江戸編三④_期待させないで
大量の鯛と共に、岸へと戻る。
船が縄で固定され、ようやく海から陸へと帰ってきた。
正直、渋沢さんとの件が大きすぎて、時間の感覚が狂っている。長い間船に乗っていたような気がするが、一瞬だったような気もする。
地に足が就けば、この揺れた心も元通りになるのではないか。そんなことをぼんやりと考えた。
「さあ、気を付けて降りてくださいね」
船に足をかけ、地面へ足を下ろそうとした、その時。
体がぐらりと傾いた。
「あ」
風など吹いていないのに。
平衡感覚がなくなった体が、まるで誘われるように、青い、暗い水の中へと吸い込まれる。
弾ける泡。殴るような水の音。ごぽりと、口から空気が漏れる。
息ができず、ようやく焦りはじめる。海底へ引きずり込もうとする波にあらがおうとするが、上手く体が動かない。
ごうごうと鳴る波の音。どこかで、猫の鳴く声がする。
ふと、私は死ぬのだろうかと思った。
ならば、別にそれでもいいのではないか。突然、何もかもがどうでもよくなった。たとえ死んだとして、何も変わらない。
猫の声が、私を肯定するように響く。
誰も困らない。悲しまない。
なら、早く死ぬのが賢いのかもしれない。
あがくのを止める。無理を通そうとするから苦しいのだ。
目を閉じ、ただゆっくりと、暗がりの中に落ちてゆく。
『きみを必要としている人は、たくさんいる。』
不意に、優しい言葉を思い出す。
違う。そんなことはない。
私に、期待させないでほしい。生きる意味を、与えないでほしい。
このまま、気持ちを残さず消えることができたら、どれだけ幸せか。
どうか、このまま。私の気持ちも体も、全てを沈めさせて。
どうか。どうか。
不意に、体が強い力で腕を引かれる。瞬きする間もなく、気づけば私は水面へ引き上げられていた。
思い出したように、体は酸素を求めて激しく咳き込む。これではまるで、釣り上げられた魚だなとぼんやり思う。
顔を上げれば、滲む視界に渋沢さんがいる。
夢から覚めたような感覚。私は、生きている。
「大丈夫?」
その顔を見て、その声を聞いて。何故か、涙が出た。
私は、彼のこれからを応援したい。彼の行く末を見届けたい。私はまだ。
死にたくない。
「よかったよ、無事で。このあたりは浅くてよかった、もっと深かったら……
……いなくならないで、お願いだから」
あなたは、私が必要だと言う。こんな私を、好きだと言う。
「……どうして」
こんなにも、苦しくなるのだろう。まるで、水中で溺れているかのように。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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