パリ編一①_やるなら全力で
岸が見えなくなってから、どれほどの時間がたっただろうか。見渡す限りの、深く青い水面。
あれよあれよという間に出航の日となり、今は海の上である。
潮風はべたついており、照りつける太陽は暴力的で、優雅な船旅とはほど遠い。
だが、不思議と嫌ではなかった。うるさいほどの波の音は、飽きることがない。
いつかどこかで見た映画、ミッドナイトインパリを思い浮かべながら、甲板を一周する。船には、幕府の重役たちと、案内役の外国人が数人。
幕府のお役人たちは、しかめっ面で床に座っている。渡航は気乗りではないのか、外国人の船員たちと一切の交流を図ろうとしない。
対して渋沢さんは、見るものすべてに対して興味津々のようで、言葉が通じないながらも懸命に船員とコミュニケーションを取ろうとしている。
「渋沢さんは、どんな状況でもひるまないですね」
「そうかな。これでも、緊張はしてるんだよ。でも、どうせ後には引けないから、やるなら全力でやろうと思って」
これを、肝が据わっているというのだろう。
笑って、渋沢さんの傍による。揺れる船でも、渋沢さんがいれば、安定する気がする。
「きみが、渋沢ですか。兄上より、あなたの話は聞いています」
凛とした声。
気品のある少年が、海に反射した光を受けて輝く瞳をこちらに向けている。
一目でわかった。この少年が、徳川慶喜の弟君、徳川昭武なのだろう。
深く頭を下げる渋沢さんに倣い、私も礼をする。
「こたびの渡航に同行してくれたこと、感謝します。何かと苦労をかけるかと思いますが、どうかよろしく頼みます」
高貴さに当てられ、どきどきと心臓が緊張の音を立てた。
「お役に立てるよう、力を尽くします」
渋沢さんの言葉に満足そうに頷き、昭武様はその目を細める。私より一回り若いはずなのに、貫禄がすごい。
「そなたも」
突然、こちらに声をかけられ、思わず息を止める。
「そなたのことも、兄上から聞いています。毎日、よく働いてくれていると。慣れぬ旅で辛いと思いますが、どうか無理のないように」
ふわりと澄んだ香りを残して、昭武様は船内に戻ってゆく。その香りは、どこかでかいだことのあるような。
ふと、一人の男が脳裏に浮かぶ。
時折縁側に座って私を見ていた、羽根を手渡してくれた、雨の中庭に佇んでいた、どこか儚げな美しい男。
まさか、と冷や汗が背中を伝った。
「慶喜様は、元気かな。将軍になってから、お姿をお見かけしてないんだ」
幕府は、もうすぐ崩壊する。この世界で、私だけが知る未来。
慶喜は、自ら望んで将軍になったのだろうか。それとも、ならざるを得なかったのか。
どちらにせよ、これから辛い人生になるであろうことは変わりない。
「昭武様のためにも、慶喜様のためにも、頑張らなきゃね」
今はただ、仲間の一員として、役に立ちたいと思う。
そっと、海へ目を向ける。
乱反射して波立つ水面は、生き物のように思う。
役に立ちたい。その気持ちは本物である。
しかし、それが私の役目なのかという疑問はある。
海の中から響く声。私を呼ぶ、とても温かな。
「きみにとって、一番大事なものは何だい」
一番、大事なもの。
問いかけようとして、はっと我に返る。目の前にはただ広大な海があるだけで、誰もいない。
さっきの声は、何だったのだろうか。
不思議と、恐怖はない。あの声は、懐かしさを感じさせるものがあった。
誰なのか。どこで聞いたことがある気がするが、一体どこで。
ずきりと痛む頭。頭を振って、考えることを止める。
今は、先のことなどわからない。
だから私は、今ここで出来ることを。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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