江戸編四①_帰ろう
「すごいよ、栄一兄さん。志願者がこんなに増えるなんて」
分厚くなった名簿を撫でる。その後、瞬く間に奉公を希望する人は増え、当初ぺらぺらだった名簿帳は、今では様変わりした。
「渋沢さんの人望ですね」
「いや、平九郎ときみが協力してくれたからだよ」
渋沢さんは否定するが、希望者が多く出たのは、渋沢さんの人柄の良さによるものだろう。渋沢さんだからこそ、みんな協力したいと願い出たのだ。
「栄一兄さんには、たくさんの仲間を集める力がある。ほんとにすごいことだと思うよ。栄一兄さんは、ほんとに自慢の兄さんだ。栄一兄さんの弟に生まれてよかった」
「大袈裟だよ。でも、本当にありがとう。思ったより時間を使っちゃったから、もう京都に帰らなきゃいけないけど……」
眉を下げた栄一さんが、じっとこちらを見る。私の記憶が戻らなかったことで、引け目を感じているのかもしれない。
大丈夫というように首を横に振る。少し残念ではあるが、あくまで仕事のついでだった。戻らないものは仕方がない。
思えば、京都を発ってから、移動を含めてそれなりの日数が経ったはずだが、ほんの数日しか経っていない気がする。多くの人と触れ合ったからだろうか。この場所にそんなに執着はないはずだが、離れることとなると、若干の寂しさが湧く。
「僕は、血洗島に帰るよ。そろそろ、家の手伝いをしなきゃ」
「もしかして平九郎、おじさんたちの許可を得ずに江戸に来てたの?」
「そんなことないよ、ちゃんと許してもらったもん」
ここで、平九郎くんとはお別れらしい。途端に、なんとも言えない寂しさが沸き上がった。
「栄一兄さん、いつでも帰ってきて。みんなで待ってるから」
次は、いつ会うことができるのだろう。スマホがない今、気軽に連絡を取ることもできない。
ただでさえ、私はいつ元の世界に帰るかわからない。今後、一生会話する機会もないこともあり得る。
これは、明確な「別れ」だ。
「お姉さんも、またね」
元の世界では、気軽にまたねと返せただろう。
しかし、今は。
何も言えない私に、平九郎くんは小さく笑みを零す。そしてこちらに寄り、耳元で優しく言葉を紡いだ。
「兄さんをよろしくね。きみの人生が、楽しく明るいものになることを願ってるよ」
そして、頬に触れるぬくもりと小さなリップ音。
数秒後、状況を理解して顔が真っ赤になった。
「平九郎っ!」
「えへへ、栄一兄さんばっかりずるいんだもん」
声を上げる渋沢さんをゆるりとかわし、平九郎くんは身軽に砂利道でステップする。
「二人とも、元気でね!」
足音と共に消えてゆく背中。その姿が見えなくなるまで、ただ黙ってそれを見送った。
「まったく、平九郎は……」
「私は、気にしていませんよ」
なんとなくわかる。あれは、しんみりしないための行動だった。
怒っているような渋沢さんを鎮めようとなだめれば、逆効果だったのか、渋沢さんはこちらに詰め寄った。
「きみも少しは気にしてよ。いや、気にするのも嫌なんだけど」
どっちなんですか、と渋沢さんに目を向ける。 怒っているような、焦っているような、そんな顔だ。
渋沢さんがそのような状態のため、既に私は冷静である。
「まあ、戯れみたいなものですから」
「きみは、誰にでもちゅーされてもいいの?」
「そんなことは……」
「僕がしたときも、平然としてたし」
聞き捨てならない言葉に、顔に血が上る。
「あれは事故でしょう」
「なら、しよう。今ここで」
とんでもないことを言わないでほしい。
腕を掴まれ引かれる。距離が近い。
まさか、本気で。
「なんてね」
揶揄うような声に、はっとする。
「ひ、ひどい」
「ごめん。きみが顔を真っ赤にしてるのが可愛くて」
恥ずかしさが爆発して、渋沢さんの腕を叩く。ぱすぱすと、軽い音が鳴った。
「本当は、しようと思ったんだけど。無理矢理はよくないからね」
これ以上はやめて欲しい。心臓が持たない。
「ごめん、許してよ。
さあ、僕たちも行こう」
渋沢さんは、私の手を引いて歩き出す。じわりと伝わる体温が温かい。
「……また、長旅になりますね」
京都から江戸までの旅は、体力のない私にとってはそれなりに辛かった。もう一度あの旅が始まるのだから、気分を入れ替えなければならない。
「きみの記憶を取り戻せなかったことが、心残りだけど」
いや、何も得なかったわけではない。少しだけ、私の記憶の一部を、見つけることができた。
「平岡さんに、早く報告したいな」
厳しくも優しいあの顔が、脳裏に浮かぶ。気付かないうちに、私は随分と彼に懐いてしまったようで、早く会いたいと思う。
今回の滞在で、名簿をひたすら書いたおかげで、文字を書くのも多少上手くなった。
上手くなった文字を見せればきっと、口ではまだまだだと言いながら、不機嫌そうな顔で牡丹餅を用意してくれるのだろう。
「帰ろう、京都に」
家のない私にとって、あの場所は私の居場所である。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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