京都編一①_きみは、日本人?
この物語はフィクションです。
物語の中に、歴史上実在した人物などが出てきますが、異世界ファンタジー、創作の一種としてとらえていただければ幸いです。
また、一部の場面で宗教的な発言等がありますが、本作は特定の宗教、宗派等を支持・布教および批判する意図は一切ございません。
【渋沢栄一編】
吸い寄せられるように、一枚のお札を手に取る。手に取ったそれをぼんやりと眺めると、蛍光灯に透かされ、真ん中に渋沢栄一が浮かび上がる。
薄い一枚、ただの紙切れ。だが、ただの紙切れではない。これは、ただの紙切れ以上の価値がある。
じっと、透かしの渋沢栄一を見つめる。疑問に思う。新しいお札が流通するのは、まだ先の話ではなかっただろうか。何故、私の財布にこれがあるのだろう。まだここにあるはずのない、あってはならないものが、どうして。
紙幣の上で、渋沢栄一が微笑む。何故か、無性に泣きたくなった。
どうして、私はお札と目を合わせているのだろう。ああ、頭が回らない。分からない。何も。
ぐらり、と視界が揺れる。激しい目眩に、吐き気がぶり返す。加え、猛烈に眠い。
ぐるぐると、世界が揺れている。脳を直接揺さぶられているような。
ぐるぐる、ゆらゆら。この感覚は、知っている。これは、まるで酒に酔ったような。
ふっと、体が軽くなる。体の中のものが浮き上がる浮遊感。ぶくぶくと弾ける泡の音。ここはどこだろう。
目を開ける。そこに光はなく、ただ暗い水があるばかりである。
何故、私は水中にいるのか。何故、私は沈んでいるのか。
息ができない。しかし、包み込まれているような、どこか懐かしいような。
にゃあ、とどこかで猫の鳴く猫の声。それすらも、何故か郷愁の色を持つ。
沈む。ゆっくりと、下へ下へ、地の底へと。暗く、生温い水中を、果てしなく。
「さあ、目を閉じて――」
深い深い水の中で、何かが聞こえる。
「きみの旅が……良いものにならんことを――」
ああ、いったい誰なんだろう。そんな優しい声で呼ぶのは。
どれほど時間が経ったのだろう。
泥沼のようなまどろみの中。誰かが、私を揺さぶっている。頭が重い。
目を開けていないというのに、眩しさで眉間にしわが寄る。
朝、なのだろうか。私は、眠っていたのか。
会社に行かねばという使命感で、重い瞼をこじ開ける。明るい。眩しい。
かすむ視界に映る、透き通った青色。
そして、一人の男。
「ねえ、きみ」
男が、じっと私を見つめている。この人は、誰だろう。
ぱっちりとした目に、くるりと巻かれた髪の毛。その恰好は、今時珍しい着物に袴。
そして目を引くのは、その腰に差された二本の長い刀。
「……大丈夫?」
おずおずと差し出された手を、じっと見つめる。大きな骨ばった手だ。荒れたそれは、酷使している証なのだろう。
段々と、意識が覚醒してくる。
目の前の男は誰で、ここはどこなのか。
目の前の手を取らずに、体を起こす。少しふらついたが、体はきちんと動くようだ。
「……きみは、日本人?」
この人には、私が外国人に見えるのだろうか。
「よかった、外国人なら殺さなきゃいけないところだった」
「…………」
その穏やかな笑みからは想像できない、物騒な言葉。
視線が、腰の長い刀に吸い寄せられる。
ぞわっと、一気に背中の毛が逆立った。
「きみが何を思ってそんな恰好をしているのか分からないけれど、あんまり目立つ格好をしていると、一瞬で斬られちゃうよ。
今、みんな外国には敏感だから」
「……すみません」
反射的に謝ってしまったが、この格好の何が悪いのだろう。袴姿の男のほうが、珍しい格好ではないか。
辺りを見渡す。
晴れた青い空に、並木道。恐ろしいほどに咲き誇る桜の花。桜の花びらが、重力を持たないかのようにゆっくりと舞い落ちている。
どこか懐かしい、土と草のにおい。やけにのどかな場所だ。
「きみは、どこの人なの?」
ここはどこだろう。家からは遠いのだろうか。
