京都編四③_大丈夫じゃない
「来週から、関東に向かうことになったよ」
冷めた里芋の煮っころがしをつつきながら、渋沢さんは笑う。
渋沢さんが小屋へ戻ってきたのは、日がどっぷり沈み切ってからだった。普段から帰宅が遅い時間になることは多々あったが、今日はさらに遅い。日が落ちてから数時間は経っている。
「江戸の近くまで行って、一橋の領地の村で人材を集めるんだ」
おかわりのご飯をよそいながら、嬉しそうな笑顔を眺める。渋沢さんにとって、関東での任務は普段の仕事とは別物なのだろう。
江戸は遠い。渋沢さんとは、しばらくの間会えなくなるはずだ。
新幹線などもちろんないのだから、京都から東京まで3時間で到着することはない。どのくらいの期間かはわからないが、渋沢さんは一日や二日で京都に帰ってくることはないだろう。この世界で他県に行くということは、そういうことである。
何でも、一人でできるようにならなければならない。いつまでも、彼が私の面倒を見てくれると思っていてはいけない。
「あのね」
箸を止めて、渋沢さんはこちらに目を向ける。
「きみに、一緒に来てほしいんだ」
ご飯をよそう手が止まる。聞き返すように目を向ければ、渋沢さんは身を乗り出した。
「僕は相変わらず炊事とかできないし、きみがいてくれればとっても助かるし、平岡さんもが一緒に行くことに前向きなんだ。
それに、きみが元の世界で住んでいたのは、江戸だったんでしょう。江戸を拠点にするつもりだし、もしかしたら、の知ってる人や物があるかもしれない。記憶が戻るきっかけとか、帰るための手がかりとかがあるかもしれない。
いい機会だと思うんだけど、どうかな」
突然目の前に差し出された道。ぱっと、視界が明るくなったような、そんな気がした。
この行き詰まっている状況を変えるヒントがあるのなら。
「関東は遠いから、かなり体力を使うと思う。しんどいと思うし、もちろん無理にとは言わないけど。でも、きみがいてくれたら、僕も助かるから」
じわじわと、何かが胸の奥からこみあげる。私は、渋沢さんについて行ってもいいらしい。
少しは彼の役に立てていると、自惚れてもいいのだろうか。
「ありがとうございます。よければ、是非お供させてください」
帰るきっかけが掴めるかもしれないということ、自分が僅かながらでも頼られているということ。それらが、私の胸を高鳴らせる。
「よかった。そうと決まれば、出発までに準備を整えて行かなきゃね。まだ時間はあるけど、いろいろ必要なものもあるだろうし、早めに買い出しもしなきゃ」
とは言っても、私には必要なものなどほとんど分からない。私が知る旅支度とは訳が違うのだ。
「渋沢さんは、こういった移動には慣れているんですか?」
「うん、そこそこね。僕の地元は江戸より遠いからね」
そうであれば、旅のいろはは渋沢さんに任せた方がいいだろう。
会話を続けながら、食卓を片付ける。そろそろ寝なければいけない時間である。
元の世界では、日付が変わってから就寝するのが常だったが、ここでは違う。テレビもスマホもないこの世界は、夜が早いのだ。
寝る準備に畳んでいた布団を引っ張れば、ずきりと腕が痛む。思わず、小さく声が漏れた。
「筋肉痛が悪化してる? 素振りが原因だよね……ごめんね」
「いいえ、私がやりたかったので」
と言ったものの、体が重い。腕だけだと思っていた痛みは、足や背中など、全身を浸食している。運動をさぼっていたつけである。これからはエレベーターに頼らず、階段を使おうと決めた。
「きっと、明日になったら治ります」
中途半端に折れている布団を持ち直せば、渋沢さんはわたわたとこちらに寄る。
「僕がやるよ」
「いえ、このくらい――」
突如、ぐらりと視界が揺れる。あ、と思った。
すぐに、布団につまずいたのだと気付く。筋肉痛の足が、うまく動かなかったらしい。
「あぶな……」
ぐいっと、腕を引かれる感覚。
倒れるはずだった体は、つんのめって目の前の体にぶつかる。足場の悪い布団が、私の足を滑らせた。
「うわ」
倒れる。渋沢さんの体と共に。
肘を打ったかなとか、頭をかばってくれたんだなとか、そんなことは飛んでしまった。
今、唇に触れたのは。
「わ、ご、ごめん」
「……いえ、謝るのは私です。本当にすみません」
ドタバタと転がるように飛び退いた渋沢さんを見て、冷静になる。布団に沈んでいた体を持ち上げた。
「大丈夫ですか?」
「僕、ちょっと大丈夫じゃない」
「え」
「頭冷やしてくる!」
家を飛び出していった渋沢さんに声を掛ける間もなく、その姿は遠くに消える。ぽかんと、誰もいなくなった部屋を見つめた。
「事故とはいえ……」
悪いことをした。
唇をなぞる。まだ、先ほどここに触れた唇の感覚が、残っている。
最後に誰かと唇を重ねたのは、いつだろうか。ひどく昔のようにも思えるし、つい最近のようにも思う。それも、消えた記憶の一部かもしれない。
今回のものも、忘れた方がいい。これは事故だ。気にする必要もないことのはずである。
それなのに。
わずか数センチの距離の黒い瞳、触れた唇の熱さ。頭の中を巡って、消えてくれそうにない。
布団の上でうずくまる。
大丈夫じゃないのは、私もだ。
「おはようございます」
「……おはよう」
会話が続かない。
翌朝、顔を合わせたものの、渋沢さんと目が合わない。
気まずい空気が流れているのも、気のせいではないだろう。
昨晩は、あの事故以降、結局言葉を交わしていない。あの後部屋へ戻ってきた渋沢さんを見ぬふりして、私は狸寝入りを決め込んだのだ。
申し訳ないとは思っている。しかし、口に出さない。
正直に言うと、私は全力で逃げている。
ただただ、恥ずかしくて消えたい気持ちでいっぱいなのだ。
しかし、お互い子供ではない。明日、いや、今日中には、この気まずさも溶けて消えていくだろう。
「最近、風が強いですね」
「うん、春だからね。いろんなものが吹き飛ばされそう」
適度に他愛のない会話をぽつぽつと繋げていれば、次第に緊張は解けてゆく。
こうして、都合の悪いことは、なかったことにして消してゆく。それが、一番いい。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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