江戸編一③_僕にも手伝わせて
男を追いかけたい気持ちはあったが、まずは渋沢さんの無事を確認したい。
私の名を呼ぶ声の元へ走る。その顔が見えた瞬間、どっと安堵が押し寄せた。
「ああよかった、無事だったね」
「渋沢さんも、ご無事でよかったです」
見る限り、どこにも怪我はない。本当に、よかったと思う。
「私のせいで、危険な目に合わせてしまって。本当に、すみません」
「ううん、こっちが謝らなきゃ。ごめんね、怖かったよね。やっぱり、離れるべきじゃなかった」
涙が滲むのを、情けなくも抑えることは難しかった。
「もしかして、転んだ?」
渋沢さんは、私の着物についた砂を払ってくれる。これは、転んだせいではない。
かぶった布を掴んで、先程のたばこの香りを思い出した。
「大丈夫です。親切な人に、助けてもらったおかげもあって」
「親切な人?」
「はい、私をかばってくれて」
この世界は、物騒である。
しかし、それと同時に、優しさに溢れた世界でもある。
染物屋の奥様、平岡さん、先ほど助けてくれた男性、そして渋沢さん。みんな、驚くほどに親切だ。
奇妙な居心地の良さを、覚えてしまうほどに。
「名前も聞けなかったんですけれど、また会えるでしょうか」
「どうだろう、江戸は広いから……でも、会えたらいいね。僕もお礼を言いたい」
きっと、またどこかで会えます。男の声が、脳裏によぎる。その時には、精一杯感謝の気持ちを伝えたいと思う。
「ああ、やっと見つけた。ねえきみ、さっきは驚かせちゃったみたいでごめんね」
びくりと、体が跳ねた。
壊れた機械のようにそちらを見れば、川辺で声をかけてきた男が、こちらに駆けてきている。
ここまで追ってきたということは、やはり。ぎゅっと、顔を隠す布を握り締めた。
「あれ、栄一兄さん?」
「平九郎、なんで江戸に」
え、と向かい合う二人を見る。
二人は、驚きの表情で互いを見つめ合っていた。
「手紙をちっとも寄越さないから、心配してたんだよ」
「悪かったよ、ばたばたしてて」
ただ、男と渋沢さんが親しげに笑い合うのを眺める。頭がだんだんと、状況を理解し始めた。
「お知り合い、ですか」
「うん、従弟だよ」
「尾高平九郎っていいます。
さっきはごめんね。気になって追いかけちゃったけど、余計に怖がらせちゃったよね」
眉を下げるその顔は、渋沢さんと同じく優しい色をしている。どことなく、渋沢さんに雰囲気が似ている気がした。
「この子とは、訳あって、京都で一緒に住んでたんだ」
「一緒にって、え?」
「色々あったんだよ」
「詳しく教えてよ」
苦笑いを返す。未来から来て保護されているなどとは、口が裂けても言えない。
「でも、栄一兄さんが元気そうでよかったよ」
「平九郎も元気そうでよかったよ。平九郎は、なんで江戸に?」
「藍を買うついでに寄ってたんだ。やっぱり江戸は賑やかだねえ」
「平九郎、まさか遊んでるんじゃないだろうね」
「そんなことないよ、ただ美味しいもの食べたり落語を見たりしただけ……あ」
「……楽しそうで何よりだよ」
先程までの緊張や恐怖は、いつの間にかどこかへ消えている。何故怯えていたのか、分からなくなるほどだ。
「みんな、栄一兄さんのこと心配してるよ。家には帰らないの? ここからなら、そんなに遠くないし。顔を見せたら、きっとみんな……」
「平九郎。僕は、帰らないよ」
帰らない。一点の迷いもない言葉が放たれる。
その言葉を聞いて、突如、心臓が掴まれたような、妙な拍動を感じた。
すっと周りの音が遠くなる。
これは、一体。
「もう、あの家には帰らない。帰れないんだよ」
頭の中で、声が異様に響く。それは、渋沢さんのものか、それとも。
「ねえ」
呼びかけられた声に、はっと意識が戻る。
深い水中から、水面に這い出たような感覚。
「疲れたよね。宿が取れてるから、今日は早めに休もう」
ドクドクと鳴る心臓を抑える。酸素が上手く体に巡っていないらしい。
先程の気持ち悪さは、何だろう。
「宿屋に行こう。こっちだよ」
尾高さんも行先は同じ方向のようで、並んで足をそろえた。
「あなたは栄一兄さんと一緒に住んでるんだよね。栄一兄さんがいつもお世話になってます」
よく見れば顔立ちも、柔らかいその雰囲気も、渋沢さんに似ている。血縁関係があると、それなりに似るものなのだろうか。
私の髪を見たはずだが、それについても触れてこない。私の警戒心を解くには、十分すぎる。
「栄一兄さんたちは、仕事で江戸に来たんだよね。いつまでここにいるの?」
「どうだろう。分からないけど、目的を果たしたらすぐ帰るし、長居するつもりはないよ」
「そっか。せっかくだから、一緒に江戸を楽しめればよかったんだけど」
「僕たちは仕事で来てるんだから、そんなことはできないよ」
「どんな内容の任務なの?」
「一橋家の兵力を増やすために、有志の人たちを集めるんだ」
「そっか、なるほど」
数秒、尾高さんは何かを思案するそぶりを見せる。
が、すぐに笑顔をこちらに向けた。
「ねえ。その仕事、僕にも手伝わせて」
「手伝う?」
「うん。僕も兄さんのために、ううん、日本のためにできることをしたいんだ」
尾高さんの、力強い声と瞳。何故、この世界の人たちは、ここまで必死になれるのだろう。
「うん、ありがとう。一緒に頑張ろう。正直に言うと、これからどうしようか悩んでたところなんだ。平九郎がいてくれたら、僕も心強いよ」
「へへ、役に立てるように頑張るよ」
話している間に、渋沢さんの取ってくれた宿に着く。
尾高さんは大きく手を振って、夏の木漏れ日のような笑顔を浮かべた。
「またね、栄一兄さん、お姉さん」
「うん、また明日」
遠くなる背中を見送る。
その姿が見えなくなれば、賑やかさが消え、空気は静かになった。二人でいるときの空気は、いつもゆったりと、落ち着いたものである。
「しばらくは、ここが僕たちの拠点だね。これから、頑張ろうね」
今日から、関東での生活が始まる。渋沢さんの任務は最重要事項だが、私にとっても大事なことがある。
私はここで、元の世界へ帰るヒントを掴むことができるのだろうか。
先は、誰にも分からない。何も見えない。
それでも、きっと何かが変わる。
そんな予感が、胸の中で小さく震えていた。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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