江戸編四③_もういないのだね
雨の音がする。
いつの間に眠っていたのか。体が重い。
名を呼ばれ、石のような頭を上げれば、傍にいた渋沢さんが私の手を掴んだ。
「大丈夫? 覚えてないかな。急に倒れたんだよ」
そうなのか、とぼんやりした頭で考える。
沼に落ちているように、意識がはっきりしない。
「……心配したよ」
きつく、抱きしめられる。その息苦しさで、私はまだ生きているのだと思い出した。
「辛い、ですね」
大切な人を失うことほど、絶望的なことはない。
「平岡さん……」
呟く渋沢さんへ腕を伸ばし、そのふわふわな髪に手をやる。
「きみまでいなくなったら、僕は……」
「私は、ここにいます」
今は、まだ。
「攘夷の過激派に、やられたんだって」
滝のような雨が、地面を打ち続ける。
雨のカーテンが部屋を包み、この空間だけが切り取られているような。
世界に取り残された、たった二人。寄せ合った肩から伝わる体温だけが、この世界にある温もりだ。
「なかなか外国を追い払うことをしないから、攘夷派が痺れを切らした。攘夷をしないように平岡さんが慶喜様に働きかけてると思ったらしい」
慶喜様の側近である平岡さんを討てば、攘夷が活発になる。実際は、そんなことはないというのに。
「安直な考えで、平岡さんは殺された」
意見が通らなければ、力で押し通す。それが、この時代のやり方。
人の命は、こんなに軽くていいものなのだろうか。
人の命は軽い。だが、軽くあってはならない。
「……本当に、いなくなっちゃったんだね」
実感はない。悪い冗談だとしか思えない。
平岡さんがいなくなった今、ここには何もない。あるのは、ただ喪失感のみ。
これが、死だ。
「もし、僕が平岡さんに拾われていなかったら……僕も、平岡さんを襲ったやつらと同じことをしてたんだろうな」
その呟きは、雨の音に溶けて消えた。
「渋沢」
静かに障子が開く。おじさんである。
「平岡様の葬儀や今後について、話しておきたい」
渋沢さんは、何かあったら呼んでねと言い残し、部屋を去っていった。
訪れる静かな空気。ただ地面を打つ雨の音。
ぼんやりと畳を見る。
ついこの間まで、ここに平岡さんは座っていたのに。会話することができていたのに。
『知らぬことは、何も恥ではない』。『いつもよく働いてくれている。これからも頼む』。『選択肢の一つとして。俺の養子になる道も用意しておこう』。『お前はここでなくても、どこでも上手くやっていけるだろう。お前の未来は、いいものになる』。
止めどなく頭の中で再生される、平岡さんの声。
ようやく収まったかと思っていた涙が、またじわりと溢れる。
もう一度会いたい。こんな別れは、あまりにも理不尽である。
こんなことがなければ、今頃再会を喜んで、今日までのことを報告して、楽しい時間を過ごせただろう。
無意味だとわかっているのに、もし彼が生きていたら、と考えるのを止められない。
「風邪を召されてしまいます、どうか中へ……」
部屋の外の声に、意識が現実に戻ってきた。何やら、ぱたぱとした足音が耳に入る。
目元を乱暴にこすって、立ち上がった。
襖を開けると、数人の使用人さんが庭でそわそわとしていた。
まだ雨の勢いがやまない庭には、赤い染みの前に、一人の男がたたずんでいる。
それは、落ち葉を掃く私を見ていた、私に羽を渡した、あの男だった。
いつも気品がある、儚げで美しい男。今の彼は、簡単に壊れてしまいそうな。
「屋敷の中に戻るようにお願いしているのですが……あのように、あの場を離れないのです」
若い女中さんが、心配だと嘆く。
雨に打たれるその背中から伝わってくる、大きな悲しみ。ぎりっと、胸が痛んだ。
縁側を降り、素足のまま庭に足を下ろす。周りから戸惑うような声が聞こえるが、振り返らない。
足の裏の砂利の固さ、全身に降りかかる雨の冷たさ。何故か、心地良さすら感じる。私も、雨に打たれたかったのかもしれない。
一歩ずつ、男の傍に寄る。雨の音は大きいはずなのに、無音のように感じる。
「……戻りましょう。みんな心配しています」
「すまぬ」
俯いたままの男が、小さく言う。
「すまぬ……」
雨に溶けて消える謝罪。
思わず、彼の濡れた手を握る。氷のように冷えたそれを両手で包み込めば、男が顔を上げ、ようやく目が合った。
戻りましょう、と再び言うと、重ねてすまぬと返答があった。今回のそれは、私に向けてのものだろう。
男の手を引いて屋敷の中へ戻れば、心配そうに見守っていた人たちは男を取り囲み、甲斐甲斐しく世話を焼き始める。やはり、この人は偉い人だったんだなと思いながら、雨を吸った髪を絞った。
やがて、男は湯でも浴びるのか、使用人さんたちに連れていかれる。彼の濡れた髪や着物から滴った雨水が、床に跡をつけていた。
「髪、しっかり乾かしてくださいね」
遠くなった背中にそう伝えると、その足が止まる。
「もういないのだね、私の髪を結う者は」
わずかに聞こえたその呟きが、やけに耳に残った。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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