わからない。とにかく、帰りたい。
「これから、どこに行くの? 危ないから、僕も一緒に行くよ」
「大丈夫です、一人で何とかします」
この妙な人からも、早く離れたい。
自分の状況を確認する。怪我は無し。持ち物もなし。
良い状況とは、とても言えない。
今は何時だろう。仕事に遅れては困る。
じっとしていても何も変わらない。とりあえず、この場を離れるべきだ。
男に軽く頭を下げて、適当なほうへ足を向ける。
「待ってよ」
後ろから声をかけられるが、ここで立ち止まってはいけない。
だが、歩き続ける私にも構わず、男は後ろをついてくる。
「あんまり動かないほうがいいよ。とにかく、家に帰ったほうがいい。
家はどこ? 名前は? あ、僕は渋沢っていうんだけど」
「大丈夫ですから、お構いなく」
「でも、本当に危ないよ。誰か連れはいないの?」
あしらってもなお、渋沢と名乗る男は、私の後ろをつける。
今の私にとって、一番危険なのはあなただと思います。そんな言葉を飲み込み、足を早める。
早く。早く。ここを離れなければ。
心臓がうるさい。平気なふりをしているが、実はかなり焦っている。
全く見覚えのない場所。訳の分からない状況。
じわりと、嫌な汗が滲む。
私の家は、どこだ。
「おい」
足が止まる。
いや、止められたというべきか。いつの間にか、立ち塞がる男が目の前にいる。
怖い顔をした男である。
私を睨みつける、鋭い目。身がすくむ。
その目は、私が生きていた中でも、見たことのないような。
「お前は、どこの者だ」
かちゃりと、やけに重苦しい音が鳴る。
吸い寄せられた視線の先には、ここにも、腰に刺された長い刀。
先程の比ではない。どっと、冷たい汗が流れ出る。
「答えられないのか」
何故。何故、こんな目に。
刀の切っ先が、目の前に突きつけられる。私にできることは、ただ、その光景を他人事のように見つめることだけだ。
「やめろ」
はっと、金縛りが解ける。
目の前に広がる青色。一筋の風が、私の頬を掠めてゆく。
「なんだ小僧、その怪しい女の仲間か」
「この子は、敵じゃない」
その青い背中は、これまでの人生で一番私を安堵させるものだった。
私と浪人の間に立ちふさがる渋沢さんは、腰の刀を抜いて構えている。
日光を受けて、眩いほどに白く光る刀。初めて間近で見た刀身は、驚くほどに綺麗で、触れたいとすら思う。
「今すぐ斬り捨てたいところだが、お前は平岡のところの従者だったな。騒ぎになるのはごめんだ、俺の気が変わらないうちに、その女を置いて去れ」
「断る。何の罪もない女の子を手にかけようだなんて、武士として恥ずかしくないのか」
張り詰めた空気が、一層濃くなる。浪人が音もなくおもむろに構えた刀は、しっかりと渋沢さんへ向けられていた。
私は、時代劇の中に紛れ込んでしまったのだろうか。
この張り詰めた空気に似合わない、ちゅんちゅんと可愛らしい鳥の声が、頭上を通り過ぎる。
ざりっと、砂利を踏む音を皮切りに、男が刀を振りかぶった。
振り下ろされる刀身。キンと甲高い、金属のぶつかる音。渋沢さんの刀が、男のそれを受け止めている。
ど、と頭の血が失せる。
もし、あれを受け止められていなかったら。
「辞世の句は思いついたか」
「それが必要なのは、あなたじゃない?」
渋沢さんの足が一歩前へ出る。
押し返され弾かれる、男の刀。体勢を崩した男の腹部に、渋沢さんの蹴りがめり込む。
お腹を抱えてうずくまる男。直視できずに思わず目をつむった。
「走って!」
力強く腕を引かれ、すくんでいた体がようやく動き出す。
背後から追いかけてくる、荒々しい怒声と足音。
考える暇などない。もつれそうになる足を必死に動かし、地面を蹴った。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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