江戸編二①_ない、よ
「栄一兄さん、さん、こっちだよ」
朝日を浴びながら、こちらに大きく手を振る姿は、非常に眩しい。低血圧の私には、その輝きが強く感じた。
私も、朝一番からあれほど元気に行動したいものである。
今いるのは、江戸から近い、一橋の領土にある小さな村である。木々が生い茂り、畑が広がっているため、空気は草の匂いであふれている。
「この村の人たちとは、少し喋ったことがあるんだ。きっと、力になってくれるよ」
尾高さんの軽い足取りに合わせて、鳥が鳴く。
「お姉さん、関東は初めてかな」
曖昧に頷く。150年ほど先の世界では、この近辺に住んでいたのかもしれない。
不思議な気分になる。今吹き抜ける風も、空に浮かんでいる太陽も、はるか先の未来のものと同じである。
「ここはいい場所だよ。せっかくだから、満喫してほしいな」
私は、いつ帰れるのだろうか。この太陽が何度も昇った先にある、私の世界へ。
「まずは、この村のお役人に声をかけなきゃね」
村の中でも大きめのお屋敷に向かい、足を踏み入れる。
お役人は日焼けした黒い顔を引きつらせて、大げさなほどにへこへこと頭を下げて、私たちを招き入れた。
町で浴びた、周りの視線を思い出す。若干の不安が、頭をかすめた。
渋沢さんは屋敷の奥に通され、尾高さんと私は別室に通され、待機することになった。私たちは一橋家の家臣ではないのだから、当然と言えば当然である。
「兄さん、大丈夫かな」
尾高さんは畳の上に胡坐をかきながら、出された茶を飲む。
尾高さんも、私と同じように、不安を覚えている。スムーズに事が進めば良いのだが。
少しの沈黙。煎茶の香りと、外から漂う草の匂い。
木と畑で囲われたこの村には、雑音がない。やけに静かで、風の音が大きく聞こえた。
「お姉さん、ありがとうね」
不意なその言葉に、え、と間抜けな声が出る。
何が、と問う前に、尾高さんは笑って追加の茶を注いだ。
「栄一兄さん、とっても生き生きしてる。仕事のせいでもあるんだろうけど、多分、お姉さんがいるからだよ」
否定しようとした口を閉ざす。尾高さんの目は、じっとこちらをまっすぐに映していた。
「栄一兄さん、自分の決めたことに向かって、思い切り突き進む人なんだ。
でも、村にいるときは、それができなかった。家の仕事があったし、家族も家業に関してはうるさかったから。
栄一兄さんが今動けているのは、認めて、応援してくれる人がいるからだよ、きっと」
真っ直ぐな言葉が、全身に降りかかる。
「お姉さんは、兄さんの力になってると思う。だから、ありがとう」
役に立てている。もし、そうだとしたら。
どうしようもなく、嬉しくなってしまう。
「これからも、末永く栄一兄さんのことをよろしくね」
末永く、という言葉に引っ掛かりを覚えて首を傾げれば、尾高さんは満面の笑みで言った。
「栄一兄さんと結婚するんでしょう」
脱力する。もはや、否定の気力すらない。
「お姉さんができるなんて、僕も嬉しいな」
思わず、頭を抑える。いくら気力がわかないからと言って、渋沢さんの身内から誤解されているのは、さすがにまずい。
「尾高さん、あの」
「尾高さんだと仰々しいから、平九郎くんって呼んでくれたら嬉しいな、姉さん」
「平九郎くん、私と渋沢さんは、そういう関係ではなくて」
「そうなの? おかしいな、絶対そうだと思ったのに。可能性はゼロじゃないんでしょう?」
言葉に詰まる。私が、渋沢さんと結婚する可能性は。
「ない、よ」
なぜなら、私は。
「そっか。それは残念だけど……今はそうでも、変わることもあるかもしれないから。その時は、よろしくね」
平九郎くんも、平岡さんも結婚を勧めるが、やはり現実的でないと思う。渋沢さんは、彼の好きな人と一緒になるべきだ。
私はいずれ、自分のいるべき場所へ帰ることになる。なのに、そういう関係になるのは、あまりにも無責任で失礼ではないか。
私の都合で、渋沢さんの人生を悪いものにしたくはない。
それに、元の世界に帰るその時に、帰った後。
余計に悲しくなってしまう。
「……ああ」
そこまで思い至って、気づく。
私は、渋沢さんと離れるのが寂しいと思っているらしい。
渋沢さんが出張すると知った時、確かに感じたのは寂しさだった。連れて行ってくれると聞けば、私は単純にも嬉しくなった。
認めざるを得ない。渋沢さんに惹かれ始めているのだと。
好きになっても、いいことなどない。
後悔、呆れ、諦め。そんな思いが、じわじわと胸を侵食する。
「おまたせ。この村の若い人たちを集めてくれるって。順調に上手くいきそうだよ」
障子が開き、晴れやかな顔の渋沢さんが戻ってくる。
何とも言えない空気を感じ取られてしまったのか、私たちの顔を見比べて、やがて不思議そうに首を傾げた。
「何の話をしていたの?」
あのね、と話しだそうとする平九郎くんを慌てて止める。そんなこと、渋沢さんの耳には入れられない。
私の感情が伝わったのか、平九郎くんは頷いて何も言わなかった。私も誤魔化すように笑えば、渋沢さんはますます不思議そうな顔をした。
「いつの間に、二人は仲良くなったの?」
その質問にも答えず、皆でこの屋敷を後にする。今はそんなことよりも、仕事である。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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