋沢さんだけではなく、他の幕臣のおじさん方にとっても同じのようで、怪訝な顔である。誰も、カップを持とうとしない。
確かに、初見であれば、真っ黒な液体を差し出されれば驚くのも無理はない。
「そういう飲み物なんだね。見た目はちょっとびっくりしたけど、ほうじ茶みたいに香ばしくていい匂いだね。
きみは、コーヒー好き?」
頷けば、渋沢さんは恐る恐るカップに口をつけた。
「にがい……けど、美味しい。これが外国の飲み物なんだね」
言葉は通じなくても、コーヒーを出した船員さんには伝わったのか、船員さんは頬を緩めた。
「泥水のようなものを、よく飲めるものだ」
幕臣たちは気味の悪いものを見るような目である。
未知のものを口に入れることが怖いのはわかる。私も、見知らぬ国の料理は、気軽に食べられない。
「ねえ。こっちの白いのは何?」
「これは、バターです。パンに乗せて食べると美味しいですよ」
「すごい、初めての味だ。とっても美味しい」
さまざまな食品を口に入れて舌鼓を打つ渋沢さんに、そっと問う。
「……怖くないんですか?知らないものを口に入れるって」
周りの幕臣たちの反応のほうが、普通だと思う。
だが、渋沢さんだけは違う。
「日本の中でも、地域によって食べるものは違う。それは外国でも同じだし、見たことがないものがあるだろうってことは予想してたからね。
それに、元々食べることは好きだし。
パリについたら、いっぱい美味しいものを食べようね」
楽しみだという気持ちを隠しこともなく、渋沢さんは笑う。
飛行機ではない、初めての船旅。正直、不安だった。
しかし、そんなものは、彼の笑顔に照らされ溶けて消えてしまった。
こうして、船での生活がしばらく過ぎた。
旅は、正直辛かった。
波の高い日は、吐き戻し一日中起き上がれないことも多々あった。
そんな旅も、終わりとなれば趣深い。賑やかなフランスの港が、手が届く位置にある。
ゆっくりと焦らすように、船は岸へ停泊する。外国特有の、どこか華やかな香りが空気に漂っている。
下船の準備をしていると、港のほうからパンっと乾いた音が弾けた。
何の音かと考える前に、渋沢さんは私の手を引いてその背中に私を隠す。その間にも、無数に大きな音が響いた。
「銃声?」
硬い声で渋沢さんは呟いたが、それは違う。私には、この音に聞き覚えがあった。
「Soyez le bienvenu!」
高らかに上がる歓迎の声。舞い落ちる紙屑。
私たちの周りを囲む人たちの手には、カラフルなクラッカーが握られている。
にこやかに距離を詰められ、幕臣たちは圧倒されているようだった。
一人の代表らしい男が、昭武様に手を差し出す。昭武様は、恭しくその手を取り、笑みを浮かべた。
「我々をこのように歓迎いただき、大変うれしく思います」
たった一言、凛とした声。ただそれだけで、この場の空気が変わった。
「さすがだね……」
堂々たる振る舞いの日本の代表は、この場にいる誰よりも美しく見えた。
「短い間にはなりますが、どうぞよろしくお願い致します」
長年にわたり、外国との関係を断っていた日本。今この瞬間、二国の間に距離なんてものはない。
この場にいる誰もが、確信した。
「日本は、変わるよ」
一歩ずつ。
いや、全速力のスピードで。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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