江戸編一①_この子に手を出すな
並ぶ店。行きかう人々。京都とは雰囲気の違う、活気のある町。
「とても賑わってるね。やっぱり江戸は人が多いなあ」
「そう、ですね」
絶え絶えになっている息を整える。しかし、私たちはとうとう江戸へ到着した。
京都から江戸まで、ものすごく長い旅だった。
延々と舗装されていない道を進み、精神的に参りそうになったときもあった。普段ろくに運動をしていない現代人が、何百キロを歩くなど、無謀だったのだ。
新幹線の偉大さを、身に染みて感じた。文明は素晴らしい。
「よく頑張ったね。ここまで来れば、あとはここを拠点に辺りの領地の村に行くだけだから、安心して」
大変だったものの、何事もなく無事に江戸へ到着できたのは、間違いなく渋沢さんのおかげだろう。
「ねえ、どこか見覚えのあるようなところはある?」
控えめに、問われる言葉。
首を横に振り、目を伏せる。分かりきったことではあるが、ここは私の知る東京ではない。
「まだ、来たばっかりだもんね。大丈夫だよ、きっと」
記憶を取り戻すヒントが。元の世界に帰るきっかけが。きっと、どこかにはある。
「さあ、まずは宿を見つけなきゃ。探してくるから、きみは少し休憩していいよ。何かあったら、すぐに呼んでね」
渋沢さんと別れて、店の並ぶ通りから少し外れた川辺に腰を下ろす。
喧騒が遠くなり、代わりに川の流れる音が耳に心地良い。
緩やかな風に吹かれながら、考える。これは、何という川だろう。もしかすると、元の世界にもある川なのかもしれない。
目の前にある川は澄みわたって、底まで見える。魚も泳いでいる。
現代の汚れ切った川を思い出すと、人間は罪深いと感じる。それでも、あの汚れが産業の発展に必要であったなら、仕方がないのかもしれないが。
重なった疲労のせいか、うとうとし始めると、不意に背後から声がかけられた。
「お姉さん、大丈夫?」
見れば、若い男がこちらをじっと見つめていた。
人当たりのよさそうな、愛嬌があり、端正な顔立ち。いわゆるイケメンという人種である。
睡魔でぼんやりとする頭で俳優のようだななどと考えていると、その手がこちらに伸ばされた。
「気分が悪いなら、こっちに」
あ、と思う間もなく、視界が開ける。
気が付いた時には、髪を隠すためにかぶっていた着物が男の手の中にあった。
「茶色の髪……?」
男から布をひったくり、走る。背後から呼び止める男の声が聞こえるが、立ち止まってなどいられない。
見られてしまった。
くれぐれも気を付けるように。平岡さんの声が頭によぎる。
眠気など一気に消えた。ただ焦る気持ちだけで足を動かす。砂利に足を取られながら、ただがむしゃらに。
何かあったら大声で呼ぶんだよ。渋沢さんの言葉に首を振る。
できるわけがない。そんなことをすれば、ただ迷惑をかけるだけである。
隠れる場所のない川辺から離れて、宿屋の並ぶ通りへ駆ける。
男の様子を伺おうとちらりと後ろに目をやっていれば、不意に体に鈍い衝撃が走った。
誰かにぶつかったと察し、反射的に謝る。と、ぐいと腕が掴まれた。
「あーあ、せっかくのお高い着物が台無しだ。どう責任取ってくれるんだい」
見るからに浪人といった風貌の男は、私の腕をきつく掴んだ。
ぶつかったのは、あまりよろしくない人だったらしい。どの世界でも、こういうことは存在するようだ。
助けを求めようと周りに目をやれば、そこそこ賑わっていたはずの通りには人がほとんどいない。関わりたくない気持ちはよく分かるが、あまりに冷たい。
どのようにこの場を切り抜けようかと考えていれば、男が刀に手をやった。
男にとっては、ほんの軽い脅しなのかもしれない。それは、効果覿面である。
ぴくりと一瞬跳ねた体は、固まって動かなくなってしまった。
この世界に来て早々に突き付けられた刀が、脳裏によぎる。目の前で白く光る刃が焼き付いて、離れない。
男は私の腕を掴んだまま、私を引きずってゆく。さっと失せる、全身の血の気。
きっと、私を本気で斬るつもりなどない。そのつもりであれば今すぐにでも斬れるはず。
手を振り切って、抵抗して、逃げ出せばいいのに。
なのに、体は動かない。少しでも抵抗すれば、その刀が私を切るのではないかと、そんな考えが私をがんじがらめにする。
助けて。誰に求めるわけでもなく、そう願う。
と、不意に男の手が離れた。
「この子に手を出すな」
ふわりと包まれる、馴染んだ香り。
「大丈夫?」
よく知った声、よく知った藍色。渋沢さんである。
その温かさに、泣きそうになった。
渋沢さんは刀の切っ先を男へ向けているが、男はひるむことなく、苦々しい、恨めしい、そんな顔で吐き捨てる。
「お武家様が、いい顔してんじゃねえよ」
刀が振り上げられるのをただ茫然と見つめていれば、どんと背中を強く押された。
「逃げて!」
鋭いその声に、止まっていた思考が動き始める。
渋沢さんを置いて、自分だけ逃げてもいいのだろうか。コンマ数秒悩んだが、答えは分かりきっている。
背を向け、地面を蹴る。足がもつれて少しずつしか前に進まないが、それでも前へ。
背後で、金属のぶつかり合う音がする。少しでも早く、少しでも遠くへ。
もし、私が小説の中のヒロインならば。あの場に留まり、渋沢さんを助けることができただろうか。
どうか、怪我なくあの場を切り抜けて欲しい。そう願うことしか、私にはできない。
振り返りそうになる自分を押さえつける。私にできることは、ただ彼の邪魔にならないよう、前に足を運ぶことだけだ。
息が上がる。無機質に光る刀が、脳裏に鮮明すぎる様子で浮かんで離れない。
怖い。怖い。
もし、渋沢さんがあれに斬られてしまったら。
今更、足が震えだす。足が地についていないように、ぐらぐら揺れる。
どうしよう。どうしよう。
じわりと、視界が滲んだ。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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