江戸編四②_こんなことって
往路と違い、帰り道はさほど苦ではなかった。
体が慣れたのか、任務をきちんとこなせたという自負があるからなのか。足取りは軽い。
行きと変わらない景色。違うのは、往路よりも確かに縮まった渋沢さんとの距離。
他愛のない会話を時折交わし、ひたすらに歩く。やがて、見覚えのある街並みへ到着した。
「やっと帰ってきたね」
一橋家のお屋敷は、記憶の形のままそこにある。そこでようやく、戻ってきたのだと実感した。
中に足を踏み入れようとして、つんのめる。腕を、強く引かれたせいである。
何事かと伺えば、渋沢さんは緊張した面持ちで、屋敷に目をやっている。
ただならぬ雰囲気。
どうしたのかと尋ねようとした口が、渋沢さんの大きな手で塞がれる。
混乱する頭が、鼻についた嫌なにおいを感知する。このにおいは。
手足が震える。理解したくないと、頭が拒んでいる。
「きみはここに……いや、僕から離れないで」
うるさく鳴る心臓を抑えつけながら、渋沢さんの背中に続く。
そして、庭に足を踏み入れた私たちの目の前に広がったのは。
「……これは」
思わず口を覆う。
綺麗に整えられた庭にはあまりにも釣り合わない、赤黒い染み。そのおびただしい量は、人生で一度も見たことのないもので。
「……何が、起こってるの」
「襲撃があったのだ」
体が飛び上がる。
しかし、振り返ったその場にいたのは見覚えのある姿で、ほっと息をついた。
このお屋敷で働いているおじさんである。
「奴らを取り押さえ、ようやく一旦落ち着いたところでな。おまえたちが巻き込まれなくてよかった」
おじさんの着物も、べったりと赤いペンキで塗られたよう染みがある。おじさんは怪我をしているようには見えないので、それはきっと他の誰かのものなのだろう。
「それにしても、でかい損失だ。あの方がいなければ、ここは……」
「誰が……やられたんですか」
おじさんは悲しそうな、哀れむような、そんな目でこちらを見る。
それは、当たってほしくない嫌な予感を湧き起こす。
「平岡様だ。平岡様が敵の刃を受け、お亡くなりに」
「…………」
ぽたりと、雨が一粒、地面に落ちる。
「平岡さんが……殺された……?」
「馬鹿なことをしてくれる」
今、彼は、何と言ったのだろう。聞こえているはずなのに、聞こえない。
「まさか……そんな」
平岡さんが、殺された。
その一言は、どこか夢の中で聞いているように、現実味がない。
庭に広がるあの血は。
かつて誰の体を巡っていたものであったのか、考えたくもない。
「遺体は、向こうにある。燃やす前に、最後の挨拶を済ませておきなさい」
「なんで……」
渋沢さんが口を閉じる。
私も、口を開くが、空気が漏れるだけで、言葉は出なかった。
屋敷の奥にある、薄暗い一室。そこに、横たわる平岡さんがいた。
刀を受けたそのままの状態ではないようで、着物が血に染まっているということはなく、その身なりは整えられている。
青白い肌にぴくりとも動かない体。どこか作り物のようで、マネキン人形のような。
眠っているのとは違う。生きていないのだという、残酷な直感。
ここにはもう、私の知る平岡さんは、いない。
平岡さん、と呼びかけるが声にはならず、ただ喉から空気が漏れる。
「こんなことって……」
次第に、足が震える。冷や汗が出る。
この感覚は、覚えている。私は以前にも。
それは一体、いつ、どこで。
「……人は、死んでから少しの間は、声が聞こえているらしい」
おじさんが、抑揚のない声で言う。その声は、頭の中の声と重なって響く。
「最後に伝えておきたいことがあれば、今のうちに」
昔、同じ言葉を投げかけてきたのは。
広い背中から目をそらす。お父さん。
私は「あの時」、魂の抜けた体にどんな言葉をかけただろう。
頭に声が響く。頭が痛い。
もっと一緒にいればよかった。もっといい子でいればよかった。
「おいていかないで」
平岡さん。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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